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すると、川から王子様が流れてきました

「さて」


そう言って、チヨはためらいもなく川へ足を踏み入れた。


ひやりとした水が足首を包む。思ったより冷たいが、流れは見た目ほどきつくない。川底の石を確かめるようにしながら、チヨはゆっくりと一歩を踏み出した。


そのとき、背後から鋭い声が飛んだ。


「待て!」


チヨが振り返るより早く、ばしゃばしゃと水を蹴立てる音が近づいてきた。


レオンだった。


まだ髪も服も乾ききっていないまま、慌てた顔で駆け寄ってくる。彼は川の中に入ると、ためらいなくチヨの腕をつかんだ。その手には、はっきりとした焦りがこもっていた。


「何をしている! これは死の川なのだろう!」


真剣そのものの声だった。


眉を寄せ、まるで今にも大変なことが起きるとでもいうように、レオンはチヨを見つめている。


その顔がおかしくて、チヨは思わずくすっと笑った。


「大丈夫よ。私はもう死んでいるんだもの」


「あなたは死んでなどいない!」


あまりにも即答だったので、今度はチヨがきょとんとする番だった。

レオンは怒っているようにも見えたが、その実、必死だった。川から引き戻すようにチヨの腕を握る手にも力が入っている。


そのときだった。


ぐうぅ、と間の抜けた音が鳴った。


二人のあいだに、なんとも言えない沈黙が落ちる。


音の出どころは、チヨのお腹だった。

チヨは何ごともなかったように自分の腹をさすり、それから「あら」と小さく笑った。


「お腹がすくのは、生きている証拠かしらねぇ」


レオンは一瞬ぽかんとしたあと、さっきまでの緊張が少しだけ抜けたように目を瞬いた。


チヨはそのまま、のんびり続ける。


「まあ、今後のことは、お茶でも飲みながら考えましょう」


「……こんな時に、茶か?」


レオンは呆れたように眉をひそめた。だが、チヨはまったく動じない。


「そうよ。お腹がすいていたら、何も始まらないもの。考えごとは、お茶を飲んでから。昔からそう決まってるのよ」


チヨはにこにこしながら川を引き返し、さっさと岸へ戻っていく。レオンはすっかり呆れ、深いため息をついてあとを追った。



川辺から少し離れると、景色はずいぶん穏やかだった。


若葉を揺らす風はやさしく、木漏れ日が地面にまだら模様を落としている。川の霧もここまで来れば薄く、草木の青い匂いが鼻をくすぐった。さっきまで三途の川だの死んだだのと言っていたことが、少しばかり遠い話に思えるほどだ。


「まあ、いいのがあるじゃない」


チヨは目ざとく足元の草を見つけると、しゃがみこんだ。


細長い葉のついた草を摘み、指先でくるくると確かめる。その近くには、小さな赤い実がいくつかついている低木もあった。チヨは慣れた手つきでそれも摘み取っていく。


レオンはその様子を見下ろし、眉をひそめた。


「……それは、食べて大丈夫なのか?」


「こういうのはね、匂いでだいたいわかるのよ」


そう言って、摘んだ葉を指先で軽く揉む。


すると、青々とした中にほんのり甘さを含んだ爽やかな香りがふわりと広がった。川辺の空気の中で、その香りはいっそう心地よく感じられる。


レオンは目を細める。


「……確かに、良い香りがするな」


「でしょう?」


チヨは満足そうに頷いた。


それから辺りを見回し、少し離れた場所を指さす。


「あそこに竹があるわね。ちょっと、その剣、借りるわね」


「は?」


レオンが止めるより早く、チヨは彼の腰の剣をするりと抜いた。


「あ、おい!」


きらりと光る立派な剣身など意にも介さず、チヨは竹のそばへ行くと、ためらいなく一閃した。


すぱん、と小気味よい音が響く。


斜めに切り落とされた竹は、見事に節のところで器の形になっていた。


「ほら、こうやって切れば簡易コップのできあがりよ」


得意げに掲げられた竹の器を見て、レオンは思わず感心したように目を見開いた。


「王家の秘剣を鉈代わりに使う者は初めて見た……。だが、本当にコップみたいだな」


「便利でしょう?」


「便利、ではあるが……」


納得しきれない顔をしつつも、レオンは素直に感心していた。


チヨは竹の器を置き、今度は近くの石を集めて簡単なかまどのような形を作った。そして川の水を汲み、葉と実を入れる。


「さっきみたいに火をつけて、お湯をわかしてちょうだい」


当然のように頼まれて、レオンはまたひとつため息をついた。


「私は王子なのだが」


「ええ、ええ。そういう設定なんでしょう? でも火が出せるのは便利だから、今はお願い」


「……設定ではない」


ぶつぶつ言いながらも、レオンは手をかざした。


ほどなくして、指先に炎が灯る。


その炎は石のあいだに組んだ小枝へ燃え移り、やがてぱちぱちと小さな音を立て始めた。湯気がゆらゆらと立ちのぼり、竹の青い香りと草の匂いが混ざりあって、なんともいえず落ち着く匂いになる。


やがて湯がわくと、チヨは即席の茶を竹のコップに注いだ。


「はい、どうぞ」


差し出されたそれを、レオンは半信半疑で受け取る。


湯気の向こうから、草のやさしい香りが漂ってきた。レオンはそっと口をつける。


その瞬間、少しだけ目を見開く。


「……美味しい」


思わず漏れた声は、心からのものだった。


「城で飲むどの茶とも違う。派手さはないが……深い味がする」


チヨは嬉しそうに目を細めた。


「それにねぇ、外で飲むお茶は格別なのよ」


風が吹いて、木々がさらさらと鳴る。どこからか鳥の声が聞こえ、木漏れ日が草の上で揺れていた。川のせせらぎも遠くやわらかく聞こえて、さっきまでの緊張が嘘のようだ。


レオンは竹の器を両手で包み込み、静かに息を吐いた。


「……安らぐな」


その声は小さかったが、確かにほどけていた。


「こんなに安らかな気分になれたのは、初めてかもしれない」


チヨはその横顔を見て、ふっとやわらかく笑った。


「あらあら、ずいぶん疲れていたのねぇ」


そして、あたりまえのように続ける。


「よくがんばったわね」


その一言に、レオンはわずかに目を見開いた。


王子として称賛されたことは何度もある。優秀だ、立派だ、期待している――そういう言葉は耳にたこができるほど聞いてきた。


けれど、「がんばったわね」と、ただ労わるように言われたのは初めてだった。


レオンは視線を落とし、ぽつりと呟く。


「……まるで祖母のようなことを言うのだな」


見た目はどう見ても年若い娘でしかないのに、口から出る言葉は不思議なくらい年輪を感じさせる。しかも妙に胸に沁みるのが悔しい。


チヨはくすくす笑った。


「よく言われるわ」


適当なのか本気なのかわからない返事に、レオンは小さく息をつき、けれど口元だけは少し緩んでいた。


二人はしばらく黙ってお茶を飲んだ。


静かな時間だった。


火のはぜる音。風に揺れる葉音。鳥の声。竹の器から立ちのぼる湯気。


そんな穏やかな空気を破ったのは、遠くから響いてきた重い音だった。


――ドドドドドッ。


馬の足音だ。


それも一頭や二頭ではない。複数の馬が土を蹴る、急を告げるような響きである。


レオンの表情がすっと引き締まった。


「……来たか」


チヨはお茶をすすりながら首をかしげる。


「お知り合い?」


答えるかわりに、レオンは立ち上がった。


やがて丘の向こうから、鎧をまとった男たちが姿を現した。陽の光を受けて金属が鈍く光る。十人ほどの兵士たちが一団となって駆けてきて、レオンの姿を見つけた瞬間、はっきりと空気が変わった。


彼らはすぐさま馬を止めると、ほとんど転がり降りるように地面へ下りた。


次の瞬間。


全員が、その場で膝をついた。


「殿下!」


張りつめた声が、川辺に響く。


チヨは竹のコップを手にしたまま、その光景をまじまじと見た。


「まあ」


しばらく考え込むように目をぱちぱちさせ、それからレオンへ視線を戻す。


「あなた……もしかして、本物の王子様?」


レオンは静かに片手で額を押さえた。

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