18.マルタ
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クレメントの首なし死体が石の床に崩れ落ちるまでの時間は、体感では随分と長く感じられたが、実際には一秒にも満たなかっただろう。
その後の事は──正直に言えばアレシアの記憶には断片的にしか残っていない。
衛兵たちが駆け寄り、ルキウスが何かを叫び、ダグラスが低い声で指示を出していた。血溜まりの中のメイドに誰かが駆け寄ったが、もう息はなかったらしい。毛布が運ばれてきて、二つの死体がそれぞれ覆われた。クレメントの体と、首と、別々に。
回廊には血の匂いが充満していた。鉄錆に似た匂いだ。あの甘い腐臭とは違う。生々しくて、生きていたものが死んだ時だけに放つ種類の匂いだった。
ダグラスがアレシアのもとに戻ってきたのは、衛兵の一人と何やら話し込んだ後だった。正装の外套の裾にわずかに血が撥ねている。本人は気づいているのかいないのか──おそらく気づいてはいるが、今はそんな事を気にしている場合ではないのだろう。
「アレシア。マルタ」
ダグラスの声は平坦だった。先ほどの怒号が嘘のように凪いでいる。
「先に帰りなさい。ヨアヒムに門前で待つよう伝えてある」
「お父様は?」
「儂はもう少し残る。──心配はいらん」
心配いらんと言われて心配しない娘がどこにいるかという話だが、ダグラスの目がそれ以上の問答を許さない色をしていた。
「……わかりました」
アレシアは一礼した。マルタも続いて頭を下げる。マルタの右手に剣はもうなかった。いつの間に手放したのか──おそらく衛兵に返したのだろう。
二人は東翼を抜け、中央広間を横切り、城門へ向かった。
すれ違う文官や侍従が足早に西翼の方角へ走っていく。騒ぎの報せが城内に広がり始めているのだ。アレシアたちに目を留める者はいなかった。それどころではないのだろう。
城門を出ると、冬の外気が頬を打った。
ヨアヒムは既に馬車を寄せて待っていた。アレシアの顔を見て何か察したのか、余計な事は一切訊かず、ただ黙って扉を開けた。
「お嬢様。どうぞ」
差し出された手を取って馬車に乗り込む。マルタが続いて乗り込み、扉が閉まった。
馬車が動き出す。車輪が敷石から石畳に変わる音がした。
◆
馬車の中は静かだった。
車輪が石畳の継ぎ目を拾うたびに小さく揺れる。その規則正しい振動だけがアレシアの体を現実に繋ぎ止めていた。
膝の上に置いた手が震えている。震えているのに気づいたのは、マルタがそっと毛布を膝にかけてくれたからだ。
「……ありがとう」
声が掠れた。自分の声とは思えないほど掠れていて、アレシアは一度咳払いをしてから口を開き直した。
「マルタ」
「はい」
「お父様はどうして一緒に帰れないの」
マルタは即座には答えなかった。膝の上で手を組み、視線をわずかに落として──呼吸を一つ分だけ置いた。
「私が手を下してしまいましたから」
平坦な声だった。
「その処理でしょう」
処理、という言葉の乾き具合がマルタらしかった。
アレシアは頷いた。
そうだろう、とは思っていた。衛兵ではなく公爵家の侍女が王太子の側近を斬ったのだ。いかに狂乱の最中とはいえ、始末をつけるべき事柄が山のようにあるだろう。ダグラスはそれを引き受けに残ったのだ。
「マルタ」
「はい」
「お父様を守ってくださって、ありがとう」
返事はない。
長い沈黙だった。マルタにしては珍しい間だった。この女は問いに対して言葉を選ぶ事はあっても、これほど長く黙り込む事はあまりない。
やがてマルタが口を開いた。
「私はお嬢様を守ったのです。アレは──お嬢様を見ておりました」




