15 第二王子の絶望
その日、セドリックは机に向かっていた。
広げられた書物は王家の歴史、隣には近隣諸国との関係をまとめた資料、そのさらに横には財政報告書まで積まれている。
かつての彼を知る者が見れば、まず間違いなく熱でも疑っただろう。
「……ふむ。意外と面白いな」
頬杖をつきながらページをめくり、セドリックはひとりごちる。
もちろん、面白いだけで片づけられるものではない。王族として知るべきこと、背負うべきもの、考えるべき責任。兄たちがずっと向き合ってきたものを、ようやく自分も正面から見始めたにすぎない。
だが、以前のようにただ面倒だとは思わなかった。
――少しは、兄上の隣に立てる男になりたい。
そんな殊勝なことを考えるようになったのは、たぶん。間違いなくチヨのせいだった。
あの教育係は、遠慮なく人の胸に踏み込んでくる。しかも説教くさくない。いつの間にか懐に入り込み、気がつけば少しだけ前を向かされているのだ。実に厄介で、実に目が離せない。
そんなことを考えていた矢先に、唐突に扉が開いた。
「セドリック様!」
勢いよく扉が開き、セドリックはびくりと肩を揺らした。
入ってきたのは、見覚えのある貴族令嬢たちだった。ひとりではない。二人、三人。色とりどりのドレスが一斉に部屋へなだれ込み、たちまち空気が華やか――というより騒がしくなる。
「最近まるでお姿を見せてくださらないじゃありませんの!」
「お茶会も夜会も、全部お断りだなんて!」
口々に責め立てられ、セドリックは本を閉じた。
「ごめんごめん、忙しいんだよ。見ての通り」
「それがおかしいのです!」
一番気の強い令嬢が机上の本を指さす。
「セドリック様が勉強しているなんて、どう考えても異常事態ですわ!」
「女遊びをきっぱりおやめになったのも変ですわ!」
「ひどい言われようだな、俺」
令嬢たちの目は本気だった。
きらきらした飾りの下で、視線だけが妙に鋭い。
「はっきり言ってくださいませ」
「……何を?」
「本命の方ができたのでしょう?」
「え……?」
ぴたり、と場が静まった。
令嬢たちは、その沈黙を肯定と受け取ったらしい。
「やっぱり!」
「誰ですの、その方!」
「わたくしたちに隠れて囲っていらっしゃるんですのね!」
「いやいや、違うから」
額を押さえながら言うが、もはや誰も聞いていない。
「王城に出入りしている女性はいるが、君たちが考えてるような相手じゃない」
「では、どういう方ですの?」
「それは……」
説明しようとして、セドリックは少し言葉に詰まった。
教師。恩人。厄介な人。放っておけない相手。
どれも間違っていないのに、どれも少し足りない気がする。
そのわずかな沈黙を、令嬢たちは見逃さなかった。
「やっぱり怪しいですわ!」
「言えない関係なんですのね!」
「セドリック様、なんて罪なお方……!」
何がどうなってそうなるんだ。
頭痛を覚え始めたその時だった。
こんこん、と場違いなほど穏やかなノックが響く。
「セドリック、いるかしら?」
聞き慣れた声に、セドリックは固まった。
そして次の瞬間、返事を待たずに扉が開く。
「まあ。お客様がいらしたのね」
入ってきたのは、間違いなくチヨだった。
小さな手に籠を抱え、きょとんとした顔で部屋を見回している。籠の中には湯気の立つ焼き菓子が入っていた。どうやら差し入れに来たらしい。
「最悪だ……」
本当に最悪のタイミングだった。
令嬢たちの視線が、一斉にチヨへ向く。
そして、その少女を見た瞬間、全員が息をのんだ。
「……この方?」
「えっ」
「この方ですの?」
「いや、その」
「まあ、やっぱりいるんじゃないですの……!」
誤解が最悪の方向へ加速していく。
チヨはまだ事情を飲み込めていないらしく、ぱちぱちと目を瞬かせた。
「何の話かしら?」
「あなたですわね!最近、セドリック様の部屋に入り浸っている女性というのは!」
「いや、待て」
セドリックが止めるより先に、チヨは素直にうなずいた。
「そうよ」
一拍おいて、空気が凍った。
「そうですって!?」
「やっぱり!」
「しかもご本人が認めましたわ!」
誤解が最悪の方向へ転がっていく。
セドリックは思わず額を押さえた。
「おい、言い方! 言い方を少し考えろ!」
「だって本当でしょう?」
「本当だけど違う!」
だが令嬢たちは、もはや誰ひとり冷静ではない。
「セドリック様のお部屋に焼き菓子を持って現れて」
「部屋に入り浸っていると自ら認めて」
「そのうえ、若い女性だなんて……!」
チヨはようやく何かおかしいと気づいたらしく、ぱちぱちと目を瞬かせた。
「ええと……何の話かしら?」
「何の話も何も、あなた、セドリック様の特別な方なんですのね?」
その瞬間、チヨは目を丸くした。
それから、ぷっと吹き出す。
「まあ、やだ」
肩を揺らして、くすくすと笑う。
「特別な方、ですって」
あまりに可笑しそうに笑うものだから、令嬢たちの勢いが少し鈍る。
「な、何がおかしいんですの?」
「だって……ふふ。こんなおばあちゃんでも、そんな風に見てくれるのね」
チヨは口元に手を当て、まだ笑いをこらえながら首を振った。
「違うわよ。私はセドリックの教育係なの」
「教育係……?」
令嬢たちが揃って目をしばたたく。
チヨはようやく笑いを収めると、少しだけ姿勢を正した。
「最近この子、王族としてのお勉強を頑張っているでしょう? その様子を見たり、教えたりしているの」
「この子……」
「教える……」
令嬢たちはそろってセドリックを見る。
セドリックはいたたまれない顔で咳払いした。
「……そういうことだ」
「でも、頻繁に?」
「ええ。それが仕事だからね」
「差し入れまで?」
「頑張っている子には、ご褒美が必要でしょう?」
チヨは当然のように籠を持ち上げる。
令嬢たちはなおも疑いの目を向けていたが、チヨ自身には後ろ暗いところがまるでない。それがかえって調子を狂わせるらしい。
「本当に、それだけですの?」
「そうですわ。教育係にしては、ずいぶん親しそうですし……」
「特別ではありませんの?」
問い詰められて、チヨは少しだけ考えるように首をかしげた。
それから、やわらかく微笑む。
「ええ。特別よ」
部屋が静まり返る。
セドリックの心臓がどくりと鳴った。
チヨはまっすぐに続ける。
「教え子以上に、大切に思っているわ」
その瞬間、胸の奥が熱くなる。
令嬢たちも息をのみ、セドリックもまた言葉を失った。
だが、その次のひと言がすべてをひっくり返した。
「孫みたいに思っているもの」
にっこりと、あまりにも自然に。
容赦なく、とどめが刺された。
「…………」
「…………」
「…………」
沈黙。
セドリックはその場で固まった。
胸の高鳴りは一瞬で別の意味に変わり、言葉が出てこない。いや、正確には出したくなかった。出したところで、余計に傷が広がるだけだと本能が告げていた。
令嬢たちはそっと彼を見た。
その視線にはもう敵意も嫉妬もない。ただただ、哀れみと同情だけが満ちていた。
「……セドリック様」
「可哀想……」
「まったく相手にされておりませんのね……」
「やめてくれ」
チヨは首をかしげる。
「どうしたの? みんな、急にしんみりして」
「チヨのせいだよ……」
「えっ、私?」
まるで分かっていない。
その無邪気さがさらに傷にしみる。
令嬢たちは顔を見合わせたあと、不思議な連帯感をにじませながら頷きあった。
「皆さま」
「ええ」
「わたくしたち、考えを改めましょう」
「ええ、これは敵対している場合ではありませんわ」
「セドリック様には支えが必要ですわね」
セドリックは嫌な予感しかしなかった。
「……君たち、一体何を決意した」
「応援いたしますわ」
「何を?」
「もちろん、セドリック様の恋を」
「誰がそんな話をした!」
だが、令嬢たちは本気だった。
さっきまで本命の女ができたと詰め寄っていた相手とは思えないほど、今は庇護欲に満ちた優しい目をしている。
「負けないでくださいませ」
「今は孫でも、未来は分かりませんわ」
「長い目で見れば逆転もありえますもの」
「勝手に話を進めるな!」
チヨはますます不思議そうだった。
「恋? 誰の?」
「……もういい」
セドリックは深く息を吐き、椅子に座り直した。
令嬢たちはそんな彼を見て、いっそうしみじみとした顔になる。
「苦労しておりますわ……」
「放っておけませんわね……」
「今後は協力いたします」
何の協力だ。
そう言い返す気力もなくなっていると、チヨが無邪気に籠を差し出した。
「まあまあ、せっかくだし皆で焼き菓子を食べましょう。甘いものを食べると、だいたいのことはどうでもよくなるわ」
「今の俺には、まったくどうでもよくならないんだが……」
「大丈夫よ、元気出して」
「元凶が言わないでくれ」
令嬢たちはついにセドリックに対して完全に同情的になり、焼き菓子を受け取りながら何度も「頑張ってくださいませね」と言い残して帰っていった。
嵐のような時間が過ぎ、部屋に静けさが戻る。
チヨはひとつ空いた椅子に座り、きょとんとしたまま首をかしげた。
「結局、あの子たちは何をしに来たのかしら」
セドリックはしばらく黙ってから、ふっと肩の力を抜いた。
「……いや、分からないならそれでいい」
チヨは焼き菓子をひとつ彼の前に置く。
「はい。頑張っていたご褒美」
「ご褒美、ね」
「勉強しているんでしょう? 偉いじゃない」
まるで子ども扱いだ。
孫みたい、と言われたばかりの身には少々きつい。だが、不思議と嫌ではなかった。
セドリックは焼き菓子を手に取り、少しだけ笑う。
「ねえ」
「なあに?」
「俺のこと、本当に孫みたいだと思ってるのか?」
チヨはぱちりと目を瞬かせ、それからやさしく微笑んだ。
「思ってるわよ。家族みたいに」
その一言に、セドリックはわずかに目を見開いた。
胸の奥が、今度は痛みではなく、じんわりと熱を帯びる。
孫。家族。
恋とは違う。自分が欲しい場所とは、きっとまだ違う。
それでも、彼女の中に自分の居場所があるのだと、そう思えた。
「……そうか」
自然と口元がゆるむ。
チヨはそんな彼を見て、少し不思議そうに首をかしげた。
「何か変なことを言ったかしら?」
「いや。むしろ、十分すぎるくらいだ」
セドリックは焼き菓子をひと口かじる。
甘さが、さっきまで胸に残っていた妙な痛みを少しだけ溶かしていく。
今はまだ、家族のような存在でいい。
そこにちゃんと情があって、大事に思われているのなら。
焦る必要はないだろう。
セドリックはくつくつと喉で笑った。
「どうしたの?」
「いや。今はまだ、孫でもいいと思ってな」
「?」
「こっちの話だ」
チヨは不思議そうにしながらも、「変な子ね」と笑った。
その笑顔を見ながら、セドリックは心の中でそっと続ける。
――今は、ね。




