18 第四王子の喧嘩
夜会の支度が進む王城は、昼過ぎからどこか落ち着かなかった。
廊下には磨き上げられた燭台が運び込まれ、使用人たちが花を飾り、侍女たちは衣装箱を抱えて忙しなく行き交っている。今夜は国内の有力貴族だけでなく、隣国の使者まで招かれる大きな夜会だ。城じゅうが華やかに整えられていく一方で、その気配に似つかわしくないぴりついた空気が、第四王子の部屋には満ちていた。
「いやだ」
きっぱり言い切って、アルベールはそっぽを向いた。
「夜会になんか出たくない。くるしいし、つまんないし、どうせずっと黙って立ってるだけだろ」
部屋の中央に立つレオンは、腕を組んだまま細く息を吐いた。
「わがままをいうな。お前は王族として、出席する義務がある」
「またそれ」
アルベールはむっとして兄をにらむ。
「王族だから、王族だからって、兄上そればっかりだ」
「いい加減にしろ。手間をかけさせるな」
低く抑えた声だった。
だが、その抑えた声音の底には、朝から積み重なった疲れがにじんでいた。今夜の夜会の段取りだけではない。使者への応対、警備の見直し、席順の確認、あらゆる準備がレオンの肩にのしかかっている。普段なら流せるような弟の反発にも、今日は余裕がなかった。
「ボクなんかいないほうがいいだろ!」
アルベールは、さらに声を荒げた。
「優秀な兄上たちだけでいい! 問題児の弟なんていなくても何も変わらない!だって――」
アルベールの頬がかっと赤くなる。
「ボクは父上と母上を殺した、呪われた王子なんだから!」
その一言で、レオンの顔つきが変わった。
「それは誰に言われた」
「みんな言ってるよ!兄上だって、ほんとはボクがいない方がいいと思ってるんだろ!」
叫んだ目には、うっすら涙がにじんでいた。
「兄上なんかきらいだ!」
言うなり、アルベールはくるりと背を向ける。
ちょうどそのとき、廊下から扉が開いた。
「まあ、アルベール――」
中へ入ろうとしていたチヨと、飛び出してきたアルベールが正面からぶつかる。
「きゃっ」
「うわっ」
小さな体とはいえ勢いよく飛び出してきたせいで、チヨはよろめき、そのまま廊下に尻もちをついた。アルベールもたたらを踏み、はっとしたように目を見開く。
「チヨ!」
泣きそうな顔のまま、アルベールは思わず手を伸ばしかける。
けれど、その瞬間、部屋の奥からレオンの鋭い声が飛んだ。
「アルベール!」
びくり、とアルベールの肩が大きく跳ねる。
叱られると思ったのだろう。差し出しかけた手を引っ込めると、そのままくるりと背を向けて、廊下の向こうへ駆け出してしまった。
「アルベール?」
今度はチヨが声をかけたが、幼い背中は振り返らない。金色の髪だけがぱっと揺れて、すぐ角の向こうへ消えていった。
廊下に、妙な静けさが落ちた。
レオンは一歩、二歩と扉のほうへ歩み寄り、そこで足を止める。追いかけるべきか、一瞬だけ迷ったのが見て取れた。だが次の瞬間、視線を床に座り込んだままのチヨへ向ける。
「大丈夫か」
「ええ、びっくりしたけれど」
チヨが苦笑すると、レオンは表情を曇らせたまま手を差し出した。
「すまない。巻き込んだ」
その声には、さっきまでの怒気よりも、疲れと悔いのほうが濃くにじんでいた。
チヨはその手を取り、ゆっくり立ち上がる。
「わたしは平気よ」
立ち上がったあと、廊下の先へ目を向ける。アルベールはもう見えない。
「追いかけなくていいの?」
静かに問うと、レオンは苦く口元をゆがめた。
「……今追えば、余計にこじれるだろう。それに今は時間がない」
チヨは転んだ拍子に少し乱れた袖を整えながら、レオンを見上げた。
「仲直りは早いほうがいいのだけれどね」
レオンはすぐには答えなかった。
その沈黙の奥に、言いすぎた自覚があることは明らかだった。やがて彼は、小さく息を吐く。
「……あとで私が話す」
そう言った声には、自分に言い聞かせるような硬さがあった。
チヨはそれ以上責めなかった。ただ、廊下の向こうへ消えた小さな背中を思い浮かべながら、静かに頷く。
けれどその“あとで”が、思いのほか遠くなることを、このときはまだ誰も知らなかった。
***
夜になり、王城は昼とは別の顔を見せていた。
大広間の天井には無数の灯りが揺れ、磨かれた床には貴族たちの姿が映り込む。楽団の奏でる優雅な音色、香水と花の香り、抑えた笑い声。どこを見ても華やかで、きらびやかで、息が詰まりそうなほど整えられた世界だ。
その中でアルベールは、口をへの字に曲げたまま、ずっと不機嫌そうにしていた。
正装をし、髪も整えられ、ぱっと見れば立派な王子様だ。だが本人の機嫌だけはどうにもならなかったらしい。チヨのそばにずっとくっついている。
「そんなに嫌なお顔をしていたら、せっかくのかわいい顔がもったいないわ」
チヨが小さな声で言うと、アルベールはむすっとしたまま答えた。
「かわいくなくていい」
「まあ。じゃあ、かっこいい顔がもったいないわね」
少しだけ間を置いて、アルベールはふんと鼻を鳴らした。ほんの少しだけ、頬の強張りがゆるむ。
短い沈黙のあと、彼はふいに視線を落としたまま言った。
「……チヨ、さっきはごめん」
アルベールは気まずそうに眉を寄せ、床の一点を見つめていた。
「その……ぶつかっちゃったの」
小さな声だった。怒っているのでも、拗ねているのでもない。ただ、ちゃんと悪かったと思っている子どもの声だった。
チヨはふっと表情をやわらげる。
「まあ。ちゃんと謝れるなんて、えらい子ね」
チヨがくすりと笑うと、アルベールは少しだけ頬を赤くした。
「……でも、兄上にはまだ謝りたくない」
そのひと言に、チヨは少しだけ視線を遠くへ向ける。
少し離れた場所では、レオンが有力貴族たちに囲まれていた。次々と向けられる言葉に落ち着いて応じながらも、時おり視線だけはこちらへ流れてくる。そのたび、アルベールは気づかないふりをして、また口を尖らせた。
チヨは内心で苦笑する。
見ているのに、声をかけられない。気にしているのに、近づけない。
(ふふ、似たもの同士の不器用な兄弟ね)
チヨはやさしく言った。
「でもね、仲直りは早い方がいいわ。こじれたまま長く置いておくと、謝るのがもっと難しくなるの」
アルベールは唇を尖らせたまま、しばらく黙っていた。
「失礼、あなたがチヨ様ですわね?」
ふいに華やかな声がかかり、チヨが振り向く。
真珠の首飾りをつけた貴婦人が、にこやかにこちらへ歩み寄ってきていた。その後ろには、同じように興味深そうな顔をした婦人が二、三人控えている。
「王子殿下方の教育係をしておられると伺いましたの。ぜひ少しお話ししたくて」
チヨは上品に会釈した。
「まあ、教育係だなんて大げさですわ。ただ、お茶をいれて一緒におしゃべりしているだけですのよ」
「あら、でもそれであの王子殿下方のお心がほぐれるのなら、何よりの才ですわ。ほら、あちらでお話を聞けないかしら」
チヨはちらりとアルベールを見た。
「少しだけ行ってくるわね。ここにいられる?」
アルベールは不機嫌そうなまま、こくりとうなずいた。
「……すぐ戻ってきて」
「ええ、すぐよ」
チヨはそう言って、貴婦人たちのほうへ数歩移動した。
***
その頃、ひとりその場に残ったアルベールのもとへ、ひっそりと一人の侍女が近づいていた。
「第四王子殿下」
やわらかな女の声に、アルベールが顔を上げる。
見覚えのない侍女だった。夜会用の整った制服を着て、所作にも不自然なところはない。
「何」
むすっとしたまま答えると、侍女は恭しく一礼した。
「レオン殿下がお呼びです」
その名前に、アルベールの目がわずかに揺れる。
「……兄上が?」
「はい。少しお話があると。こちらへお越しくださいませ」
アルベールは反射的に、少し離れた場所を見た。貴族たちに囲まれたレオンの姿はここからは見えにくい。
「兄上、今忙しいだろ」
「ですので、人目の少ないところで少しだけ、と」
侍女は穏やかに言葉を重ねた。
アルベールは一瞬ためらったあと、チヨの言葉を思い出した。
『仲直りは早い方がいいわよ』
アルベールはチヨをちらりとみて、そしてつぶやいた。
「すぐ戻る」
そうしてアルベールは、侍女のあとについて大広間の端へ歩き出した。




