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王宮奇恋怪異譚  作者: 埴輪庭


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14/26

14.西翼の変

 ◆


 翌週。


 公爵家の馬車が城門へ向かう石畳の道を進んでいた。冬の朝だった。空は高く、薄い雲が風に千切れて流れている。


 馬車の中にはアレシアとダグラス、そしてマルタの三人が座っていた。アレシアとダグラスが向かい合い、マルタはアレシアの隣に控えている。ダグラスは今日に限って正装だった。公爵の紋章が刺繍された外套に、襟元を留める銀の留め具。普段の書斎着とは別人のようだが、まあ王城に出向くのだから当然ではある。


 ヨアヒムの手綱さばきは相変わらず滑らかで、石畳の段差もほとんど揺れない。この老御者は馬の呼吸を読むのが上手い。馬車が跳ねない理由の半分は馬術で、もう半分は馬との信頼関係だ──と、ヨアヒム本人は言う。


 アレシアは窓の外を見ていた。冬枯れの並木が流れていく。葉を落とした枝が白い空に細かく裂けた血管のように伸びている──少し不吉な比喩だが、冬の木というのは実際そう見えるのだから仕方がない。


 ふと、向かいの父に目を移した。


 ダグラスが左手で右の肩を押さえていた。


 外套の上からだが、指に力が入っているのが分かる。首をわずかに右に傾げて、眉間に皺が寄っている。


「お父様、大丈夫ですか」


 ダグラスが顔を上げた。アレシアの視線に気づいて、肩から手を離そうとして──やめた。離しても遅い。娘には見られている。


「ああ──いや、大丈夫だ。少し肩がな」


「最近また酷いのですか」


「最近というか、ここのところずっとだな。どうにも右の肩が重くて。痛むのとはまた違うのだが……」


 不満そうな声だった。


「毎晩遅くまで書を読みふけっているからですよ」


 アレシアの声にちょっとした棘があった。


「そうかもしれんがな。いや待て、読み始めはそうでもないのだ」


 ダグラスが弁解するように言った。


「昼間は何ともない。夕方も、まあ普通だ。ただ──」


 ダグラスは肩を回そうとして、途中でやめた。回すと痛むらしい。


「宵が深くなると急に重くなってなぁ。それも、こう──じわじわとではなく、ある時を境にずしりと。そうなるともういかん。床につく以外できなくなる、困ったものだ」


「ある時を境に、ですか」


「うむ。宵が更けてくるとな──急にな。急に肩に何か乗ったような重さが来る。昨晩などは首まで回らんくなった」


 アレシアは眉を顰めた。


「お医者様に診ていただいたほうが──」


「肩凝りで医者を呼ぶ男がどこにいる」


「ここにいます」


「……いや、儂はまだ呼んでいない」


「呼んでください」


「まあまあ、城から帰ったら考えよう」


 ダグラスは話を打ち切るように窓の外に目を向けた。城下町の屋根が見え始めている。石造りの建物が密集し、煙突から朝餉の煙が細く立ち上っている。


 アレシアは父の横顔を見ていた。


 肩を押さえる仕草。──同じ仕草を、アレシアは別の場所で見ている。ルキウスだ。フェリクスの死を告げられた時、書斎で幽霊が消えた後。あの時もルキウスは左手で肩を押さえていた。


 偶然だ──と思いたかった。肩凝りくらい誰にでもある。父は本の読みすぎだし、ルキウスは政務の疲れだろう。重なるのは偶然で、一致するのはたまたまだ。


 だが──()()()()()()()()()、というのが引っかかった。


 ・

 ・

 ・


 馬車が城門に近づいていく。車輪の音が石畳から城門前の敷石に変わった。ヨアヒムが「着きましたぞ」と御者台から声をかける。


 ダグラスは外套の襟を正し、肩から手を離した。公爵の顔になっている。──さっきまで肩が痛いとぼやいていた男と同一人物とは思えない切り替えの速さだが、まあそれが貴族というものだ。


「さて」


 馬車を降りると、城門の衛兵が姿勢を正した。公爵の来訪は事前に通達してある。隙間風の視察、という名目で。


「お前たちは先に行きなさい。教育が終わったら迎えに来る」


「お父様はその間──」


「儂は儂で、顔を出す先があるのでな」


 城にはダグラスの旧知の貴族が何人かいる。


 文官筆頭のギーゼルヴァン卿とは若い頃からの付き合いだし、典礼官のハンスとは書物の貸し借りをする間柄だ。


 ちなみにグリューネヴァルト公爵家にはかつて豊かな領地があった。それを失ったのは、現国王の亡き兄──先の王太子がメリッサを排除しようと画策した、あの一件の後だ。ダグラスは陰謀を看破し、逆に二人に地獄を見せた。だが勝者にも代償はある。当時の国王が件の兄を寵愛していたこともあり、結句、王家との軋轢の果てに領地は召し上げられ、残ったのは爵位と王都の屋敷だけだった。


 しかしそれで公爵家の力が失われたかといえば──否だ。理由は単純。あの一件で先の王太子が失脚したからこそ、今の国王が玉座に座っている。国王自身がそれを忘れていないし、宮廷の誰もが知っている。ダグラスに恩を売られた王家は公爵家を重用し、ダグラスの政治手腕を知る貴族たちは公爵家を敵に回せない。領地がないからといって毒蛇公の牙が抜かれたと思う者はこの宮廷にはいなかった。


「では、教育が終わりましたらお呼びいたします」


「うむ。──ああ、それとな」


 ダグラスは歩き出しかけて、ふと振り返った。


「肩の件は内緒だぞ」


「は?」


「ジャニスには喋るな。彼女に知れたら養生しろだの医者に診せろだのと手紙が来る。週に三通は来る」


「……お知り合いなのですか」


「知り合いというか──まあ、色々あってな」


 それだけ言ってダグラスは東翼の方へ歩いていった。正装の背中が回廊の奥に消えていく。すれ違う文官が丁寧に頭を下げるのが見えた。


 アレシアはその背中を見送ってから、マルタと顔を見合わせた。


「……色々、ですって」


「旦那様ご自身はお認めになりませんが、あの方を慕う女性は多かったという事です」


 マルタの声は平坦だった。


 ◆


 王妃教育はいつも通りだった。ジャニスの舌鋒は今日も容赦がなく、三礼七歩の復習に始まり、国賓晩餐の席次に至るまで、アレシアの脳は昼過ぎまでひたすら酷使された。


 だが不思議と苦ではなかった。父が同じ城のどこかにいるという事実が、背骨に芯を一本通しているような感覚があった。


 教育が終わり、ジャニスが退室した後、アレシアはマルタに目配せした。


「お父様を呼んできてちょうだい」


「かしこまりました」


 マルタが足早に出ていく。ほどなくして戻ってきた時、その半歩後ろにダグラスがいた。


「どうだった、教育は」


「今日も散々に叱られました」


「結構なことだ。叱ってくれる者がいるうちが華だぞ」


 ダグラスの顔は穏やかだったが、目の奥にはもう別のものが灯っていた。旧友と茶を飲んでいた男の顔ではない。


「さて」


 ダグラスが回廊の西を見やった。午後の光が高窓から差し込んで、廊下の半分を照らし、もう半分を影に沈めている。


「案内してくれるか」


 その声には、やはりどこか悪戯っぽい響きがあった。


 ◆


 三人が西翼へ向かう回廊に差しかかったとき、異変は向こうからやってきた。


 まず音だった。金属が石を叩くような音──鎧だ。甲冑を纏った人間が走る音だ。それも一人ではない。複数の足音が重なり合って回廊に反響している。


 角を曲がったところで、衛兵が二人、全力でこちらに向かって走ってきた。


「何事だ」


 ダグラスが声をかけると、衛兵の一人が走りながら振り返り、慌てて足を止めた。


「グリューネヴァルト公爵閣下──失礼いたします、西翼で騒ぎが」


「騒ぎだと?」


「誰かが暴れておりまして──詳しいことはまだ」


 衛兵はそれだけ言って再び走り出した。残された一人がダグラスに目礼して後を追う。鎧の音が遠ざかっていく。


 ダグラスとアレシアとマルタ、三人の目が合った。


 西翼で。


 ──西翼で、誰かが暴れている。


「行くぞ」


 ダグラスが言った。


 三人が西翼の回廊に入った瞬間、空気が変わった。冷たい──件の冷気だ。だが今はそれどころではない。


 怒声が聞こえる。


 複数の声だ。押さえろ、離せ、やめろ──言葉が重なり合って輪郭を失っている。その奥から、およそ人の喉から出るものとは思えない唸り声が響いていた。獣だ。獣の声だ。


 角を曲がると、そこには──。

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