琴音の本音
ミドリ先輩は犯人探しはしないと言った。
僕はそれがいいとは思わなかった。
自分のデータは自分で直す。
それはいい。先輩らしいと思う。
でも、誰かが先輩の感情を勝手に書き換えたのに、そいつを放っておくのは嫌だった。
嫌だから動く。いつもの理由だ。
琴音さんに連絡した。
「少し話せますか。二人で」
返事は早かった。「学食の端でどうですか」
学食に行った。
琴音さんはもう座っていた。
相変わらず制服みたいな着こなしで、背筋が真っ直ぐで、隙がない人だった。
でも今日は、飲みかけのコーヒーが少しだけ冷めているように見えた。
早く来て、待っていたんだと思う。
「すみません、急に呼び出して」
「いいえ。勝手に早くきましたから」
「え、なんでですか」
「白瀬さんのデータの結果が出たんですよね。もしかしたら何か聞かれるかもって。夏目くんだけとは思いませんでしたが」
「琴音さんの友達のこと、もう少し聞かせてもらえませんか」
琴音さんがコーヒーカップを両手で包んだ。
姉さんと仕草が似ていた。
「はい、誰かは言いませんが」
「シャーロットに聞かれたとき、答えなかったですよね」
「あの時は答える必要がないと思いました」
「今は違いますか?」
「今は、話した方がいいと思います」
琴音さんが少しだけ姿勢を崩した。
初めて見た気がする。
琴音さんの完璧な姿勢が、ほんの少しだけ人間らしくなった。
「私の友達は、東堂さんの研究室で一緒だった人です。一年前に研究室を辞めました」
「辞めた理由は」
「男性不信になったからです。ある日から急に。研究室にいられなくなりました」
「一年前」
「はい。白瀬さんより前ですね」
僕はそれを聞いて、考えた。
一年前に一人目がいた。ミドリ先輩が二人目だとすると、犯人は一年前からこれをやっていることになる。
「琴音さんは、その時どう思いました」
「最初は病気だと思いました。でも検査しても何も出ない。本人も分からない。
ただ、男の人が近くにいると身体が動かなくなると」
「先輩と同じだ」
「そうですね。そう思いました」
琴音さんがコーヒーを一口飲んだ。
冷めているはずだ。でも気にしていないようだった。
「その子が辞めた後、私は調べ始めました。研究室の中で何が起きているのか」
「東堂さんには?」
「言いました。東堂さんは驚いていました。本当に驚いていたと思います」
「思います、って」
「八年一緒にいれば、嘘か本当か分かります。あの反応は本物でした」
八年。琴音さんと東堂さんとの関係は随分と長い、僕には想像できない年数だった。
「その技術は東堂さんの研究室にありますよね」
「はい。だから東堂さんも調べました。技術が流出していないか」
「結果は?」
「一部のデータに不正アクセスの痕跡がありました。でも、誰がアクセスしたかは特定できなかった。
もう追えなかったです」
涼香さんの流出事件と同じ構造だ。
データが漏れた。痕跡が消された。
誰がやったか分からない。
「琴音さんは東堂さんを信じてるんですね」
「信じています」
「八年いて、一回も疑ったことないですか」
琴音さんが少しだけ笑った。
初めて見る笑い方だった。隙がない人の、隙のある笑い方だった。
「ありますよ。何度も」
「え」
「東堂さんは優しい人です。でも、優しさで人を動かす人でもあります。私がここにいるのも、私の意志だと思っているけど、東堂さんに動かされているだけかもしれない。そう思ったことは、一度や二度じゃありません」
「でも、一緒にいるんですね」
「はい。疑った上で、それでもいます。疑わないで信じるのは盲信です。根本では善良だと思っています」
「そこは信頼しています」
ソラが腕の上で黙っていた。
「琴音さん、一つ聞いていいですか」
「はい」
「東堂さんに、直接聞きに行きたいんです。技術のことと、流出のこと」
「それは夏目くんの好きにすればいいと思います。東堂さんもそう言うでしょうね」
「琴音さんも一緒に来てくれますか」
琴音さんが僕を見た。少し驚いた顔をしていた。
「私が行くと、余計なことを考えるかもしれません」
「どうしてですか」
「東堂さんにとって最善は状況によって変わりますから」
「琴音さんをどう使うかってことですか」
「私と夏目くんの関係を見て、話すことが変わる可能性があると言うことです」
「それでも来てくれた方が良いと思います」
琴音さんが冷めたコーヒーを飲み干した。
「そこまで言われるなら。でも私は私の判断で動きますよ」
「それで構いません」
琴音さんが立ち上がった。
服のしわを一つ直した。
「夏目くん」
「はい」
「白瀬さんは犯人探しをしないと言ったんですよね」
「はい」
「夏目くんは、白瀬さんの意志に反して動いているんですか」
「たぶん、そうです」
「どうしてですか。それを本当に望んでいないかもしれません」
「先輩は自分のデータは自分で直すと言いました。それはいいと思います。
でも、壊した人間がいるなら、その人を止めないとまた同じことが起きる」
「それは夏目くんだけの正義です」
「そうかもしれません。ただ嫌なんです。先輩のノートがぐしゃぐしゃになってたのが。あんな顔もうさせたくないなって」
琴音さんが微笑んだ。
「夏目くんが動くことで、同じことが起こるかもしれないですよ」
少し考えさせられた。
「それでも、東堂さんには会いに行きます」
「東堂さんに会うのは、明日がいいと思います。午後なら研究室にいるはずです」
「分かりました」
琴音さんが先に学食を出ていった。
背筋が真っ直ぐだった。でも、さっきまでとは違って見えた。
真っ直ぐな背中の中に、少しだけ決意が混じっていた。
帰り道、ソラに聞いた。
「琴音さん、どう思った?」
「本音で話してくれていると感じました」
「東堂さんを裏切るかもしれない」
「前田さんは思ったことをするのではないでしょうか。それができる信頼関係があるのだと感じました」
「お互いが信頼していると思う?」
「信頼の定義は人によって異なります。ただ」
「ただ?」
「自分の信念と違っても受け入れられるのだと思います」
「ソラと同じに聞こえた」
「明確に違います。私は情報を保留するだけです」
「何が違うのかわかんないや」
「正解を探す必要はないです。レンさんの感覚を信頼してください」
空はまだ曇っていた。
明日、東堂さんに会う。
琴音さんと一緒に。
先輩には内緒だ。先輩は怒るだろう。
でも、怒ってくれるなら、それでいい。
怒れるようになった先輩は、もう大丈夫だと思うから。




