もう、いらない
これは後から涼香さんに聞いた話と、僕が見た話だ。
その朝、ミドリ先輩はいつもより早くLMCに来た。
涼香はまだ来ていなかった。
シャーロットだけがフィカスの前にいた。
ミドリは窓際に座って、ノートを開いた。
「回復計画」のページを見た。
自分の字を見た。
字が大きかった。
怒っていたときの字だった。
ページをめくった。
実験データの記録。
被験者01。
夏目レン。
名前を呼んだ瞬間に数値が跳ねる。
なぜか心拍が上がる。
そんなデータは私にはない。でも、起きている。
だから私はこのデータが欲しかった。
相手の感情が知りたかった。
何を考えているか知りたかった。
知ってから動きたかった。
知って、正しいかどうか判断してから、次の一歩を踏みたかった。
それは研究者としての姿勢だと思っていた。
でも、違った。
自信がなかっただけだ。
相手の気持ちが分からないのが怖かった。
間違えるのが怖かった。
嫌われるのが怖かった。
だから先にデータで確認した。
データが安全だと示してくれれば、踏み出せた。
データがなければ、動けなかった。
科学の進歩のためだと蓋をしてきた。
被験者の同意を取って、倫理審査を通して、手続きは正しかった。
でも手続きが正しいことと、やっていることが正しいことは、違う。
人の感情を数値にして、覗いて、分析して、反応を記録する。
相手が何を感じたか、いつ感じたか、可視化する。
それは研究か、監視か。
そして私自身が、同じ技術で感情を書き換えられた。
因果だとは思わない。
でも、技術の怖さを身体で知った。
データで知ったのではなく、身体で。
周波数を逆に当てれば回復できる。
データはそう示している。
でも、それをやるということは、また誰かの技術で自分の感情を操作されるということだ。
今度は「良い方向に」。
良い操作も悪い操作も、操作は操作だ。
回復は、自分の身体に任せる。
データが示している通り、効果は薄くなっている。
時間が解決する。
それよりも。
ミドリはノートの最後のページを見た。
被験者01。夏目レン。
この人のデータは、私に一つのことを教えてくれた。
データで見えるものと、データなしで分かるものがある。
レンくんは最初からデータなしで動いていた。
なんとなくで、根拠なしで。
それを私はずっと非科学的だと思っていた。
でも、あの人が肩に手を置いた時、私は引かなかった。
データはそれを記録していた。でも、引かなかった理由は記録されていなかった。
データに理由は書いてない。
私にも分からない。でも、分からなくても、引かなかった。それは事実だ。
データで確認しなくても、事実は事実として存在する。
もう、いらないかもしれない。
感情スキャンが。
相手の気持ちを先に知ることが。
怖くても、分からなくても、自分の感覚で動けるようになりたい。
時間がかかっても。
下手でも。
ミドリはノートを閉じた。
静かに。
新しいノートを取り出した。表紙に何も書いていないノート。
一行目に書いた。
「LMC改造計画」
僕がLMCに着いたとき、先輩は立っていた。
窓の前に立って、外を見ていた。
涼香さんとシャーロットはいつも通りだった。
でも涼香さんの目が少しだけ赤かった。
何かを聞いた直後の顔だった。
「おはようございます」
「おはようございます。座ってください」
先輩が振り返った。
目が透明だった。
何かを決めた後の目。
「感情スキャンの実験、廃止します」
「え」
「如月先生にはもう伝えました」
「なんでですか」
「もういらないからです」
それだけだった。
僕は先輩を見た。
涼香さんを見た。
涼香さんは微笑んでいた。
「先輩、回復計画は」
「必要ありません。自然に戻ります」
「でも」
「私が決めたことです」
先輩の声に迷いがなかった。
反論を受け付ける声ではなかった。
でも、閉じている声でもなかった。
開いている。ただ、決まっている。
「それで」
先輩が新しいノートを開いた。見たことのないノートだった。
「涼香」
「なに」
「LMCに残りたい。感情スキャンの研究者としてではなく」
「理由は」
「動植物とのコミュニケーション研究は有意義だと思う。涼香とシャーロットの研究を手伝いたい」
涼香さんが「ええ」と言った。
短く。でも声が震えていた。
「提案があるの」
「聞くわ」
「植物は根でもコミュニケーションしているんじゃないかと思ってる。でも今の植木鉢では根が分断されていて分からない。ここを改造して、地中で根が繋がる環境を作りたい」
涼香さんの目が変わった。研究者の目になった。
「菌根ネットワーク?」
「そう。感情スキャンの周波数測定技術が応用できる。地中の信号を測定する方法は、表面の感情を測定する方法と原理が同じ」
「技術を捨てるんじゃなくて」
「使い方を変えるの」
シャーロットが言った。
「ようやくじゃな」
先輩がシャーロットを見た。
「前から思っていたの?」
「妾は最初からこっち側におるからの」
「そうね。最初からだったわね」
先輩が少しだけ笑った。
「学園の許可がいるわね」
涼香さんが言った。
「書類は作ります」
「私も手伝う」
「レンくん」
「はい」
「力仕事をお願いします」
「植木鉢ですか」
「植木鉢だけじゃないです。土も運びます。配管も変えます」
「音叉磨きから昇格ですね」
「ええ、そうです」
僕は先輩を見ていた。
昨日まで四十分のスキャンを受けていた。
今日突然、全部終わった。
正直、追いつけていない。
でも先輩の目は前を向いていた。
それだけは分かった。
「先輩」
「なに」
「いい顔してます」
先輩が一瞬固まった。
「……データに出てますか」
「データは、もうないですよ」
先輩がほんの一瞬だけ、笑った。
帰り道、ソラに聞いた。
「先輩、感情スキャンやめるって」
「はい」
「ソラはどう思った」
ソラが0.三秒止まった。
「感情スキャンはいらない技術だと思います。犯人探しはどうしますか」
「うん、それは琴音さんと東堂さんと続けようかな」
「はい。それであれば東堂さんの12体のAIと話をしたいです」
「それは面白そうだね」
「面白いかはわかりませんが、許可が出れば良いのですが」
「たぶん大丈夫だよ」
「はい。レンさんのそれはよく当たります」
空は晴れていた。青が高くて広かった。
明日からLMCが変わる。植木鉢を動かして、根が繋がる場所を作る。
先輩はもうデータで僕を見ない。
でも、それでいいと先輩は決めた。
僕の未来も変わっていく気がした。




