第30話:禁呪
時間は少し遡る。
癒し手としての仕事を退職し、“第二の人生”なんてうそぶいてこんな異世界の片隅に蕎麦屋をオープンさせてからしばらく経った。
ジャスティナと2人で営む蕎麦屋に、閉店間際を狙って訪ねてきたのは、なじみの魔術師だった。
その魔術師のローブからは、雑に編んだ紫色の髪がバサバサとはみ出している。前髪が目元にかぶって、かなり陰気な印象だ。この男のことを知らない人はきっと、「怪しすぎる」と避けて通るに違いない。
しかし、ヒジリは彼と旧知の仲だ。なにしろ、この国に召喚された日からの付き合いなのだ。
この魔術師の腕が立つことも、信頼できることも、ヒジリはよく知っている。
「あらためて、悪かったわって言っておこうと思ってサ」
魔術師はカウンター席に座る。ジャスティナから熱いお茶を受け取ったあと、かけ蕎麦を注文し、ヒジリの方をまっすぐに見ながらおもむろに口を開いた。
「あなたの人生を変えてしまったこと、申し訳なかったわ」
「今さらでしょうね」
そっけなく答えるが、この魔術師と自分との間に禍根があるわけではない。
「ヒルデガルトという国が私を必要としたのなら、それはそういう運命だったと思っています。実際、異世界人である私は癒し手として、多くの人を助けることができた。それは誇るべきことだと思っていますし、この国で得たものもたくさんある……」
「相変わらず、聖人はイイ子ちゃんなんだわ」
陰気な魔術師は肩をすくめる。
「あなたは真面目でサ。思いやりが深すぎる。癒し手だからこそ、なのかしら」
昼どきを過ぎて、客は魔術師だけだ。ほかの客に会話を聞かれるようなこともない。
「不満はあるでしょう?理不尽に召喚されたとか、この国の連中の都合のいいように使われたとか……」
ヒジリはため息をつく。
「だから、もうすべては今さらなんです」
魔術師の目をまっすぐに見た。魔術師はそれ以上言えず、黙り込んだ。
ジャスティナは一旦屋外に出て、入口に「閉店」の札を掲げた。
「しいて言えば、娘のことだけは悔いですが」
客人の前にかけ蕎麦を出してから言う。
「小さな娘を、あの国に置いてきてしまった。かつての私の妻だった……あの娘の母親は、あまり、母親に向いていない人だったから……娘がつらい思いをしていないか」
「それネ。あなた娘ちゃんの話を何度もしていたでしょう?あたしも、娘ちゃんが幸せであればいいと、心から願っているわ」
その言葉に、ヒジリは寂しく笑った。
「ああ、そんな顔しない」
蕎麦をうまそうにすすりながら、魔術師が言う。
「ここからが本題よ。実は今日は、その話をしにきたの。今からでも、あなたの娘ちゃんに干渉する方法があるとしたら、あたしの術式に乗るつもりはある?」
「何……だって?」
後片付けの手が止まった。
「先に言っておくわ。うまくいくかは分からないの。未知数。でも、すべてがうまくいけば娘ちゃんをこの国に呼び寄せることが叶うかもしれない。そうでなくても、娘ちゃんの様子を窺い知ることはできると思う」
「そんなことが可能ならなぜ今になって……」
余裕のかけらもないような声を出してヒジリはカウンター越しに詰め寄る。
「あなたへの退職手当のつもり。これでも必死こいて研究したんだから」
魔術師は艶然と微笑んだ。
「……あなたがこの国に尽くしてくれたこと、あたしも感謝している。あなたがいなければ、魔術師も王城も大きなダメージを受けていたはずだし、そもそもこの国はこんなに平和にはならなかった」
ジャスティナは、片付けをしながら黙って2人の会話に耳を傾けている。
「喚び寄せられた以上、私にはこの道しかなかった。……まあ、そんなことはいいでしょう。もう、すべては済んだことだ。とにかく、その術式について説明してもらえませんか?」
「必要なのは、あなたの血」
ザッという音。魔術師はビクリと身をすくめた。
見れば、ヒジリがキッチンのナイフを手に取って構えている。
「血ならいくらでも流す」
「あー、物騒物騒!いいから落ち着いてよ。あの物静かな癒し手が、娘のこととなるとこんなに見境なくなるわけ?あなたって本当に、本当に父親なのねえ……」
「詳細は?」
魔術師の軽口を受け流し、苛立った風に聞く。




