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33 皇帝との対峙

 ゼノヴァルトは口元をわずかに上げた。


「返してくれ、とは心外だな」


 低く、よく通る声だった。


「こいつは自らここへ来た。おかげで戦争は止まった。むしろ感謝されてもいいくらいだろう」


 ゼノヴァルトはレオンを見る。


「まあ、戦ができなかったのは残念だがな。こいつの手腕を見てみたかったが」


 レオンが何か言おうとしたが、その前にチヨが一歩前へ出た。


「軽々しく、戦争をするなんて言うんじゃありません」


 ぴたり、と空気が止まる。


 叱責だった。けれど怒鳴ったわけではない。チヨの声は、むしろ静かだった。


「戦争は、地図の上で線を引くことじゃないわ」


 ゼノヴァルトは黙って彼女を見る。


「大切な人と、もう二度と会えなくなることよ」


 レオンの喉が、わずかに動いた。

 ルカもセドリックも、息をのんでいた。アルベールはただ、チヨの背中を見上げている。


 ゼノヴァルトは何も言わなかった。


 その沈黙を見て、チヨはふいに問いを変えた。


「あなた、お父様は好き?」


 チヨの視線は、飾ってある大きな肖像画に向いた。目の前にいる皇帝によく似た、けれど年を重ねた男の肖像画だった。


 予想もしなかった言葉だったのか、ゼノヴァルトがわずかに目を細める。


「ああ」


 答えは即座だった。


「我が亡き父は偉大だ。この国をここまで大きく、強くした。だからこそ、その意思を私が継ぐ。それが私の務めだ」


 誇りのある声だった。


 チヨはそれをまっすぐ受け止め、それから言った。


「戦争は、子どもが父を知らないまま育つのよ」


 その一言は、石の間に深く落ちた。

 周りにいた兵士たちが、息をのむ。


「抱き上げてもらった記憶もない。声も知らない。叱られたことも、褒められたこともない。ただ“父は戦で死んだ”とだけ教えられて育つの」


 言葉を口にした瞬間、チヨの胸に遠い記憶がよみがえった。

 姉の代わりに育てていた娘。


 幼い子の、小さな手。


 夜更けに親を求めて泣いた声。


 姉も、その夫も、戦争で死んだ。


 自分にできることは全部したつもりだった。食べさせて、眠らせて、熱を出せば看病して、寂しくないように笑ってみせた。


 それでも。

 父親の代わりには、なれなかった。


 どれだけ抱きしめても、埋められないものがあると知っていた。


 だからチヨは、ゆっくりとレオンを見た。


「家族を失う悲しさを、その苦悩を、この子は知っている。だから戦争を止めに来たのよ」


 それから、もう一度ゼノヴァルトへ向き直る。


「そんな優しい王様を、人質にしておくなんてもったいないわ」


 静かだった玉座の間に、長い沈黙が落ちた。


 ゼノヴァルトはしばらく何も言わず、ただチヨを見つめていた。やがて、ふっと息を漏らすように笑う。


「……いい教育係を持ったな」


 その言葉に、レオンがわずかに目を見開く。


 ゼノヴァルトは玉座にもたれたまま、ゆっくりと口を開いた。


「いいだろう」


 そのひと言に、その場の空気が張りつめる。


「王国を我が属国にする。だが、王はレオンのままとする」


「……な」


 思わず声を漏らしたのはレオンだった。


 ゼノヴァルトは口元をつり上げる。


「レオンは国に返そう。それでどうだ」


 意外すぎる条件に、その場の誰もすぐには言葉を返せなかった。


「一体、なぜ」


「帝国に従う意思があるかを試しただけだ。ずっと拘束をするつもりはない。……まあ、最初は本当に人質にするつもりだったがな」


「なんでそんな変なことをするんだ!」


 アルベールがたまらず叫んだ。


 その幼い怒声に、ゼノヴァルトは視線を向ける。


「お前が言ったんだろう、坊主」


「え?」


「強き者は弱き者を従わせるだけではだめだ。従いたいと思ってもらうからえらいんだ――とな」


 アルベールはぽかんと口を開けた。


 次の瞬間、はっと目を見開く。


「あっ」


 まじまじとゼノヴァルトの顔を見る。


「お前……あの時の!」


 川辺で一緒に石切りをした男。


 チヨの隣で、妙に偉そうなくせに妙に楽しそうに笑っていた男。


 それが皇帝だと、ようやくつながったのだ。


 ゼノヴァルトはおかしそうに喉を鳴らした。


「無理やり従わせるのではなく、従いたいと思わせてみたいと思ってな。寛大な処置だ。人質になんてしようものなら、その娘は私を許さないだろう」


 視線をアルベールからチヨへ移す。


「力だけでは手に入れられないものがある。それを教えたのは、お前だ」


 真っ直ぐな声だった。


 さっきまでの玉座の間の空気とは別の熱が、そこにはあった。


 ゼノヴァルトは玉座から立ち上がると、ゆっくりと階段を降りてくる。そしてチヨの前で足を止めた。


 磨かれた床を踏む足取りには一切の迷いがない。まるで勝利を確信した獣のような堂々たる歩みだった。


 そのままチヨの前まで来ると、彼はじっと彼女を見下ろした。


「チヨ」


 声色が、先ほどまでとは違っていた。


 からかいではない。試しでもない。


 本気だった。


「帝国の王妃になれ」


 空気が凍った。


「は?」


 真っ先に声をあげたのはセドリックだった。


「……陛下?」


 レオンも思わず眉をひそめる。ルカはぱちぱちと瞬きを繰り返し、アルベールは口をぽかんと開けた。


「ちょ、ちょっと待ってよ!」


 ルカが我に返ったように声を上げる。


「話が飛びすぎじゃない!?」


「ルカ、お前はちょっと黙ってろ!」


 皇帝に対しツッコミをいれたルカを、セドリックは制止する。


「何を驚く。私は欲しいものは欲しいと言うだけだ」


 彼は改めてチヨへ向き直った。


「お前は面白い。私に物怖じせず、言うべきことを言う。力に媚びず、弱き者を見捨てず、それでいて甘いだけでもない」


 低くよく通る声が、玉座の間に響く。


「私の隣に立て。帝国を見ろ。好きに口を出せ。お前なら、それが許される」


 ゼノヴァルトはさらに畳みかけた。


「宝石が欲しければ山ほどやる。城でも庭園でも離宮でも、お前の好きに作り変えろ。茶室でも畑でも好きなだけ作らせてやる」


「……畑?」


 チヨがそこだけ少し反応した。


 レオンがぎょっとする。


「そこに反応しないでくれ」


 ゼノヴァルトはますます調子づいた。


「帝国中の珍しい茶葉も集めよう。お前専用の温室も作らせる。毎日、世界中の菓子を取り寄せてもいい」


「あらあら」


 チヨは目を丸くした。


「ずいぶん気前がいいのね」


「当然だ。お前を迎えるのだからな」


「どうだ、チヨ。帝国へ来い。私の隣で、この国を変えてみろ」


 玉座の間の視線が、いっせいにチヨに集まる。


 だが当の本人は、きょとんとしたまま瞬きをひとつしたあと――いつものように、やわらかく笑った。


「そうねぇ」


 その笑みを見た瞬間、なぜかレオンは嫌な予感がした。


 チヨは小首をかしげ、穏やかな声で言う。


「五十年早いわね」


 沈黙。


 本当に、ぴたりと場が止まった。


 ゼノヴァルトの表情が、見事なくらい固まる。


「……何?」


 聞き返した声が、ほんの少しだけ裏返っていた。


 チヨはまったく悪気なく、にこにこと続ける。


「だって、あなた。まだまだ青いもの」


「青……」


「勢いだけでぐいぐい来るでしょう? そういうの、若い子には効くのかもしれないけれど」


 チヨはそこでふふっと笑う。


「私はそんなのでころっといかないのよ」


 ゼノヴァルト、撃沈。


 今度こそ、誰の目にもはっきりわかるほどだった。


 さっきまで絶対の自信に満ちていた皇帝が、そこで完全に言葉を失ったのである。


 ゼノヴァルトはしばらく無言のままチヨを見つめていたが、やがて珍しく本気で困ったような顔をした。


「……私が、青いだと?」


「ええ」


 チヨはあっさりうなずく。


「あと五十年くらい歳を取ったら、考えてもいいわ」


「五十年……」


 皇帝はそこでさらに深く沈んだ。


 帝国の将たちまで、さすがに視線の置き場に困っている。


 チヨはのんびり言って、それから少しだけ優しい声を混ぜた。


「でも、たまになら教えに来てもいいわ」


 ゼノヴァルトがぴくりと顔を上げる。


「……何?」


「お茶を飲みながら、いろいろ教えてあげる。力で奪うことと、人がついてくることは違うもの」


 チヨはまっすぐ彼を見る。


「それに、あなたはレオンとは違うけれど……あなたなりのやり方で自分の国と民を守ろうとする、優しい王様だと思うわ」


 ゼノヴァルトはしばらく呆然としていたが、やがて口元を押さえ、低く笑い出した。


「……くく」


 その笑いは、先ほどまでの余裕の笑みではなかった。


「私のことを優しいというのは、お前が初めてだ、チヨ」


 ふられてなお面白がっている、敗北を認めた男の笑いだった。


「やはり欲しい」


「だめよ」


 チヨは即答した。


「この子たちの教育がまだ残っているもの」


 そう言って王子たちを見る。


 レオンはため息をつきながらも、どこか安堵したように目を閉じた。


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