第27話:ヒジリ
「ヒジリというのは、あくまでこちらでの名前です。最初は浩一と名乗ったんですけどねえ。私を召喚したあの魔術師が『異世界から癒し手の聖人を呼び寄せた』なんて言ったせいで……それで、王城も、国防の面々も、みんなして私を聖人扱い」
歩いて歩いて、蕎麦畑に着いた。
「聖人聖人って、ずっと呼ばれて。なんだかおかしな宗教みたいでしょう?むず痒くって。だから聖の字を取って、ヒジリと呼んでもらうようにしたんです。高野聖みたいで、いいかなあと思いまして……」
「高野聖って、なんだったっけ……」
聞いたことがあるような、ないような。
蕎麦畑に置きっぱなしになっている丸太の椅子に、2人で座る。
赤蕎麦と白蕎麦の花が、穏やかな風に吹かれてサワサワと波のように揺れている。
「ああ、出身が信州なのは本当のことですよ。まったくもって、嘘ではないんです」
少し驚いて、顔を上げた。
「そうなの?」
「ええ。南信のIという片田舎です」
あの日、竜の谷で自分はなんと尋ねただろうか。そうだ、「どこから来たの?」と聞いたはずだ。
その質問に対して信州と答えたヒジリは、嘘を言ったわけではなかったのだ。
「あの田舎には、赤蕎麦と白蕎麦の畑がずっとずっと遠くまで広がっていて、絶景ですよ。……私の父親、つまりマコのおじいさんにあたる人が、町はずれの何もないような山奥で、小さな蕎麦屋をやっていました」
「おじいさん……」
お父さんのことすら覚えていなかったマコが、祖父に関する記憶なんて持っているわけがない。
「おばあさん、つまり私の母は、私が子供の頃……早くに亡くなったのですが。マコはおじいさんには、2回、いや3回かな。会ったことがあるんです。けど、覚えていないでしょうねえ」
「うん……」
脳内をぐるりと探してみるが、まったく思い出せなかった。
「おじいさんは、マコが2歳くらいのときに悪い病にかかって、お店も閉めて。おそらく、私がこちらに来たあとに亡くなったのではと思っています。私は親の死に目にも会えなかった。どうにも親不孝で……」
とても寂しそうな声だったから、マコは何も言えなかった。ただ、つないだままの手を少しだけ、力を入れて握り直した。
ヒジリは、声を絞り出すようにして続ける。
「親不孝なだけじゃない。私は、自分の子供にも寂しい思いをさせてしまった」
くっ、と息を吸うわずかな音。マコは、父親が泣いていることに気付いた。
「あれからずっとずっと、ずうっと、気が気でなかった。あんなに小さな子の手を、かわいいマコの手を、私は離してしまった」
大人の男の人が泣いているのを、マコはこれまで見たことがなかった。
「あの子は幸せになれただろうか つらい思いをしていないだろうかと、いつも考えていました。……正直、和沙は……あなたの母親という人は、子供を育てることにあまり向いていない節があったので、とても心配でした」
その見立ては間違っていなかっただろう、とマコは思う。
日本で一緒に過ごした数年間に、お父さんがあの母親のどんな姿を見たのかは分からない。
けれど、なんとなく想像できてしまうあたりが、どうにも悲しかった。
「私が日本から失踪し、13年以上という長い月日が経過しました。その間、あなたのことを忘れたことはなかったんです。本当です。小学校に、どんな色のランドセルを背負って通っているのだろう。友達はいるだろうか。勉強をしたり、好きな趣味を見つけたり、しているだろうか。そうやってずうっと私は」
言葉が途切れた。
ヒジリはつないでいた手をそっとほどくと、マコの肩をグッと抱き寄せた。
「中学校に上がったのかな、制服姿はきっとかわいらしいに違いないな。おとなしい子だったけど、いじめられたりしていないだろうか。どこかの高校に進学できたかな、困難にくじけていないだろうか、苦しんでいないだろうか。ずっとずっと、ずうっと、そうやって」
肩を抱く腕はとてもあたたかい。
泣きながら話す父親の温もりを感じているうちに、マコの瞳からも涙がこぼれた。




