16.クレメント②
◆◆◆
殿下に懸想する馬鹿な女を王城から追い出す──最初は簡単な仕事だと思った。
殿下は手段は選べと言った。が、要は殺しさえしなければ良いと俺は──いや、俺たちは受け取った。フェリクスも同じだ。あいつは俺より頭が回るから、殿下の言葉の裏を取るのが上手い。「手段は選べ」は「選んだ手段なら許す」であって、「穏便にしろ」ではない──そうフェリクスは言った。なるほど、奴の言うことには一理あった。
いかに不敬な輩とはいえ、王城に出仕していた者に手をかけたとあれば調べが入る。殿下にご迷惑をかけるわけにはいかん。表沙汰にならぬ方法で、且つ女が二度と城に近づけぬようにする。
フェリクスが案を出した。
傷物にしろ、と。
女としての価値を毀損すれば殿下への想慕どころではなくなる。加えて、傷物にされたという事実そのものが口封じになる。誰にも言えない。言えば自身の恥だ。なるほど理屈は通っている──フェリクスの理屈はいつもそうだ。冷たくて、筋が通っていて、人の血が通っていない。
まあ、俺もだが。
──実行は俺がやった。
フェリクスは汚れ仕事を好まない。あいつは段取りを組み、場所を手配し、事が終わった後の始末を受け持った。俺は、まあ──俺の得意な事をやったというわけだ。
城の一角に部屋がある。普段は使われていない。
女をそこに呼び出すのは簡単だった。「殿下がお呼びです」──それだけで良い。殿下に懸想しているのだ、殿下の名を出せば犬のように走ってくる。
来たな、とまあ、そう思った。
部屋に入ってきた時の顔は覚えている。殿下はどちらに──と訊いてきた。殿下はいないと答えた。顔が変わった。怪訝な顔をして、それから俺の目を見て──何かを感じ取ったのだろう。逃げ出そうとした。
もちろん逃がさなかったとも。
後ろから服を掴み、引き倒して──扉を閉めて鍵をかけた。女は叫ぼうとしたが、この辺りは壁が厚い。城の構造上、隣の部屋まで声が届かないらしい。フェリクスが選んだ部屋だ。抜かりはない。
具合は──まあ、良かった。
女が殿下に目をかけられるだけのことはあった。肌は白くて柔い。若いメイドだ。男を知らない。暴れたが、俺の体格と比べれば赤子のようなものだ。手首を片手で押さえればもう動けない。
女は泣いた。
泣き叫ぶたびに体が強張るのが実にたまらなかった。
なに、最初だけだ。最初は抵抗する。暴れて、噛みつこうとして、引っ掻く。だがそのうち力が抜ける。抜けるというよりは、折れるのだ。心の芯がぽきりと音を立てて折れる。折れた後は声も出なくなる。涙だけが出る。目は開いているが何も見ていない。
その顔を見ながら──俺は余計に昂った。
確かに仕事として始めた事だが──正直に言えば、仕事にしては愉しかった。
事が済んで、フェリクスが来た。
あいつは部屋に入って女を一瞥し、眉一つ動かさなかった。冷たい目だった。だがあの目の奥に、ほんの微かな──嗜虐の色があったのを俺は見た。フェリクスは自分ではやらない。やらないが、やった結果を見るのは嫌いではない。あいつはそういう男だ。
フェリクスが女の前にしゃがみ込んだ。
お前が純潔でない事を殿下に申し上げても良いのだが──と言った。声は静かだった。
女の目に光が戻った。恐怖でも怒りでもない。絶望だ。
殿下に知られる。
それが何を意味するか、女は分かっていた。殿下に懸想していたのだ。その殿下に、こうなった自分を知られる。恋慕していた相手に、汚された自分を知られる。それは死よりも──いや、死と等しい。
フェリクスが続けた。地元に帰りなさい。暇を言い渡された事にしておく。
女は頷き、翌日には城からいなくなっていた。
簡単な仕事だった。
◆◆◆
──簡単な仕事だった、はずだ。
なのに。
なのにどうして。
見える。
見えるのだ。
あの女が。あの夜から、毎晩。
最初は気のせいだと思った。寝台の足元に水が溜まっている。馬鹿な、冬の結露だろう。窓の鍵を閉め直して眠った。
翌晩、首筋に冷たい息がかかった。跳ね起きた。誰もいない。
その次の晩。鏡に映った自分の背後に、白い影が立っていた。振り向いた。いない。鏡を見た。いる。
鏡を壁から外した。
それでも来た。
壁の染みが女の顔に見える。天井の木目が髪に見える。水の音が聞こえる。あの部屋で女が泣いていた時の、あの湿った音が。
そして、目だ。俺の目がおかしい。
見えるものがおかしい。
あの女が──あの、空洞の目をした女が、毎晩来る。来て、立つ。立って、見る。
目がないのに見るのだ。あの空洞の奥から、何かが俺をじっと見ているのだ。
見るな。
見るな。
見るな。
いや──
見ているのは──俺のほうだ。
鏡がなくても。目を閉じても。
瞼の裏に焼きついて離れない。あの顔が。あの、空洞の──
──いつからだ。
いつからこうなった。
朝、湯を持ってきた侍女が扉を開けた。おはようございます、クレメント様──そう言った。声は侍女の声だった。笑みも侍女の笑みだった。
だが顔が違った。
あの女の顔だった。
眼窩が二つ、ぽっかりと空洞になっている。黒い穴の底から何か黒い液体がゆるりと垂れて頬を伝い、唇を濡らしていた。それなのに口だけが笑っている。侍女の笑みの形に歪んで、歯茎が見えて、あの夜に俺の下で引き裂かれた唇と同じ形に。
湯を受け取ろうとした。指が触れた。冷たい。冬の朝だからか? 違う。この冷たさは知っている。あの夜、事が終わった後に女の手首を離したとき、ぬるかった肌がみるみる冷えていった──あの温度だ。
盆を落とした。湯が床に広がった。
侍女が──いや、あの顔をしたものが慌てて拭こうとしゃがみ込んだ。メイド服の裾が濡れた床に触れた。白い布に水が染み込んでいく。
──同じだ。あの部屋の床も濡れていた。女が泣いて、体から零れ落ちたものが床を濡らして
「クレメント様? 大丈夫ですか?」
顔を上げた侍女の眼窩から、涙のように黒い液体が一筋流れた。見えている。俺にだけ見えている。
「──出ていけ」
声が掠れた。侍女が怯えた顔をした。怯えたあの顔をした。あの夜、俺が服を掴んだ時と同じ顔。同じ恐怖。同じ。同じ。同じ。
「出ろと言っているッ!!」
侍女が転がるように部屋を出た。扉が閉まる。
一人になった。一人に──
なっていない。
部屋の隅に立っている。壁に向かって。メイド服の背中。黒い髪。両手を体の横に垂らして、ゆっくりと首が回り始めた。
──もうやめてくれ
昼になった。
厨房から食事が運ばれてきた。扉を開けたのは厨房の下男だった。丸顔の、人の良さそうな若い男だ。だった、はずだ。
違う。
あの女だ。下男の体格をしている。下男の服を着ている。下男の声で「お食事をお持ちしました」と言っている。だが顔が──顔だけが違う。灰色の肌。溶けかけた唇。歯茎が見えている。そして目が。目があるべき場所が。
黒い。黒い穴が俺を見ている。
「来るなッ」
食卓をひっくり返した。皿が砕ける。スープが床を這う。下男が後ずさる。後ずさる下男の顔の上にあの顔が二重写しになって──いや、もう下男の顔がどんなだったかも分からない。あの空洞の眼窩しか見えない。
廊下に出た。
すれ違う者すべてがあの女だった。
衛兵があの女だった。鎧の隙間から覗く顔が灰色に崩れ、兜の下から黒い液体が顎を伝って胸甲の上に垂れていた。
文官があの女だった。羽根ペンを握る手が白すぎて、爪がなくて、指の先から水が滴っていた。
庭師があの女だった。鋏を持つ手の──あああの手だ。あの夜、俺が押さえつけた手首だ。俺の掌の形に紫色の痣がくっきりと残っている。
犬を連れた厩番があの女だった。犬までもが見上げる顔に目がなかった。四つ足の獣の毛皮の上にメイド服の白い襟が見えた。
全員だ。
全員があの女だ。
城の中にいる人間が、一人残らず、あの目のない顔をしてこちらを見ている。見ていないのに見ている。空洞の奥から。黒い穴の底から。全方位から。俺を取り囲んで。
回廊を走った。どこへ逃げても同じだった。角を曲がるたびにメイド服の女が立っている。すれ違うたびにあの顔が近づいてくる。距離が、縮まっている。最初は十歩先にいた。次は五歩。次は三歩。
いま、すぐ隣にいる。
右を向いた。メイドが一人、壁際に控えていた。本物のメイドだ。生きている、本物の。普通の顔をした、普通の──
普通の、顔を──
していない。
していない。
あの女だ。やはりあの女だ。
同じ空洞。同じ灰色の肌。同じ崩れた唇。
しかも──笑っている。
歯茎を剥き出しにして、顎の骨が見えるほど口を広げて、音のない笑い声を上げている。あの夜、最後に女が浮かべた表情と瓜二つの──いや、あの夜は笑ってなどいなかった。泣いていた。壊れた人形のように動かなくなっていた。
仕事だったんだ。仕事として──
嘘だ。
愉しかった。
ああ、そうだ。愉しかった。女の芯が折れる音が好きだった。怯える目が好きだった。声が途切れていく瞬間が好きだった。
だから来るのだ。
俺が愉しんだから来るのだ。
俺は笑ったのだ。あの夜、俺は笑ったのだ。
だからお前は──笑い返しに来たのか。
笑い返しに。
嗤い返しに。
歯を全部剥き出しにして。顎の骨をがたがた鳴らして。目のない顔で。
ほら。いまも笑っている。あそこにも。あそこにも。あそこにも。
みんなあの女だ。
この城にいる人間は全部あの女だ。
いつの間にかすり替わっていたのだ。一人ずつ、一人ずつ、城中の人間があの女に呑み込まれて、皮を被って、俺の周りに並んでいる。
囲まれている。
ぐるりと。
空洞の目が。数え切れない空洞の目が。
殺さなければ。
全部殺さなければ。ここにいる全部を殺さなければ。あの女を──あの女を百回殺さなければ。千回殺さなければ。殺しても殺しても隣のやつがまたあの顔をしている。だから全部だ。全部殺す。一人残らず。空洞の中身ごと。黒い穴の底ごと。笑みごと。
まだ笑っている。
まだ笑っているッ!!




