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王宮奇恋怪異譚  作者: 埴輪庭


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5.花の香

 ◆


 香る。


 花の匂いではない。花が枯れて壷に残った水が何日も放置された後の、あの微かで甘い腐臭に似たもの。しかし廊下に花瓶などない。だが、香る。あえていうならば、人の匂いだろうか。そう、体温の残滓──だが体温は匂わない。匂わないはずなのだが、そうとしか言い表しようのない気配の名残が石壁に染みついている。


 アレシアが息を浅くしながら歩を進めていくと──。


「あれ、は……?」


 二十歩ほど先の壁際に白いものが見える。燭台の光が辛うじて届く位置だ。紋章旗でも掛布でもない。もっと小さい。


 白い何かが一つ、二つ──四つ。


 少しずつ距離を詰めてよく見てみると──それは指だった。


 白い指が四本、壁の角から覗いているのだ。だが色がおかしい。白すぎる。生きている人間の指は、ああいう色をしていない。それに──。


 ──爪、が。


 アレシアの背に蟻走感が走る。


 爪がない。


 ただの一枚も爪がない。


 アレシアは声をかけようとした。「誰かいるのですか」という何の変哲もない言葉が喉元まで来ていた。しかし出なかった。出なかったのは恐怖のせいではない──出してはいけないと、体が知っていたのだ。声をかければ応えが返ってくるかもしれない。応えが返ってきてしまったら、もうなかったことにはできない。


 アレシアは二歩、三歩と後ずさり、まろびだす様にその場を立ち去った。


 ◆


 城の異変が公爵家の屋敷にまで追いかけてきたのは、その二日後の夜だった。


 自室だ。見慣れた天蓋。嗅ぎ慣れた寝具の匂い。窓の外には庭園の樫の木の影。城で何があろうとここは別だった。馬車に乗って帰ってしまえば、あの冷たさや匂いはこちらまでは来ない──そういうことになっていた。


 深夜に目が覚めた。何に起こされたのかは分からない。枕元の蝋燭を点けると灯がちりちりと弱く揺れる。窓の外は闇。屋敷の古い梁が軋いている──冬の夜には珍しくない。


 寝返りを打とうとして、打てなかった。


 寝台の足元に、誰かが立っている。


 暗い。枕元の蝋燭は一本きりで、光は足元まで届かない。だが「立っている」ことだけは分かる。闇の中に闇よりわずかに濃い輪郭がある。人の形をしている。メイド服の裾が光の境界線の上でかろうじて見えた。


 ここは城ではない。


 ──なのに、なんで。


 その一点が内臓の底を掴んだ。城の中の出来事だと思っていた。古い城には古い城の怪異がある。まあそこまでは理解しよう。


 だが馬車に乗り、城門を出て、街道を越え、公爵家の門をくぐり、階段を上ってここまで来たのだ。


 ──なのに、どうして。


 動けなかった。恐怖だけが理由ではない。動くことは「そこに何かがいる」と認めることであり、声を上げることは「助けが必要だ」と宣言することであり、何より公爵家の自室にまで来たものを認めるということはあれが()()ではなく()()についてくる類のものだと認めることだった。


 だから目を閉じた。


 朝が来るまで目を閉じて、これは夢だ、悪い夢なのだと思っているうちに──鳥の鳴き声がきこえた。


 目を開けると、もう朝だった。足元には誰もいない。天蓋に朝の光が薄く差している。蝋燭はいつの間にか消えていた。


 だが寝台を降りて、ふと足元に視線を落とすと──。


 ひゅっと息が吸い込まれる。


 寝台の足元の床板が、一面に濡れていた。


 水だ。冬の結露にしては量がおかしい。びしょ濡れの誰かがそこに長い時間立ち尽くし、裾から水が滴り落ちたかのように、足型ほどの範囲が黒く染みている。


 侍女を呼び、尋ねるが──「まあ冬ですから。寒い日は……こんな事もあるのではないでしょうか」などといって布で床をふき出した。


 なるほど、寒い日なら外との気温差でそんな事もあるかもしれない。


 なるほど、寝台から大股で十歩はある窓に伝う寒気が何か悪さをして、都合よくアレシアの寝台の足元付近へ凝り固まり、結露したのかもしれない。


 なるほど、どんな奇妙な事でも説明はつくものだ。


 なるほど、なるほど──そんなわけあるものか、とアレシアは思った。 


 ◆


 アレシアはその翌日、書斎でルキウスに打ち明けた。


 順を追って話すつもりだった。西翼の廊下の冷気から始まり、馬車の窓から見たメイド、角から覗いた指、寝台の足元の影、床の水。順を追えば相手にも伝わるはずだと思った。


 だが実際に口を開くと、出てきたのは──


「殿下、幽霊を見ました」


 それだけだった。順も何もない。ただ、もうこれを一人で抱えていられなかった。


 ルキウスの反応は予想していたどれとも違った。笑い飛ばされるか、案じられるか、あるいは疲れだろうと片づけられるか。そのどれでもなく、ルキウスは数秒ほど黙り、それからゆっくりと杯を卓に置いた。音を立てなかった。


「どこで見た」


 真顔だった。茶化す気配がない。疑う気配も、驚く気配もない。ただ場所を訊いている。


 アレシアは西翼の廊下のことを話した。自室まで追ってきたことまでをつまびらかに。話しながらルキウスの顔を窺ったが、表情は動かない。動かないこと自体が、アレシアには不自然に映った。普通は何かしらの反応があるものだ。信じるにせよ信じないにせよ、婚約者が幽霊を見たと言えば眉の一つも動かすだろう。なのにルキウスの顔はまるで既に知っていることを聞かされているような、そういう静けさだった。


「……殿下は、何かご存じなのですか」


「いや」


 間があった。ほんの一拍。しかしルキウスの一拍は、たいていの人間の十秒に相当する重さがある。


「気のせいだと言い切る自信が、私にもないだけだ」


 ルキウスはそれだけ言って窓の外に目を向けた。西翼の方角だ。日が傾きかけている。石壁が橙に染まるはずの時刻なのに、今日は雲が厚く、城の影が一段と暗い。


「──もう遅い。今日はここまでにしよう」


 アレシアが立ち上がりかけたとき、ルキウスも椅子から腰を浮かせた。いつもならば書斎からは一人で出て、廊下で侍従と合流するのだが、今日はルキウスが扉まで付き添ってきた。


 その手が把手にかかる。引いた。


 開かなかった。


 ルキウスがもう一度引く。扉は微動だにしない。鍵はかけていない。この書斎の扉に鍵はそもそもついていない。なのに、石の壁に溶接されたかのようにびくともしなかった。


「──おかしいな」


 ルキウスが呟いて把手から手を離した瞬間、書斎の温度が落ちた。暖炉は燃えているのに吐く息が白くなる。蝋燭の炎が一斉に痩せ、影が伸びた。


 匂いがした。あの匂いだ。枯れた花の水が腐ったあの甘い腐臭が、壁の石目から滲み出すように広がってくる。


「殿下」


 アレシアの声が震えた。ルキウスが振り返る。


 部屋の隅に、誰かが立っていた。


 メイド服の背中だった。黒い髪が肩にかかっている。書斎に入ったとき、あの隅には誰もいなかった。本棚と壁の隙間に、いつの間にか一人の女が背を向けて立っている。


 ──動いている。


 首が回り始めた。肩は動かない。体は壁に向いたまま。首だけが、人間の関節が許さない滑らかさで、音もなく回っている。


 見えた。


 まず頬が見えた。肌だったものが見えた。白かったはずの頬の肉が灰色に変じ、ところどころが裂けて下の筋が覗いている。唇が半ば溶けて歯茎が剥き出しになり、顎のあたりからは何か黒い液体が糸を引いて垂れていた。


 そして目が──あの、あるべき場所に開いた二つの空洞が、こちらを向いた。


 アレシアは声を出せなかった。喉が閉じている。


 女が歩き始めた。


 一歩。床板が(きし)んだ。


 二歩。腐臭が壁を伝って部屋中に広がる。蝋燭の炎が残らず消えた。暖炉の火だけが残り、その赤い光が女の崩れた顔を下から照らしている。


 三歩。アレシアの視界の端でルキウスが後ずさるのが見えた。


 四歩。女の右手が持ち上がった。腐った指が五本、ゆっくりとルキウスのほうへ伸びていく。アレシアのほうではない。アレシアの横を素通りし、その指はルキウスの顔を目指していた。


 ルキウスが壁に背をつけた。もう下がれない。女の指先がルキウスの頬に向かう。あと二寸。あと一寸。腐った爪の先端がルキウスの肌に触れる──その寸前で、女が消えた。


 煙のようにではない。炎が吹き消されるようにでもない。在ったものが、()()()()()のだ。


 ◆


 ややあって、 書斎の扉が音を立てた。


 アレシアが恐る恐る取っ手に手をかけると、扉が何の抵抗もなく開く。


 書斎は静かだった。暖炉の薪が燃えている。蝋燭は消えたままだ。匂いだけがまだ薄く残っている──あの甘い腐臭の残滓が、壁と本の革表紙の匂いに紛れて消えかけている。


 ルキウスは壁から背を離した。外套の襟元を正す。その動作にはルキウスらしい無駄のなさが戻っていたが、右手の指先がわずかに震えている。アレシアはそれを見ていた。見ていたが、何も言わなかった。


「──帰ってくれ」


 ルキウスの声は低かった。穏やかではあった。だが穏やかさの質が違う。いつもの「もう遅いから」ではなく、もっと切迫した何かを押し込めた声だった。


「殿下」


「今日のところは、どうか」


 目を合わせなかった。ルキウスがアレシアの顔を見ないのは珍しい。書斎の窓に目をやっている。窓の外は暗い。日はとうに落ちていて、硝子に映っているのは書斎の中だけだ。──つまりルキウスは窓を見ているのではなく、窓に映った書斎を見ている。


「……はい」


 アレシアは立ち上がった。それ以上何も言わなかった。今ここで問い詰めても何も出てこないだろう。ルキウスの顎の線が張っていた。唇が一文字に引き結ばれている。


 扉をくぐるとき、振り返った。


 ルキウスは窓の前に立っていた。左手で肩を押さえている。あの仕草だ。フェリクスの死を告げられたときと同じ。大分疲れもたまっているのだろう、とアレシアは胸を痛めたが──今は何かできるような状況でもない。


 アレシアは一礼して、静かに扉を閉めてその場を立ち去った。


 ◆


 廊下を歩きながら、アレシアはさっきの女のことを考えていた。


 腐った顔。空洞の眼窩。首だけが回る動き。そのどれもが胸の底に焼きついて離れないのだが──いちばん鮮明に残っているのは、手だった。


 あの手はアレシアに向かわなかった。


 書斎に入ったとき、女はまずアレシアのほうを向いた。あの空洞でアレシアを()()。それは間違いない。だが歩き出したとき、女はアレシアの横を素通りした。腐った指が五本持ち上がったとき、それが指していたのはルキウスだった。


 ルキウスの顔だ。ルキウスの頬。ルキウスの、肌に触れようとした。


 あの女はルキウスに用がある。


 そのことだけが奇妙な確信として胸に残った。幽霊の目的だの意図だのがあるものなのかすら分からないが、少なくとも自分はただ()()()()()()()()だけなのだ。あの女の用件はアレシアではない。


 では──誰だ。


 メイド服を着ている。王城のメイドだったのだろうか。メイドがルキウスに手を伸ばす。ルキウスは驚かなかった。幽霊を見たと伝えたとき、眉の一つも動かさなかった。まるで知っていたかのように。


 知っていた? 


 城門を出て馬車に乗り込むと、冬の夜気が頬を刺す。ヨアヒムが御者台から「お帰りが遅うございましたな」と声をかけてきた。心配の声色ではあったが、問い詰める調子ではない。


「少し長引いてしまって」


「左様でございますか。夜道は冷えますゆえ、こちらをお使いください」


 膝にブランケットを広げる。馬車が動き出す。石畳の上を車輪が転がる音が規則正しく響く。


 アレシアは毛布の端を指で弄びながら、窓の外を見ないようにしていた。暗い街並みが流れていく。流れていくのを見ると、路地の奥のあの女を思い出しそうになるから。


 メイド服。メイド服の女。王城のメイドだとして──あの女は生きていた頃、何をしていたのだろう。ルキウスの傍にいたのか。ルキウスに手を伸ばしたのは、生前の習慣の残響なのか。それとも。


 考えを追いかけるうちに馬車は公爵家の門をくぐった。車輪が砂利を踏む音で我に返る。


 ヨアヒムが御者台から降り、馬車の扉を開ける。差し出された手を取って降りると、冬の夜気が改めて肌を刺した。ヨアヒムは馬の首を撫でながら手綱を厩舎のほうへ引きかけた。


「ヨアヒム」


 呼び止めていた。自分でも考えるより先に声が出ていた。


「はい、お嬢様」


 ヨアヒムが手綱を引く手を止める。馬が鼻を鳴らした。門灯の光がヨアヒムの白髪交じりの口髭を照らしている。


「変なことを訊いてもいいかしら」


「何なりと」


「王城のメイドって、どういうお仕事をしているものなの」


 沈黙が一拍あった。それから──


「メイド、でございますか」


「ええ。城で見かけるでしょう、あの人たち。何をしているのか、実はよく知らなくて」


 嘘ではなかった。アレシアは王妃教育で城に通っているが、メイドの仕事を詳しく知る機会はなかった。彼女たちはいつも廊下の端を歩き、部屋の隅で控え、茶器を運び、蝋燭を替えている。そこにいるのは知っているが、何をしているのかは意外と見えない。大体の事は分かるのだが、詳しい所は分からないし、そもそもそれは彼女が学ぶべき事でもなかった。


「儂は若い頃しばらく王城の厩番をしておりましたので、少しばかりは存じております」


 ヨアヒムが王城に勤めていたことは知っている。だからこそ尋ねたのだ。


「メイドの仕事は大きく分けて三つでございます。一つは掃除。お城は広うございますからな、部屋を磨き、廊下を拭き、窓を洗い、燭台の蝋を替え──まあ、一日中歩き回っておりますな。二つ目は食事や茶の支度。厨房からの運搬、給仕、後片付け。三つ目が──」


 ヨアヒムが一瞬だけ間を置いた。馬が鼻面をヨアヒムの肩に寄せたが、ヨアヒムは気にも留めなかった。


「──貴人のお世話でございます」


「貴人の、お世話」


「身の回りの事ですな。着替えの手伝い、寝具の整え、入浴の支度。もっとも儂は厩番でございましたので、その辺りの詳しいことは見聞きした程度ではございますが」


「それは、決まった方に決まったメイドがつくものなの」


「と申しますと」


「たとえば──そう、殿下のお世話をするメイドは、いつも同じ人だったりするのかしら」


 また間があった。今度は先ほどより長い。ヨアヒムが言葉を選んでいるのが分かった。手綱を持つ手の位置がわずかに変わる。


「……そういう事も、ございますな」


「そういう事も」


「お仕えする方が固定される場合もございます。お好みや習慣を覚えた者のほうが何かと都合がよろしうございますから。ただ、全員がそういうわけではございません。多くは持ち回りでございます」


「では、専属でつく場合は珍しいのかしら」


「珍しくはございません。特に位の高い方のお傍には、信頼のおけるメイドが一人ないし二人、専属でつくものでございます」


 アレシアは頷いた。手袋の中で指を組む。


 専属のメイド。ルキウスの傍にいたメイド。──メイド服の女。


 その三つが頭の中で重なりかけて、アレシアは意識して崩した。まだ結びつけるには早い。何も分かっていない。分かっているのはあの女がメイド服を着ていたことと、ルキウスに手を伸ばしたことだけだ。


「ヨアヒム、ありがとう。変なことを訊いてごめんなさいね」


「いえ。お嬢様がお尋ねになることに変なことなど一つもございません」


 ヨアヒムの声は穏やかだった。いつもと同じ穏やかさだ。だがその穏やかさの裏に妙な緊張感がある。アレシアは高位貴族の令嬢であるがゆえに、()()()()()()()には優れている。視線の揺らぎ、手の位置、息遣い、声色──


 ヨアヒムが馬を引いて厩舎に向かおうとする。その背中に、アレシアは声をかけた。


「ヨアヒム、私に何か隠している事はない?」


 かなり直接的な問いかけだ。ヨアヒムは足を止め、一瞬目を見開き、ややあって苦笑した。


「いえ、その……」


「言ってちょうだい。怒ったりしないから」


「それでは……お嬢様。殿下から花か何かをプレゼントされたのでしょうか?」


「いいえ、どうして?」


「いえ、どうも──花の様な香りがするもので……。いえ、勘違いかもしれません。儂も年ですからなぁ。ただ、その、今もするのです。花の香りが……」


「……それだけではないでしょう? どういう香りなの?」


「お嬢様には敵いませんな。ええ、その、花というか、まあ花、だとはおもうのですが……」


 ヨアヒムの言葉はどうも要領を得ない。


「はっきり言ってちょうだい」


 少し棘があるかなと思いつつも、アレシアは語気をやや荒くして再度尋ねた。すると──


「はい、では……()()()()()、といいますか……香りの中に、どうにも、その腐肉の様な匂いが混じっているように感じられまして。南方にはそういった種類の花もありますからな、殿下は確か植物学に造詣が深いとお聞きしております。ですので、まあそんなところで──お、お嬢様? 顔色が……どうされましたか!?」


 ()()()()のだ。


 憑いて、来ているのだ──そう思った瞬間、アレシアの視界に白が混じって行った。視界全体に白い靄が広がり、頭頂部に熱が生まれ、それが頭部全体へと広がっていくような感覚。


「お嬢様!? おい、誰か! 誰かきてくれ!」


 ヨアヒムの声が木霊の様に響き──アレシアは、意識を失った。

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