15.クレメント
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最初に目に入ったのは床だった。
赤い。石の床が赤い。灰色の石目の上に血が広がり、燭台の光を受けて黒に近い赤を湛えている。血溜まりだ。その中心に一人のメイドが仰向けに倒れている。動かない。
その傍らに──男が立っていた。
クレメントだった。
軍務卿の息子。ルキウスの側近。良い言い方をすれば豪胆かつ率直、悪い言い方をすれば頭がからっぽの犬なあの男である。
だが今そこに立っているのは犬ではなかった。
野獣……いや、魔獣であった。
両手は血に塗れている。衣服は乱れ、襟が千切れかけていた。体格は元々大きい男だが、今のクレメントはその大きさ自体が凶器に見えた。肩が上下している。
衛兵が三人、クレメントを取り囲んでいた。だが間合いを詰められずにいる。じりじりと距離を測り、隙を窺っている様子だ。
「クレメント殿、落ち着かれよ──!」
一人が前に出た。腕を掴もうとした瞬間、クレメントの右腕が振り払われた。衛兵の体が壁に向かって弾き飛ばされ、背中から石壁にぶつかる。鎧が嫌な音を立てた。
二人目が横から飛びかかった。組みつこうとしたのだろう。だがクレメントは振り向きざまに肘を振り──衛兵の胸を打った。胸甲の上からだ。にもかかわらず、衛兵の足が床から浮いた。二歩分ほど吹き飛ばされて尻餅をつく。
「くっ……どういう膂力をしているのだ!」
衛兵の一人が吐き出す様に言う。そして──
「やめろ、クレメント!」
ルキウスの声だった。
回廊の奥──クレメントと衛兵の向こう側に、ルキウスが立っていた。顔は蒼白で、普段の沈着は影も形もない。
「やめてくれ、頼む、クレメント! そんな事をしても──」
しかしクレメントは聞いていなかった。
いや──聞こえていないのだ。目が虚ろだった。虚ろだが据わっている。矛盾した目だった。何かを見ているのだが、それは目の前のものではない。ここにないものを見ている。ここにいない何かと戦っている。
三人目の衛兵が槍の柄でクレメントの足を払おうとした。クレメントは跳んで躱し──着地と同時に衛兵の胸を蹴った。衛兵が床を滑る。
「アレシア」
ダグラスの腕がアレシアの肩を掴んだ。掴んだというより、引いた。アレシアの体がダグラスの背中の裏に回される。太い腕が壁のように前を塞いだ。
「すぐに戻れ! マルタ、連れて──」
ダグラスの声が途切れた。
クレメントがこちらを見た。
ダグラスの声に反応したのだ。あるいは声ではなく、動きに──新しい人影が視界に入ったのかもしれない。理由はどうあれ、クレメントの首がこちらに向いた。
両眼が血走っていた。白目が赤い。毛細血管が何本も切れたように赤い線が走り、その中央で瞳孔が異様に開いている。虹彩がほとんど見えない。黒い穴が二つ、こちらを向いている。
──目が
空洞ではない。あのメイドの幽霊とは違う。だが見ていない目がこちらを見ているという意味では、同じだった。
歯が噛み締められていた。唇が捲れ上がり、歯茎が剥き出しになっている。余りの力で噛み締めているのだろう──歯の隙間から血が滲み、唇を伝い、顎を伝って首筋に落ちていた。
ぎり
ぎりりり
そんな奥歯が軋む音がアレシアたちの所まで聞こえた。
「悪鬼──」
誰かが呟く。
クレメントがこちらに一歩を踏み出す。
ぎりり、ぎりと歯を軋らせるクレメントの異様、異常に誰もが手を出せないでいる中、回廊に響くのは血だまりを踏むべちゃりという不快な足音と──
「小童が……」
低く唸るような、ダグラスの憤怒の声であった。




