おばあちゃんは第二王子と出会いました
王城の門が、重々しい音を立てながら、ゆっくりと開いた。
その向こうに現れたのは、空へ伸びる高い塔と、陽の光を受けて白く輝く石壁だった。荘厳で、隙がなく、いかにも王家の威厳を示す立派な城だ。
けれど、その城にはどこか沈んだ気配があった。
城門の柱にも、塔の窓にも、回廊の壁にも、長い黒布が掛けられている。風が吹くたび、それらは音もなくゆるやかに揺れ、華やかなはずの王城に深い影を落としていた。
チヨは馬車の窓からその光景を見上げ、首をかしげた。
「立派なお城だけれど……どうしたのかしら、この黒い布」
その問いに、レオンはすぐには答えなかった。
わずかに視線を落とし、黒布の揺れる先を見つめてから、静かに口を開く。
「喪に服している」
「誰か亡くなったの?」
チヨが聞き返すと、レオンは短く答えた。
「父王だ」
風が吹き抜け、黒い布がふわりと持ち上がった。
その様子を見ながら、レオンは淡々と続ける。
「先月、亡くなった。だからもうすぐ、私が王に即位する」
その言葉は静かだったが、軽くはなかった。
王になる。たったそれだけの言葉の中に、どれほどの責任と重圧が詰まっているのか、チヨにもわかった。
彼女は隣のレオンの横顔をじっと見つめた。
若い。まだ青年と言っていい年頃だろう。けれど、その表情には年齢以上の疲れが滲んでいた。
「それは大変ね」
チヨがそう言うと、レオンは少しだけ遠くを見るような目をした。
「父は長く病に伏せっていた」
その声には、懐かしむ響きよりも、長く続いた現実を語る疲労のほうが濃かった。
「政務は、ほとんど私が担っていた。国のこと、貴族のこと、軍のこと……気づけば毎日そればかりだった」
レオンは城を見る。
「そのせいで、弟たちにはずいぶん寂しい思いをさせてしまった。私は政治に追われて、彼らと向き合う時間もない。兄として情けない話だ」
「いいえ。あなたは立派よ」
レオンがわずかに目を見開く。
チヨは、言い聞かせるように続けた。
「誰かのために必死で働いてきた人を、情けないなんて言わないの。きっといい王様になるわ」
まっすぐで、飾りのない言葉だった。
だからこそ、レオンの胸に深く入った。
彼は何か言いかけるように唇を動かす。
「……チヨ、私は――」
そのときだった。
廊下の奥から、場違いなほど楽しげな笑い声が響いてきた。
「まあっ、セドリック様、こんなところで……いけませんわ!」
「いけないことの方が、興奮するだろ?」
「まあ、悪いお方」
若い男の声に続いて、女のくすくす笑う声が重なる。
王の死を悼む黒布に包まれた城には、ひどく不似合いな明るさだった。
やがて廊下の曲がり角から、二人の姿が現れる。
金髪の青年が、派手なドレス姿の女を腰に抱いて歩いていた。青年の髪は陽を受けてやわらかく光り、整った顔立ちには人を惹きつける華やかさがある。だが、その口元には軽薄で、どこか人をからかうような笑みが浮かんでいた。
青年はレオンの姿を見つけると、目を細めてにやりと笑った。
「これはこれは、兄上じゃないか」
女もそれにつられて前を見た。
そして次の瞬間、その顔から血の気が引いた。
「王太子殿下……!」
彼女は慌ててセドリックの腕から離れた。
「も、申し訳ございません!」
ぺこぺこと何度も頭を下げ、そのまま半ば逃げるように小走りで廊下の奥へ去っていく。
足音が遠ざかると、廊下はしんと静まり返った。
セドリックはその背中を見送り、肩をすくめる。
「あーあ。逃げられた」
レオンの声が、ひやりと低くなった。
「セドリック。父上の喪が明けていないうちに女遊びとは……お前は王族としての自覚がないのか」
その叱責にも、セドリックはまるでこたえた様子がない。
「そんな怖い顔するなよ」
くすっと笑い、気だるげに片手を上げる。
「兄上だって女を連れ込んでるじゃないか」
レオンの顔が、一瞬で固まった。
「違う!」
声が一段高くなる。
「彼女は王室付きの教師だ!」
セドリックの視線が、ようやくチヨへ向いた。
その目が、興味を持った猫のように細められる。
「教師?」
くすりと笑う。
「じゃあ、俺の先生ってわけだ」
そう言うと、セドリックはためらいなくチヨの前まで歩み寄った。
ひらりとその手を取り、指先に軽く口づける。
「はじめまして。第二王子のセドリックです、先生」
その仕草は優雅で、慣れていて、いかにも女を口説き慣れた男のものだった。
けれどチヨは少しもひるまない。
にこりと笑って答える。
「チヨよ。よろしくね」
その反応が意外だったのか、セドリックはほんのわずかに眉を上げた。普通なら、照れるか怯えるか、少なくとも何かしら反応がある。だが目の前の少女は、まるで近所の子に挨拶でもするような気軽さだ。
セドリックは面白そうにチヨを見つめた。
「ねえ先生。俺、さっそく教えてほしいことがあるんだ」
「なに?」
チヨが穏やかに問い返すと、セドリックは口元をゆがめて言った。
「この世で一番気持ちいいこと、とか?」
廊下の空気が、ぴしりと凍った。
騎士たちがそろって青ざめる。
「セドリック!」
レオンの怒声が飛ぶ。
だがセドリックは気にも留めず、むしろ楽しそうに肩を揺らした。
「そんなに兄上が熱くなるなんて珍しいな。まさか恋人?」
「違うと言っているだろう! お前は一体どうしてまた……!」
怒りをあらわにするレオンとは対照的に、チヨは終始にこやかなままだった。
そして、何でもないことのように言った。
「いいわよ。この世で一番気持ちがいいこと、教えてあげる」
「チヨ……!?」
今度はレオンが絶句する番だった。
セドリックも一瞬目を丸くしたが、すぐに楽しそうに笑い出す。
「へえ。面白い」
その目が、すっと細くなる。
「ますます気に入った」
チヨはそんなセドリックを見ながら、ちらりとレオンへ目をやった。
そしてほんの一瞬だけ、口だけを動かす。
(ま)
(か)
(せ)
(て)
レオンは眉を寄せ、いかにも止めたいという顔をした。だがチヨの表情が妙に落ち着いているのを見て、やがて観念したように口をつぐむ。
チヨはあらためてセドリックを見た。
「じゃあ、部屋に案内してくれる?」
そこで一拍置き、さらりと続ける。
「ベッドがある部屋がいいわ」
騎士たちの顔色が変わった。
「えっ」
「ベ、ベッド……?」
「まさか本当に……?」
だが、セドリックはむしろ愉快そうに笑みを深めた。
「ああ、案内するよ。君も、堅物な兄上より僕のほうがいいだろうし」
そう言ってセドリックはチヨをエスコートし、そのまま二人は廊下の奥へと去っていった。
残された騎士たちは、慌ててレオンを見る。
「殿下! よろしいのですか!」
「チヨ殿が連れて行かれてしまいましたが!」
「本当に止めなくてよろしいのでしょうか……!」
レオンは腕を組み、深くため息をついた。
「心配するな。彼女には何か考えがあるのだろう」
そしてぼそりと続ける。
「……どちらかというと、心配なのはセドリックの方だ」
騎士たちは顔を見合わせた。
しばし沈黙したのち、ひとりがぽつりと呟く。
「……確かに」
別の騎士も真顔で頷く。
「チヨ殿、だもんな……」
「セドリック殿下、無事で済むだろうか」
第二王子セドリックは、まだ知らない。
自分が今、どれほど厄介で、どれほど強い相手に目をつけたのかを。
――彼女の、本当の恐ろしさを。




