17.パエノーラ
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衛兵たちは動けない。
当然だ。クレメントはルキウスの側近──次の王の懐刀だ。斬れば政治的な死が待っている。膂力への恐怖と、斬った後の破滅と。その二つに挟まれて、足が石になっている。
だが──
「うぬら──ッ!!」
怒号が石壁を震わせる。
「何をしとるかァッ!!! さっさとこの狼藉者を斬れィ!!!」
アレシアは息を呑んだ。こんな声を聞いたことがない。毒蛇公の──牙の声だ。衛兵たちが弾かれたように身を起こす──が、剣を抜けない。柄に手をかけて、止まる。
「公爵閣下──しかし、クレメント殿は殿下の」
「黙れ。狂犬を野放しにする法がどこにあるッ!」
回廊の奥からルキウスが駆け寄ってくる。
「公爵閣下──お待ちください。クレメントは正気を失っているだけです。殺すのは──」
「殿下」
怒鳴り声から一転、ぞっとするほど低い声でダグラスが言った。
「あの男は殿下の城で殿下の目の前で人を殺しました」
ダグラスの手が血溜まりの中のメイドを指す。
「次に死ぬのが儂の娘であっても、まだ殺すなと仰るか! アレシアは殿下の婚約者ではないのか!」
ルキウスの唇が動いたが声にならない。
「──殿下は何を護っておられるのです」
答えは返ってこない。
沈黙を断ち切ったのはクレメントの咆哮だった。会話など聞こえてはいなかったのだろう。ぎりり、と歯を軋ませ──弾けるように走り出す。
ダグラスに向かって。いや、ダグラスの背後のアレシアに向かって。
ダグラスは退かない。
両足を踏みしめ、腕を広げる。クレメントの巨躯が迫る。あと五歩。三歩。
そして一歩。
クレメントが突然立ち止まった。
走る勢いのまま前のめりになった体が、ダグラスの目の前で硬直している。血走った両目がダグラスの肩の上を見ていた。
喉から漏れたのは、先ほどまでの獣の咆哮ではない。かぼそい──怯えた子供のような声。
アレシアは目を大きく見開いた。
白い靄の様なものがダグラスを覆っているではないか。煙でも水蒸気でもないその靄に、どうやらアレシア以外の誰もが気づいていない様子だった。ダグラス本人でさえ気付いている素振りをみせない。
クレメントの膝が落ち、体を震わせ、血走った目でダグラスをにらみつける。まるで見えない何かに押さえつけられたような様子に、ようやく衛兵たちが覚悟を決めたのか走り寄ろうとしてきたその瞬間。
銀光一閃。
マルタだ。
右手に衛兵の剣を持っていた。ダグラスが衛兵に怒鳴り、ルキウスを詰めている間に、吹き飛ばされた衛兵の腰から抜いたのだろう。
肉と骨を断つ重く湿った音と共に、クレメントの頭部がごろりと転がった。
マルタは構えを解かない。数秒。クレメントが動かない事を確かめてから──ようやく刃を収めた。
切っ先から血が一筋、石の床に線を引く。
「よくやった、マルタ」
白い靄はもう見えない。
アレシアの鼻先を蜜を薄めたような、甘い──どこか清涼感のある香りがかすめる。
──これは。
アレシアははっとしてダグラスの背を見た。
パエノーラ。




