第26話:本当のお父さん
[二八そば 聖]の裏口を出て裏路地を少し進んだ先には、のどかな田園風景が広がっている。
田舎道に続く路地に立ち尽くし、ヒジリは少し困ったように空を振り仰いだ。
マコも、つられるようにして空を眺める。
ぱあっと晴れた空は、呑気すぎると思ってしまうほどに青かった。
――本当のお父さんかもしれない。
正直なところ、そういう思いは確かにあった。
それが疑念だったのか、それとも単に自分の願いだったのかは分からないけれど。
しばしの無言。
少しだけ、勇気を出してみることにした。
手を伸ばす。
父親の手を、そっと握る。
大きくて、あたたかくて、少しガサガサした手。職人の手。
いつだってマコを助けてくれる、優しい手。
ヒジリは、つないだその手をじっと眺め、はあ……と息を吐く。
それから、おもむろに口を開いた。
「私は、あなたの心を惑わせることばかりで……」
そう言うと、手をぐっと握り返して、
「もう、隠しごとは無しにしますから……」
それだけ言うと、軽くマコの手を引っ張り、ゆっくり歩き始めた。
手をつなぐのは、どうにも落ち着かない。なんだか、心の奥がくすぐったい感じがする。
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「私の、日本での名前は、柴田浩一といいます」
歩きながら、ヒジリは言った。
「しばた……」
その名字を、マコは知っている。
「私の、保育園の頃の名字、柴田だった」
「そうですね。K区のあじさい保育園」
「うん……」
なじみのある園名だった。
この人は本当に私の父親なのだと、やっと実感できた。
母親は、父親が失踪したあと、父親の痕跡が残るものをすべて処分したのだと思う。さらに、すぐに手続きをして旧性の中原という名字に戻した。離婚が成立したのかは分からないけれど、とにかく柴田という名字を急いで捨て去ったようだった。
マコはひとりぼっちの家でときどき、戸棚や押し入れを探っていた。でも、家の中にあるものから父親のことを推測しようとしても無理だった。その姿どころか、名前を知ることもできなかった。
「これでも私は、保育園に送ったり、お迎えに行ったりしていたんですよ。それに、一緒に食事をしたり、公園まで散歩したり。小さなマコと一緒に、いろんなことを」
ああ、この人は小さい頃の自分を知っていて、こんなに長い年月が経っても忘れないでいてくれているんだ。
そう思ったら、心の奥にじんわりと火が灯るような温かさを感じた。
ヒジリは話し続ける。
「公園に行くと、マコはずっと帰りたがらなくて難儀したっけなあ。活発に遊ぶわけじゃなくて、どんぐりとかを、ちまちま拾って過ごしていました。一度、アカツメクサとシロツメクサを摘んで、どうぞって言って私にプレゼントしてくれた。嬉しかったなあ。ああ、家ではお絵描きをするのが好きだった。なんだか、一時期はフルーツの絵ばかりを熱心に描いていました。フルーツは好んで食べるのに、少食であまりご飯を食べなくて。それに寝付きが悪くて……」
父親はこんなにもたくさん、マコのことを覚えてくれている。
ふと思い出した。この世界に降り立った日の晩ご飯には、どういうわけかたくさんのフルーツが出てきた。もしかするとあれは、小さなマコの好物をずっとずっと忘れずにいてくれたからなのかもしれない。
おつかいに出てお花を買って帰ったときにあんなに喜んでいたのだって、花をもらった昔のことを思い出したからなのかもしれない。
でもマコは、日本で一緒に過ごしたはずの父親のことを何も知らない。
少しも覚えていない。
思い出そうとしても、何も思い出せない。
それが悔しくて、悲しくて、目に少しだけ涙が滲んだ。
「でも。あなたが5歳になる少し前のことです。私は前触れもなく、この世界に喚ばれました」




