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王宮奇恋怪異譚  作者: 埴輪庭


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8.ジャハール②

 ◆


 静かだ。


 暖炉の薪が爆ぜる音だけが残っている。茶碗がまだ二つ卓の上にある。ダグラスのほうは半分ほど残っていた。ジャハールのほうは一口もつけていない。


 ──殺された、というわけではないのですな? 


 ダグラスの声が耳の奥にこびりついている。あの穏やかな、しかし刃を仕込んだ声が。


()め。何かしら勘付いているな……」


 ジャハールは椅子の肘掛を握った。


 指が震え始めている。


 最初は右手だけだった。それが左手に伝播し、肘に上り、肩甲骨の裏を駆け抜けた。背筋が痙攣した。腹の底に穴が開いたような寒気がして、胃液が逆流しかける。


 ジャハールは自分の顔を両の掌で覆った。


 指の隙間から呼吸が漏れる。湿った、崩れた呼吸だった。


 壁のフェリクスの肖像画がジャハールを見下ろしている。画家が描いた怜悧な目。生前と寸分違わぬあの目がジャハールを見ている。


 だがあの目はもうない。


 フェリクスが死んだから、という意味で概ね間違ってはいない。


 概ねは。


 ・

 ・

 ・


 ()()は、深夜に起こった。


 侍従が蒼白な顔で屋敷に駆け込んで来た時、ジャハールは書斎で書類に目を通していた。公務が溜まっていたのだ。まあいつも溜まっているのだが。


「旦那様、フェリクス様が──」


 侍従の者は最後まで言えなかった。顔色は真っ青で、震えている。これはただ事ではないと感じたジャハールはフェリクスの部屋まで急ぎ、そして。


 ()()()()()()


 最初に気づいたのはその暗さであった。


 灯りは全て消えていた。だがそれだけでは説明がつかない暗さだった。ジャハールはすぐに窓がないと気付く。いや──窓はある。あるはずだ。フェリクスの部屋には東向きの大きな窓が二つあった。だがその位置に窓はなく、本棚があった。


 本棚が窓を塞いでいたがゆえの暗さだった。


 フェリクスの背丈より二回りも大きな樫材の本棚だ。これを一人で動かしたというのか。百巻を超える蔵書が詰まったまま、窓の前に押しつけるように移動させてある。本棚の縁が窓枠に食い込み、隙間からわずかに月明かりが漏れていた。


 ──なぜ窓を塞いだ。


 ジャハールの靴底が、何か硬いものを踏んだ。


 見下ろすと──なにか破片の様なものが散らばっていた。ジャハールは屈み込んで拾い上げる。薄く、鋭い。指の腹に触れた瞬間、皮膚が裂けて血の玉が浮いた。


 鏡だ。


 部屋にあった姿見が叩き割られている。枠だけが壁際に倒れており、鏡面は粉々に砕け、大小無数の破片が床一面に散らばっていた。


 ジャハールの目が部屋の奥に向く。


 寝台の傍に、人の形が横たわっていた。


 言うまでもない、フェリクスであった。


 仰向けで、衣服は寝間着のままだ。


「灯りを」


 ジャハールはつとめて声を抑え、侍従から燭台を受け取り、状況を検分した。


 目がない。


 左右の眼窩は空洞だった。だが、空洞という言葉では足りない。中身が(えぐ)り取られていた。まぶたの縁が千切れた薄い肉のように眼窩の淵からはみ出し、こめかみに向かって裂けている。瞼だったものが両の眼窩を縁取って垂れ下がり、乾いた血の膜と張りついていた。


 そして眼窩の周囲に無数の切り傷があった。額、頬、鼻梁の両脇。直線的で深く、平行に近い間隔で並んでいる。刃物の傷だった。しかし刃物はない。


 刃物はない。ないが──床に散らばっている破片の中にひときわ大きな欠片があり、それがフェリクスの右手の指の間に挟まっていた。


 鏡の破片だ。


 鏡の破片が血で黒く染まり、フェリクスの指の間に握り込まれている。指そのものも切れていた。人差し指と中指の腹が深く裂けて骨が覗いている。硝子の縁が手の肉に食い込んだまま離れない。あまりの力で握り締めたのだろう、破片が掌を貫通しかけている。


 この鏡の破片で──自分の目を抉ったのだ。


 フェリクスの口が半開きで固まっていた。絶叫の形だった。唇は裂け、歯茎から血が滲んでいる。歯を食いしばった痕がある──奥歯の一本がひび割れていた。


 屋敷は警備が厳重だ。門には常に衛兵が立っている。それを掻い潜って息子の部屋に忍び入り、これほどの惨状を残す者がいる。


 誰が。なぜ。


 ──なぜ、か。


 ジャハールにはその「なぜ」に心当たりがあった。フェリクスが生前に犯した醜行を、ジャハールは知っている。他ならぬフェリクスが言ってきたのだ。「殿下に命令をされました」と。ジャハールは一人の父としてフェリクスを叱り飛ばしたが、しかし起きてしまった事はもう仕方がない。そのメイドと親しかった者たちを洗い出し、多めに金を与えてまとめて暇を出した。


 そういった隠ぺい工作を不服とした何者かが此度の暴挙にでたのだろう──ジャハールはそう考えた。


 ・

 ・

 ・


 ジャハールは掌の中で目頭を指で押さえた。


 息子は報いを受けた。そしてその報いは、公にできない種類のものだった。


 フェリクスの醜行が露見すれば宰相家は大きなダメージを負うだろう。死に様をそのまま報告すれば、何があったのかを調べざるを得なくなる。調べれば出てくるものもあるに違いない。


 フェリクスは病で死んだのだ。


 それがすべてだ。そうでなければならない。


 ジャハールは掌を顔から離した。呼吸が整っていた。瞼の重さも元に戻っている。


 壁のフェリクスの肖像画をしばらく見上げてから、ジャハールはぽつりと「妻が死んでいてくれてよかった。あれが生きていれば隠ぺいはより困難なものになっただろう」と呟いた。

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