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王宮奇恋怪異譚  作者: 埴輪庭


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6.ダグラス

 ◆


 目を開くと天蓋が見える。見慣れた天蓋だ。窓の外は暗い。夜──かもしれないし、早朝かもしれない。


 体は重く、頭の芯がぼんやりと熱を持っていて、こめかみのあたりが脈を打っている。


 ──何が、あったんだっけ。


 アレシアの脳裏を過る門灯。ヨアヒムの口髭。馬の鼻息。花の匂い。


 そう、花の──。


 寝台の脇で衣擦れの音がした。


「お嬢様? ──お気がつかれましたか」


 侍女のマルタだった。公爵家に長く仕えている中年の侍女で、普段は感情を面に出さない女なのだが、目元が赤い。


「マルタ……私は」


「お倒れになったのです、門の前で。ヨアヒムが人を呼びまして──旦那様がすぐに駆けつけてくださいました」


 水差しからコップに水を注ぐ。注ぎ口が小さく震えて、水がコップの縁を伝い落ちた。


「もう三刻ほどになります。お医者様にも診ていただきましたが──お体にはどこも異常がないと」


 三刻。ずいぶん眠っていたらしい。差し出されたコップに口をつけると、冷たさが喉を伝い、胸の奥まで落ちていく。頭の芯の熱が少しだけ引いた。


 上体をゆっくりと起こす。頭がふらつくが、倒れるほどではない。


「旦那様をお呼びいたしましょうか──いえ、もう」


 廊下から足音が近づいてくる。大股で速い。扉がノックもなく開いた。


 父のダグラスだった。


 部屋着の上に外套を引っかけただけの恰好で、髪が乱れている。普段は身なりに気を遣う人なのだが──そんなことを気にしている様子はなかった。寝台の脇に来るなり片膝をついて、アレシアを抱きしめる。力が強い。体格の良いダグラスの腕が回ると、肩と外套の布地で視界が塞がれた。


「お、お父様──力が……」


 笑いが漏れた。自分でも変なところで笑うものだと思ったが、ダグラスの腕の中が温かくて──こういうときに泣くか笑うかは人によるのだろうが、アレシアは笑うほうだ。


「おっと、すまない」


 ダグラスは慌てて腕の力を緩めた。目の奥が湿っている。三刻のあいだずっとこういう顔をしていたのだろう──娘に弱いのだ、この男は。


「医者は異常なしと言うんだが──どうした、何があった? ……ふむ、マルタよ、少し席を外してくれるか」


「はい、旦那様」


 マルタが一礼して出ていく。扉が静かに閉まった。ダグラスが枕元に椅子を寄せて座り直す。蝋燭の灯りが揺れ、額と顎の線に影を落としている。


「……お父様」


「うん」


「城に──幽霊がいるのです」


 ダグラスの目がわずかに見開かれ、それからゆっくりと元に戻った。ルキウスのときとは違う。幽霊を見たと伝えたとき、ルキウスが瞳孔の一つも動かさなかったのに対し、ダグラスは素直に驚いていた。そしてそのことを隠そうともしない。


 アレシアは話した。西翼の冷気から始めた。馬車の窓のメイド。壁の角から覗いた爪のない指。自室の足元の影と寝台の下の水痕。書斎での遭遇──ルキウスに手を伸ばした女。そして腐臭。ヨアヒムにも感じ取れた、あの匂い。


 ダグラスは一度も口を挟まなかった。幽霊の話を信じる性質の男ではない。だが顎に手を当てて、視線をアレシアに据えたまま聞いている。


 話の終わりが近づいたころ、ダグラスの目がある種の鋭さを帯びる。


 アレシアが親しんでいる父の目ではなかった。読書家で、穏やかで、肩が凝りやすくて、娘に弱い──そのダグラスの目に()()()()()()()が宿ったのだ。ほんの一瞬だけ。


 アレシアはこの種の目を見た事がある。貴族だ──貴族の目だ。心の機微、ひだの一枚一枚の造形を確かめるかのような──


 だがそんな鋭い視線は一瞬でふわりと溶けた。そしてダグラスはアレシアの肩に手を置き、引き寄せる。二度目の抱擁だった。今度は力を加減している。


「お前が嘘を言っていない事は分かる──いや、分かった」


 低く、静かな声だった。頭を撫でる手が温かい。


 ダグラスがゆっくりと体を離した。アレシアの顔を見る。


「ただ──正直に言うが、アレシア」


「……はい」


「そんな話を鵜呑みにはできない。幽霊というものを儂は見た事もなければ触れたこともない。話した事も当然ない。お前が話してくれたような経験は一度もない。だからすぐには信じられん」


 ダグラスは言葉を切り、一拍置いてアレシアの目を見る。


「しかしな、アレシア。鵜呑みにできないからといって──儂がお前を見捨てるはずがないという事は、分かるな?」


 アレシアは父の顔を見た。


 一秒、二秒、三秒。


 今この瞬間、アレシアの目は敬愛する父にも似た鋭さを帯びているだろう。まあ、本人は気づいていないかもしれないが。


 ややあって、アレシアはこくり、と頷いた。


 ◆


 アレシアが寝台に落ち着いたのを確かめてから、ダグラスは自室の書斎に戻った。


 椅子に腰を下ろし、暖炉の火を見る。


 幽霊。


 馬鹿馬鹿しい──と切り捨てる事は簡単だ。だがあの目は嘘をついていなかった。ダグラスは三十年以上貴族として社交の場に身を置いてきた。嘘をつく目、真実を語る目、その違いを見誤ったことは一度もない。


 あれは嘘ではなかった。


 だが幽霊が存在するとも思えない。ではどちらかが間違っているのか──いや、どちらも正しいのだ。アレシアは本当に何かを「見た」。だがそれが幽霊であるとは限らない。


 では何を見たのか。


 ダグラスは暖炉の炎を見つめながら、娘の話を頭の中で整理した。


 一。西翼の廊下で冷気を感じた。

 二。馬車の窓からメイド服の女を目撃した。御者のヨアヒムには見えなかった。

 三。壁の角から覗く指。爪がなかった。

 四。自室の足元に人影。翌朝、床が濡れていた。

 五。書斎でルキウスの前に女が出現した。ルキウスに手を伸ばした。

 六。匂い。ヨアヒムにも感じ取れた。


 一から四までは、極論すればアレシア個人の認知の問題として片付けられなくもない。疲労、暗示、不安──人間の目は見たいものを見るし、怖いものも見る。公爵家の令嬢が慣れない城に通い詰め、見知らぬ環境に身を置けば、多少の幻覚じみた経験があっても不思議はあるまい。


 まあ大分無理はあるが、とダグラスは苦笑する。


 ダグラスは一つ一つの事象を解き明かす事を早々に放棄した。個別の事象に対する合理的な説明は問題の解決につながらないと考えたのだ。だから代わりに全体をみる。「誰の周辺で起きているか」「誰が知っていて黙っているか」という、事象ではなく人の配置を見た。すると、とある核──本質が浮かび上がってくるのだ。


 それは何かと自問すると、即座に自答が返ってくる。


 ルキウスだ。


 事象の中心にルキウスがいる。


「何が起きているか」は分からない。だが「誰を中心に起きているか」は明白であった。


 幽霊云々の話ではなく、ルキウスが()()の起点になっている。直接的にアレシアを害したわけではないだろう。だがルキウスの周辺で何かが起きていて──


 ──アレシアはそれに巻き込まれている、か。


 ダグラスは親指の腹で顎の下を撫ぜる。


 じょり、という感触にそろそろ髭をあたらねばと思う。

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