32 レオンの元へ
石造りの広い一室は、豪奢でありながらどこか冷たかった。
高い窓から差し込む夕暮れの光が床に長く伸び、その中央に、レオンは静かに立っていた。拘束はされていない。だが、それがかえって、この場所が「逃げ場のない檻」であることをはっきりと示していた。
その背後で、ゆるやかな足音が響く。
「随分穏やかな顔をしているな。人質に来た人間とは思えない」
振り向けば、そこにはゼノヴァルトがいた。
若き皇帝は愉快そうに口元を歪め、獲物を観察するような目でレオンを見る。その視線を受けても、レオンは眉ひとつ動かさなかった。
「後悔はありません」
短く返すと、ゼノヴァルトはわずかに目を細めた。
「国を捨て、弟たちを置いてきてもか?」
「捨てたわけではありません。託してきた、それだけです」
レオンの声は静かだった。だが、その内には揺るがぬ確信があった。
「私がいなくても、あの子たちはもう立てます。……だから、後悔はない」
ゼノヴァルトはしばらく黙っていたが、やがてふっと笑った。
「なるほど。ずいぶんと信じているのだな」
「ええ」
迷いのない返答だった。
その一言に、ゼノヴァルトはおもしろそうに肩を揺らした。
「そう寂しがらずともよい。もうすぐ会えるぞ」
「え……?」
さすがのレオンも、その言葉には目を見開いた。
ゼノヴァルトは答えを明かさないまま、楽しげに言う。
「やはりあの女は、面白い」
その瞬間、レオンの胸が大きくざわついた。
まさか。
いや、だが、あの人なら――。
脳裏に浮かんだ姿に、レオンは思わず唇を引き結ぶ。
ゼノヴァルトはそんな彼の表情を見て、ますます愉快そうに笑った。
***
帝国の城門は、見上げるほど高く、黒鉄の門扉は重々しい威圧感を放っていた。
その前に止まった馬車から、チヨがするりと降りる。続いてセドリック、ルカ、アルベールも姿を現した。
門番たちは一行を見るなり、鋭く槍を交差させる。
「止まれ。何者だ」
チヨは少しもひるまず、にこやかに答えた。
「皇帝のお茶友達よ」
一瞬、沈黙が落ちた。
門番の眉間に深いしわが寄る。
「……ふざけているのか?」
「あら、ふざけてなんていないわ」
チヨは穏やかに微笑んだまま、一歩も引かない。その後ろで、セドリックが半ば呆れたように額を押さえ、ルカははらはらと成り行きを見守り、アルベールは「ほんとにそれで通るの?」と小声でつぶやいた。
だがチヨはまったく動じなかった。
「確認だけでもしてちょうだい。本当にお茶友達だったら、あなた、危ないわよ」
やわらかな声色なのに、妙な迫力があった。
門番は思わずたじろぐ。
「な……」
「皇帝陛下のお客様を門前払いにした、と知られたら困るでしょう?」
にっこりと笑って言われ、門番は完全に勢いを失った。
何より、この娘は冗談を言っているように見えない。堂々としすぎているのだ。
やがて一人が小走りで城内へ消えていった。
しばらくして、使いの者が皇帝のもとへ報告する。
「陛下。お茶友達という方が来ております」
「……来たか。通せ」
使いの者が目を瞬かせる。
「は……?」
「通せと言った」
低く告げられ、使いは慌てて頭を下げた。
***
重い扉が開き、チヨたちは帝国の城の奥へと通された。
磨き上げられた床。高い天井。左右に並ぶ帝国の貴族や兵たちの視線が、一斉に向けられる。好奇と警戒が入り混じった空気の中で、チヨは少しも怯まず、まっすぐ前を見た。
その先にいたのは、玉座の前に立つゼノヴァルトと――その傍らに控えるレオンだった。
レオンは一行の姿を見た瞬間、息をのんだ。
「な……」
普段は崩れない表情が、はっきりと揺れる。
「どうして来た……!」
思わず一歩、前に出る。驚きと焦りが隠しきれていなかった。
セドリックが眉をひそめ、ルカは泣きそうな顔で兄を見つめ、アルベールは今にも駆け出しそうになる。
「陛下、どうか彼女たちだけはお許しください!私はどうなっても――」
レオンは必死に皇帝に訴えかけた。
だが、その場の空気をぴしゃりと断ち切ったのは、チヨの声だった。
「レオン」
そのひと言に、レオンの動きが止まる。
チヨはまっすぐ彼を見上げた。やわらかな顔立ちのままなのに、その目だけはきっぱりと厳しい。
「あなたへのお説教は後よ」
「……!」
レオンは言葉を失った。
叱られた子どものように口をつぐむ兄の姿に、セドリックたちですら一瞬だけ目を見張る。
だがチヨはもうレオンには視線を置かず、ゆっくりとゼノヴァルトへ向き直った。
玉座の前に立つ皇帝を、まるで近所の困った若者でも見るような顔で見上げる。
「久しぶりだな」
ゼノヴァルトが愉快そうに口元を歪める。
チヨは涼しい顔でうなずいた。
「ええ。お久しぶりね」
周囲がざわめく。皇帝に対して、そのあまりに自然な返しは場違いですらあった。だがチヨはまるで意に介さない。
ゼノヴァルトはおもしろそうに目を細めた。
「やはり来たか」
「来るに決まっているでしょう」
そしてチヨは一歩、前へ出る。
「私の大事な孫を、返してもらいにきたわ」




