表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/39

5 第二王子の危機

 セドリックの部屋は広かった。

 王子の私室と聞いて誰もが思い浮かべるような、豪奢で美しい部屋だった。

 高い天井には繊細な装飾が施され、壁には上質な織物が掛けられている。窓辺には重たげなカーテンが垂れ、磨かれた床には深い色合いの絨毯が敷かれていた。奥には大きなベッド、手前には来客用のソファと小卓。どこを見ても気品と贅沢が行き届いていて、王族にふさわしい空間だった。


 けれど、チヨにはその部屋が、少しだけ寒々しく見えた。

 整いすぎていて、誰かが心からくつろいだ気配が薄い。

 まるできれいに飾られたまま、ずっと誰にも触れられていない部屋のようだった。


 チヨは静かに室内を見回し、それから感心したように頷いた。


「まあ、立派なお部屋だこと。……掃除が大変そうね」


 セドリックは一瞬きょとんとして、それから吹き出した。


「そんな感想を言う女性は初めてだよ」


 肩を揺らしながら笑う。けれどその笑みは、どこか作り慣れたものにも見えた。


「……ここに来る女性はたいてい、自分が王妃になれるんじゃないかって期待してるからね」


 セドリックは小さくつぶやいた。

 そんなセドリックを気にも留めず、チヨはベッドに座り込んだ。


「何をしているの? 早くベッドに来なさい」


 ムードも何もない提案に、セドリックは少し目を丸くする。


「この世でいちばん気持ちいいこと、知りたいんでしょう」


 セドリックはその言葉を聞いて、ふっと口元を緩めた。


「俺の先生はずいぶん大胆だね」


 セドリックはくすりと笑った。

 軽口を返しながらも、どこか気を抜いたようにベッドへ向かい、その端に腰を下ろす。


「それで?」

「うつぶせになりなさい」

「……俺が?」

「そうよ」


 迷いのない声だった。

 セドリックは少しだけ肩をすくめる。


「リードされるのは初めてだな」


 そう言って、素直にうつぶせになった。

 柔らかなマットレスが、その体を静かに受け止める。


 次の瞬間、チヨはためらいなくベッドに上がり、セドリックにまたがった。


「えっ、ちょ──」


 驚いて顔を上げかけたセドリックに、チヨは落ち着いた声で言う。


「ほら、力を抜いて」


 ぐっ、と指が入った。


「っ……あ!」


 短い悲鳴が漏れる。


「若いのに、ずいぶん固いのね」


 ぐり、ぐり、と遠慮なく押す。

 押されるたびに、セドリックがびくりと揺れた。


「ここよ。ここが固いの」

「っ、ま、待っ……そこ、ほんとに……」


 ぐっ、ぐっ、と、ためらいなく押し込まれる。

 最初は跳ねるようにこわばっていた体が、少しずつ、少しずつ沈んでいく。

 体に、知らず知らずのうちに積もっていたものが、ゆるんで流れていくようだった。


「……あ」


 しばらくして、セドリックが小さく呟いた。


「……何これ」


 チヨは当然のように言う。


「肩たたきともみほぐしよ」


 そのまま肩から背中へ、ゆっくりと手を移していく。

 力強いのに、不思議と痛いだけではない。

 押されるたび、胸の奥に張りつめていたものまでほどけていく気がした。

 やがてセドリックは目を閉じ、深く息を吐いた。


「……気持ちいい」


 その声は、もうさっきの軽薄な笑いを含んでいなかった。

 肩の力を抜いた、年相応の青年の声だった。

 チヨは満足そうに頷く。


「でしょう? この世でいちばん気持ちいいことよ」


 セドリックは苦笑するように、顔を枕に埋めた。


「これは反則だ……。こんなの、太刀打ちできるわけない」

「なにも考えなくていいの」


 チヨの声は、どこまでも穏やかだった。


「少し、休みなさい」

「……ん」


 チヨは背中をほぐしながら、静かに言った。


「若いのに無理をしているのね。作り笑いばかりしている人ほど、こういうところに出るものよ」


 セドリックの呼吸が、わずかに止まる。


「……なんで分かった?」

「年を重ねるとね、見えるようになるものがあるの」


 チヨは手を止めずに続ける。


「セールスとか保険とか、いろんな人が来るでしょう? 自分を押し殺して人をだまそうとする人が」


 少しだけ、懐かしむような目をした。


「あの子たちも必死だったんでしょうね。自分が生きるために」


 それから、やわらかな声で続ける。


「でもね、人を騙すことは、たいてい長続きしないでうまくいかないものよ」


 セドリックは、しばらく黙っていた。

 その沈黙は重くはなかった。

 むしろ、安心して黙っていられるような静けさだった。


 やがて、彼はぽつりと呟く。


「……兄上は優秀すぎるんだ」


 チヨは何も言わず、続きを待った。


「強くて、正しくて、賢い。だからこそ、貴族たちは怖がる。自分たちの思い通りにならない王は都合が悪いからな」


 少し苦く笑った。


「だから俺は、遊び人のふりをしてる。王位に興味なんてない、女遊びしか頭にない馬鹿な王子だって、そう思わせておけばいい」


 チヨは黙って背中を押す。

 その沈黙に促されるように、セドリックの声がさらに低くなる。


「貴族令嬢の相手をして、貴族どもの機嫌を取って、ガス抜きをして……そうしていれば、兄上に向くはずの敵意が少しは逸れる」


 そこで一度、言葉が途切れた。


「兄上は、いい王になる。だから俺は、悪い王子でいい」


 その声には誇りがあった。

 けれど同時に、誰にも言えなかった疲れと、寂しさも混じっていた。


 チヨはぽん、と軽く肩を叩いた。


「偉いのね」


 そのたったひと言が、思いがけず深く刺さったのか、セドリックの指先がわずかにシーツをつかんだ。


「……そんなふうに言われたの、初めてかもしれない」


 かすれた声だった。


「皆、俺のことを遊んでいるだけの男だと思ってる。そう見えるようにしてきたのは俺だけど……でも、たまに分からなくなるんだ」


 チヨは静かに聞いていた。


「俺、本当にこれでよかったのかなって。誰にも本当のことを言わないまま、笑ってばかりいて……気づいたら、自分でも何が本音か分からなくなる時がある」


 その言葉は、弱音というより、ようやく零れ落ちた本心だった。

 チヨは背に触れたまま、やさしく言った。


「では、なおさら正直に言わなくてはだめね」

「……誰に?」

「お兄さんに、よ」


 セドリックは目を閉じたまま、弱く笑った。


「無理だよ。兄上はきっと、俺のこと軽蔑してる」


 その瞬間だった。


「軽蔑などしていない」


 低い声が、扉の方から響いた。

 部屋の空気がぴたりと止まる。

 振り向くと、そこにレオンが立っていた。


「兄上……!」


 セドリックが目を見開く。


「お前の苦悩に気づいてやれなくて、すまなかった」


 セドリックは言葉を失った。

 しばらくして、ようやく掠れた声を絞り出す。


「……いつから?」

「最初からよ」


 チヨは悪びれもせず肩をすくめた。


「あなたのことが心配だったのでしょう。扉の外で、ずっと落ち着きなくうろうろしていた気配がしたもの」

「俺の心配……?」

「そうよ。あなたが悲鳴をあげた時なんて、外ですごい音がしたわ。慌てて何かにぶつかったのじゃないかしら」


 その言葉に、セドリックは思わずレオンを見る。


「兄上が……?」


 レオンは咳払いした。


「……あんな状況で平然としていられる方がおかしいだろう」


 あまりにも不器用な言い訳だった。

 セドリックは一瞬きょとんとして、それからふっと笑った。


「あははっ……はははははっ!」

「なぜ笑う」

「ふっ……くく、あの冷静沈着な兄上が、そんなふうになるなんて」


 レオンは眉を寄せた。


「私は昔から、そう器用な人間じゃない」

「嘘だろ。ずっと完璧だったじゃないか」

「お前にはそう見せるしかなかっただけだ」


 そのひと言に、セドリックの表情が揺れた。

 レオンは弟を見つめたまま、静かに続ける。


「父上が亡くなってから、私はずっと考えていた。王になる者が弱さを見せてはいけないと。迷いも不安も、誰にも見せずにいなければならないと思っていた」


 少しだけ声が低くなる。


「だが、そのせいで……お前にまで、何も言わせない兄になっていたのかもしれない。俺は、お前の兄失格だ」


 レオンの目には、はっきりと後悔がにじんでいた。

 部屋の中が、しんと静まる。

 セドリックはゆっくりと身を起こした。

 その目は赤くなりかけていたが、必死にこらえているのが分かった。


「違う……兄上は、何も悪くない。俺は……兄上の役に立ちたかっただけなんだ」


 ぽつりと落ちたその言葉は、あまりにも幼く、まっすぐだった。


「兄上が立派だから。すごいから。だからせめて……兄上のためになる弟でいたかった」


 声が震える。けれどもう、止められなかった。

 レオンは息を呑み、それからゆっくりと弟のそばまで歩み寄った。


「……馬鹿だな」


 その声音は、叱るものではなく、どうしようもなく愛しいものを見るような響きだった。


「お前も立派な、私の弟だ」


 レオンはセドリックの肩に手を置く。


「お前が私のために動いてくれていたことを、私は誇りに思う。苦しいやり方だったとしても、それでもお前は、国と私を守ろうとした」


 セドリックの目から、とうとう一筋、涙がこぼれた。


「兄上……」


「ありがとう、セドリック」


 たったそれだけの言葉だった。

 けれど、それはセドリックがずっと欲しかった言葉だったのかもしれない。

 彼は顔を伏せ、肩を震わせた。

 泣くまいとしているのに、もう抑えきれなかった。

 レオンはそんな弟を見て、一瞬ためらい、それから静かに抱き寄せた。

 セドリックは驚いたように息を呑み、次の瞬間、子どものようにその胸元をつかんだ。


「……っ、兄上……!」


 ずっと強がってきたものが、そこでようやくほどけた。


「すまなかった」


 レオンは弟の頭に手を置き、低く言った。


「これからは、一人で背負うな。私も背負う。お前は私の弟だ」


 セドリックは何も言えず、ただ頷いた。

 肩を震わせながら、何度も、何度も。


 少し離れた場所で、その様子を見ながら茶をすすっていたチヨは、そっと目を細めた。


「やっぱり、似たもの兄弟ね」


 兄弟ははっとして顔を上げる。

 涙でぐしゃぐしゃのまま見られていたことに気づき、セドリックが慌てて顔を拭った。


「……先生、なんでお茶飲んでるの?」

「こんな場面でもまた茶か」

「まあまあいいじゃない。泣いた後は、ほっとするお茶で水分補給よ」


 レオンが小さく息を吐く。


「私とセドリックの分もあるんだろうな」

「ええ。ちょうど飲み頃よ」


 セドリックが鼻をすすりながら、少しだけ笑った。


「兄上、不思議な人を拾ってきたな」


 チヨはすぐに言い返す。


「拾ったのはわたしよ。川から流れてきたのだから」


 セドリックは涙のあとを残したまま、くしゃりと笑う。

 レオンも呆れたように額を押さえたが、その口元には確かに笑みがあった。

 泣いて、笑って、ようやく胸のつかえが取れたような空気が、部屋の中に満ちていく。

 豪奢なのにどこか冷たかったその部屋が、今は少しだけ、あたたかく見えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ