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王宮奇恋怪異譚  作者: 埴輪庭


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7.ジャハール

 ◆


 翌朝、ダグラスはアレシアの部屋を訪ねた。


 アレシアは起きていた。冬の朝の光が白く部屋に差し込んでいて、顔色は昨夜よりずいぶん良い。


「具合はどうだ」


「大丈夫です、お父様。もうほとんど」


 そうか、ダグラスは椅子を引いて座った。朝食の盆が机に置かれている。パンと果物と温かいスープ。アレシアがスープに手をつけるのを見てから、ダグラスは切り出した。


「アレシア、暫くのあいだ臥せていなさい」


 スプーンが止まった。


「屋敷から出てはならない。王妃教育については儂からお前の体調に問題がある事を伝えよう」


「……お父様、それは」


「暫く休みなさい。お前は三刻も気を失っていたんだ。医者は異常なしと言うが、倒れた事実は変わらない。理由としてはそれで十分だろう」


 アレシアはしばらく黙っていた。スープの湯気が細く立ち上っている。それからゆっくりと頷いた。


「……分かりました」


 素直に頷いたのは、アレシア自身もあの城が怖くなっていたからだろう。あるいは、休むことへの安堵があったのかもしれない。どちらにせよ反発されずに済んでダグラスはほっとした。


「何日くらいですか」


「一週間は休め。その後のことは、その時に考えよう」


 一週間。その間にダグラスは調べる。何を調べるかはまだ定まっていないが──少なくとも、ルキウスの周辺で何が起きているのかは把握しなければならない。


 ◆


 こうしてアレシアの「療養」が始まった。


 療養とは名ばかりで身体に異常はないのだが、城に行かない日々というのは存外にアレシアの心を軽くしたらしい。二日目にはもう庭を歩いていたし、三日目には書斎で本を手に取っていた。


 ダグラスも──これは意図してそうしたのだが──アレシアと過ごす時間を増やした。朝食を一緒に取り、午後は書斎で本の話をし、夕方は暖炉の前で茶を飲む。


 最近はこういう時間がなかった。王妃教育が始まって以来、アレシアは毎日城に通っていた。帰ってくるのは夕刻で、食事をして少し話をして、寝る。こちらも公爵家の雑務が終わらないので、まともに顔を合わせるのは朝と夜だけだった。


「お父様は本当に本が好きですね」


「そうだな。──いや、好きというよりは、他に取り柄がないんだよ」


「またそんな事を」


「いや本当だ。剣は下手、馬術も下手、社交は余り好きではない。唯一人に勝てるとすれば読書量くらいなものだが、読書量で勝てる相手というのは総じて忙しい人間なので、勝っても自慢にはならん」


 アレシアがくすくすと笑った。こういう笑い方をするのは久しぶりだ。城に通い始めてからは、笑い方が少し変わっていた。きちんとした笑い方──嫌なものではないが、ダグラスとしてはこの素の笑い声のほうが好ましい。


「お義母様も本が好きだったのかしら」


 不意に出た問いだった。ダグラスの手が一瞬止まる。止まったのは本当に一瞬だけで、すぐに茶杯を口に運んだ。


「好きだったよ。儂より好きだった。──いや、正確に言えばな、儂が本を読んでいると横で同じ本を読みたがる人だった。自分から読むことはあまりなかったが、儂が読んでいるものには必ず興味を持った」


「お父様の趣味が移ったんですね」


「そうかもしれん」


 ダグラスは一口茶を啜り、窓の外を見た。庭園の樫の木が冬の風に揺れている。


「それにしてもアレシア、お前の横顔はどうにもメリッサに似ているな。こういう角度で光が当たると、特に」


 アレシアが少し照れたように目を伏せた。


「お義母様に似ているのは嬉しいのですが」


「ぬ」


「──目の下の隈も似ているとはおっしゃらないでくださいね」


 ダグラスは目を瞬いた。それから笑った。声に出して笑ったのは何日ぶりだろう。


「……言おうと思ったのだが、言わなくてよかった」


「お父様、顔に出ていましたよ」


「なんと」


 暖炉の火が爆ぜた。二人の笑い声がそれに重なって、書斎の空気が少しだけ柔らかくなった。


 ──しかし、とダグラスは思う。


 この穏やかさを壊そうとしている何かがあの城にはある。娘は嘘をついていない。何かがあった。幽霊ではないかもしれないが、有害な、有毒な何かがある。


 ダグラスは笑みを崩さぬまま、頭の中で段取りを組み始めていた。まずはフェリクスの死について調べる。宰相とは旧知の仲だ。弔問という形であれば不自然ではあるまい。


 ◆


 宰相の屋敷は王城の西、石造りが連なる官吏街の突き当たりにあった。


 公爵家の馬車が門前に停まると、扉が開くよりも先に執事が出迎えた。老齢の男で髪は白いが、背筋だけは若い。執事は主人に似るものだ──ダグラスはそんな事を思いながら馬車を降りた。


「グリューネヴァルト公爵閣下。──お待ち申し上げておりました」


「ご丁寧にどうも。宰相閣下にはお時間を頂戴して恐縮です」


 弔問の書状は三日前に送ってある。返事は翌日には届いた。短い文面だった。<日時はご都合に合わせます>──宰相の筆跡は達筆で、達筆すぎて少し読みにくい。まあ政治家の書くものは大概そうだ。


 案内された応接間は暖炉が焚かれ、茶の用意がされていた。壁に掛かる肖像画が二枚。宰相の若い頃の肖像と、もう一枚は──フェリクスだろう。怜悧な目が特徴的に描かれている。画家は腕が良い。生前のあの陰気な鋭さをよく捉えている。


 椅子に腰を下ろしてほどなく、奥の扉が開いた。


 宰相ジャハールが入ってきた。


 長身で痩身。頭髪は白いが量はまだある。顎が尖っていて鼻梁が高い。目が細くまぶたが重い。これが厄介だった──表情を読みにくい。初めて会ったのは十年以上前の社交の席だったが、あの時から変わらない。笑っているのか怒っているのか考えているのか、外からではほとんど判別がつかない。


「ダグラス公。──ようこそおいでくだされた」


「ジャハール閣下。──フェリクス殿のこと、改めてお悔やみ申し上げます」


 ジャハールが首を垂れた。垂れ方に乱れはない。深すぎず浅すぎず、宰相の体面を保ちつつ謝意を示す、ほぼ理想的な角度の会釈だった。感情が入っているのかいないのか、それすらも読めない。


「ご丁寧に。公爵閣下にはお忙しいところ、わざわざ足を運んでくださり──」


「堅い挨拶は抜きにいたしましょう。閣下も儂もそんな柄ではございますまい」


「ふむ──それでは、お言葉に甘えまして」


 ジャハールが向かいの椅子に座った。茶が注がれる。給仕の手が引いてから、ジャハールが最初に口を開いた。


「ご令嬢がお体を崩されたと聞きましたが、具合はいかがですかな」


 ダグラスは内心で警戒した。こちらが訊くよりも先に、こちらの事情を把握しているのだ。まあそれはいい。王妃教育の休止は城にも伝えてある。宰相であれば城内の動向を逐一把握していて何も不思議はないが──挨拶代わりにそれを持ち出すのは、話の主導権を取る手口でもある。


 主導権を取ろうとするのはなぜか──それは、聞かれたくない事、言いたくない事があるからだとダグラスは考えた。


「お気遣いありがとうございます。大したことはないのです。城への通いが続いておりましたのでな、少々疲れが溜まったようでして」


「冬の王城は骨身に応えますからな」


「全くです。暖炉が焚いてあっても廊下はいけません。特に西翼はどうも」


 試しにそう言ってみた。


 ジャハールの表情は動かない。茶碗を持ち上げ、縁に唇をつけ、置く。一連の動作に揺らぎがない。


「西翼は確かに冷えますな。日当たりが悪い。城の設計に問題があると儂も何度か進言したのですが──まあ、城を建て直すわけにもいきますまい」


 ──なるほど。


 ダグラスは笑みを浮かべた。この男は会話を常に事務的な地平に着地させる。「西翼は冷える」という言葉に何か含みがあったとしても、それを建築の話に変換してしまう。壁の向こうに何があっても、壁の手前の話しかしない。


 まあ、そういう男だからこそ宰相なのだろう。


「閣下。──改めてお伺いしたいのですが」


「なんでしょう」


「フェリクス殿のことです」


 ジャハールの茶碗が卓に触れた。音はしなかった。


「何をお知りになりたいのですか」


「率直に申しましょう。──どのように亡くなったのですか」


 間があった。暖炉の薪が小さく爆ぜる。


「ご存じの通り、病で」


「病──ですか」


「ええ。急な──致し方のないことでした」


 ダグラスは頷いた。頷きながら、ジャハールの目を見ていた。目というよりは瞼だ。あの重いまぶたの奥に何があるのか、ダグラスには分からない。分からないが──「病」と言った時の声の温度が、ほんのわずかに下がったような気がした。


「儂が存じておりますのも、公式の発表と変わらぬ情報です。自室で急に体調を崩され、そのまま──と。だが閣下、失礼を承知で申し上げますが、あの年齢の若者が自室で一人きりで急な病で、というのは……」


「珍しい事ではありますが、ない事でもございません」


 即座に返ってきた。呼吸を置かぬ応答。用意されていた答えだ、とダグラスは思った。この問いが来ることを、ジャハールは予測していた。弔問に来るような親しい間柄の貴族は皆、同じ事を訊くのだろう。回答は練られ、磨かれ、角が取れている。


「もちろん──そうでしょうな」


 ダグラスは茶を一口啜った。ジャハールの茶だ。上等だが、渋みが後に残る。好みの問題だろう。ダグラスはもう少し軽い茶のほうが好みだった。


 さて──とダグラスは思う。ここで引くのが礼儀だ。弔問に来た同僚が、遺族に対して死因を詮索するのは品がない。宰相もそう思っているだろう。ここで「左様でございましたか」と引けば、茶を飲み干して辞去し、それで終わる。


 だが、引かなかった。


 ダグラスは茶碗を卓に戻し、ジャハールの方をまっすぐに向いた。


「閣下。──殺された、というわけではないのですな?」


 ジャハールの瞼が動いた。


 痙攣というのが最も近い。まばたきではない。片方の──左のまぶたがほんの一瞬、虫が止まったかのように引き攣れたのだ。それは本当に一瞬のことで、茶碗を置く音のほうがまだ長かったかもしれない。


 だがダグラスは見た。


「いかにも。殺害ではございません」


 ジャハールの声は静かだった。先ほどの「珍しい事ではありますが」と寸分違わぬ声温で否定した。


「息子は──病で亡くなったのです、公爵閣下。それがすべてです」


 ダグラスは頷いた。今度は本当に引いた。ここから先は刃物の領分だ。弔問という鞘に収められる言葉ではない。


「失礼な事を伺いました。お許しください」


「いいえ。お気になさらず。──皆さん、同じことをお訊きになります」


 ジャハールの口元がわずかに動いた。微笑みに似たものだったが、微笑みとは言い切れない。あの重いまぶたの下で何が明滅しているのか、ダグラスには遂に読めなかった。


 ◆


 馬車に揺られながら、ダグラスは天井の革張りを見上げていた。


 瞼が動いた。


 それだけだ。ジャハールはすべてを否定した。病だと言った。殺害ではないと言った。声も手も震えなかった。三十年宰相を務めた男の面の皮は、ダグラスが思っていた以上に厚い。


 しかし、あの瞼だけは──。


 痙攣は随意ではない。意志で制御できる筋肉ではないのだ。社交の場で顔を作り込む人間ほど、微細な部位に本音が漏れる。ダグラスは長年の経験からそれを知っている。


 殺されたのかと問うた瞬間にジャハールの体が反応した。否定の言葉は完璧だった。だが体は一瞬だけ嘘をついた──いや正確に言えば、体だけが一瞬真実を語ったのだ。


 フェリクスは殺されたのか。


 いや──断定はできない。瞼の痙攣が意味するものは「殺された」のかもしれないし、「殺されたも同然の何か」があったのかもしれない。あるいは全く別の意味かもしれない。人の体の反応は「問いに対する答え」ではなく、「問いそのもの」に反応する場合がある。殺害という語を耳にして不快になっただけかもしれない。


 ──まあ、分からん事は分からん。


 ダグラスは溜息を一つ吐いて、窓の外に目を向けた。冬の街並みが流れていく。行き交う人々の吐く息が白い。


 はっきりしていることもある。


 ジャハールは、何かを隠している。それが何であるかは分からない。フェリクスの死因かもしれないし、それ以外の何かかもしれない。だが「何も隠していない人間」の瞼はあんな動き方をしない。


 ダグラスは顎を撫でた。今朝剃ったばかりの髭が少しだけざらつき始めている。


 さて、と思う。


 次はどこを突く。宰相が壁なら、壁の裏に回る道を探さねばならない。城の中に何があるのか。ルキウスの周辺で何が起きたのか。フェリクスはなぜ死んだのか。


 全部が繋がっているのか、全部が別の話なのか──それすら、まだ分かっていない。


 馬車が石畳の段差で揺れた。ダグラスは窓の外を見たまま、次の一手を考え始めていた。

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