1 おばあちゃんは異世界に行きました
気がつくと、チヨは川のほとりに立っていた。
足元には小石が広がり、その先を、ゆるやかな川が流れている。水面には薄い霧がたなびき、向こう岸はぼんやりと白く霞んで見えない。流れ自体は穏やかなのに、ただの川とは思えない不思議な気配があった。チヨはあたりを見回し、首をかしげた。
「あらあら……ここ、どこかしら」
さっきまで何をしていたのだったか。畑の草むしりをしていたような気もするし、買い物袋を提げて家に帰る途中だった気もする。いや、朝、仏壇の花を替えて――そこから先がどうにも曖昧だ。しばらく眉を寄せて考え込んでいたが、やがてチヨは「ああ」と小さく声を上げた。
「なるほどね。いわゆる三途の川ってやつかしら」
自分でも驚くほど、あっさりと納得してしまった。八十年も生きたのだ。今さら死ぬことに取り乱すほど若くはない。怖いというより、「ついに来たのね」という気持ちのほうが強かった。
病気で早くに亡くなった姉の代わりに、残された子どもたちを育てた。泣きたい夜もあったし、投げ出したくなる日もあったけれど、それでもどうにかやってきた。教師として定年まで勤めあげ、教え子たちにも恵まれた。いまでは子どもたちも立派に家庭を持ち、孫まで生まれている。思い返せば、十分すぎるほど幸せな人生だった。だから、悔いはない――はずだった。
けれど胸の奥を探ってみると、ひとつだけ、ほんの少しだけ引っかかるものがある。チヨは霧の向こうを見つめながら、ぽつりとつぶやいた。
「恋くらい、してみたかったわね」
若い頃はそれどころではなかった。姉の子どもたちを食べさせるのに必死で、自分のことはいつだって後回しだった。もちろんそれを不幸だとは思わない。けれど、誰かに頬を染めたり、手を握られて胸を高鳴らせたり、そんな時間が一度くらいあってもよかったのかもしれない。
そんなことを考えていたそのとき、静寂を切り裂くように大きな水音が響いた。チヨははっとして川へ目を向けると、少し上流のあたりで大きな桃が――いや、ひとりの若い男が流れに巻き込まれていた。
「あらあら、大変!」
考えるより先に、体が動いていた。チヨは裾をたくし上げると、そのまま川へ踏み込んだ。
「ちょっと! しっかりしなさい!」
男のそばまでたどりつくと、チヨは伸ばされた腕をがっしりとつかんだ。男の体は思ったより重かった。流れも強く、何度か足を取られそうになる。それでもチヨは踏ん張った。
「若いのに三途の川に来るなんて! だめよ!」
半分叱るように言いながら、ぐい、ぐい、と男を引きずる。少しずつ、少しずつ岸へ寄せていき、やがて浅瀬にたどりついた。
「よいしょ、っと……!」
二人そろって、その場にどさりと倒れ込む。チヨはふう、と息をついた。さすがに少し息が上がったが、不思議と体はよく動いた。昔ならともかく、ここまで軽々と川へ入って人ひとり引っ張り上げられるものだったかしら、と一瞬思ったが、今はそれどころではない。
男のほうは仰向けになったまま肩で荒く呼吸をしている。胸が激しく上下し、まだ状況が飲み込めていないらしい。
チヨは立ち上がろうとして、ふと川面に目をやった。水面に、どこか懐かしさのある娘の顔が揺れていた。つややかな髪が濡れて頬にはりつき、白い肌に大きな瞳がくっきりと浮かんでいる。どこかあどけなさの残る、十代後半ほどの少女に見えた。
「……あら? 私ってこんなに髪がつややかだったかしら。皺も……」
チヨは思わず目をしばたたかせた。もう一度のぞき込む。けれど川面は揺らぎ、像はぼやけてしまう。
「まったくもう、老眼って嫌ね」
そう言って、深く考えるのをやめた。川面など、もともとまともに顔が映るものでもない。霧も出ているし、水も揺れている。見間違いだろう。
気を取り直したチヨは、腰に手を当ててぴしゃりと言った。
「若いのに死んだらだめよ。ご両親が悲しむわ」
男はまばたきを繰り返し、呆然とした顔でチヨを見上げた。
「……は?」
若い男だった。二十歳そこそこだろうか。濡れた黒髪が額に張りつき、雫が頬を伝って落ちていく。鼻筋の通った整った顔立ちで、ずぶ濡れでなければ絵から抜け出してきたような美青年だ。着ている服も見慣れない形で、どこか舞台衣装めいている。
(まあ……最近の若い子は、服装も髪も派手ね)
ふと思い出す。
(そういえば、テレビで〝こすぷれ〟って言ってたわね。ああいうのかしら)
孫も以前、何かのゲームの登場人物だと言って、不思議な服を着て写真を撮っていた。そういう趣味の若者なのかもしれない。
(なるほど、今どきは三途の川にまで凝った格好で来るのねぇ)
チヨが妙なところで感心していると、青年は上半身を起こしながら、警戒するように周囲を見回した。
「ここは……どこだ」
低く、よく通る声だった。
「三途の川じゃないかしら」
青年は眉をひそめた。
「……サンズの川?」
「三途よ、三途」
「サンズ……?」
チヨは少し困ってから、「若い人は知らないのかしら」とつぶやいた。青年はますます怪訝そうな顔になる。
「それはどこだ」
「死んだ人が渡る川よ。昔からそう言うでしょう」
その瞬間、青年の顔色が目に見えて変わった。
「……私は、死んだのか」
その声音には、諦めがにじんでいた。チヨは首を横に振る。
「まだわからないわ」
「何?」
「だってあなた、川を渡りきっていないもの。流されてはいたけど、向こう岸には行っていないでしょう? だから、まだ生きてるのかもしれないわ」
最後は少し軽い調子で言う。青年はぽかんとしたあと、信じきれないような、複雑な顔をした。
「それで、あなたはどうして川の中にいたの?」
「それは……」
そのとき、川辺を冷たい風が吹き抜けた。びしょ濡れの服が肌にはりつき、ぞくりと身震いする。チヨは両腕をさすりながら肩をすくめた。
「あらあら、寒いわね」
「私に任せてくれ。――ファイア」
青年が手をかざした、その瞬間だった。彼の指先に、ぽっと赤い火が灯った。
それは種火のような小さな炎ではなかった。空気を揺らしながらゆらりと立ちのぼる、本物の炎だ。しかも消える気配もなく、まるで生き物のように青年の手のひらの上で揺れている。
「あらまぁ」
チヨは目を丸くした。
「最近のアレ◯サはすごいのね」
青年の動きがぴたりと止まった。
「……アレ◯サ?」
「うちの子もね、『アレ◯サ、エアコンつけて』って呼びかけてたのよ。そしたらほんとにつくの。あれもびっくりしたけど、火まで出るなんて、今は本当に便利な世の中ね」
青年は完全に理解不能、といった顔になった。
「……アレ〇サ? エアコン?」
「便利よ。私はまだ少し怖いけどね」
「いや、そうではなく……」
やがて彼は慎重に問いかけた。
「あなたは、一体……何者だ」
チヨはにこりと笑った。
「チヨよ。あなたのお名前は?」
青年は少しだけためらったあと、姿勢を正した。どこか気品のある所作だった。
「……レオンだ。この国の第一王子だ」
チヨはぱちぱちと瞬きをしたあと、にっこり笑みを深めた。
(あらまぁ、設定までしっかりしてるのね)
なるほど、王子さま役のこすぷれというわけだ。立派な服装、そして炎の出る仕掛け。若い人の遊びは凝っていて面白い。
「最近の子のお名前は、派手で素敵だわ。キラキラしているわね」
「……は?」
レオンはまたしても理解できない顔をした。チヨはそんな彼にのんびり微笑みかける。
彼はまだ、自分がなぜこの妙な少女――いや、中身だけ妙に貫禄のある娘と出会ったのか理解していない。
そしてチヨもまた、まだ気づいていなかった。
自分の姿が、若き日のそれへと変わっていることにも。
そして、自分が、もはや元の世界にはいないことにも。




