被験者01、再び
如月教授がLMCに来て、実験再開の手続きを説明した。
セキュリティの強化、同意書の改訂、データの管理体制。
教授は丁寧に一つずつ説明してくれた。飴を舐めながら。今日はブドウ味だった。
「夏目くん、同意書に目を通してくれるかね」
「はい」
同意書は前より分厚くなっていた。
感情スキャンのデータがどう使われるか、誰がアクセスできるか、いつ削除できるか。
全部書いてあった。
以前はこんなに細かくなかった気がする。
「質問はあるかね」
「一つだけ」
「どうぞ」
「このデータ、僕が消してって言ったら消せるんですか」
「いつでも消せる。消したいと言った時点で、すべてのデータは削除される。これは前にはなかった権利だ」
「分かりました。同意します」
ミドリ先輩が横で黙って聞いていた。
同意書を僕が受け取る瞬間、じっとこちらを見ていた。
「では、始めようか」
如月教授が微笑んだ。
「ミドリくん、スキャンは君が担当でいいね」
「はい」
先輩がスマートグラスを調整した。
いつもの仕草だった。でも手つきが前より少しだけ丁寧だった。
「レンくん、そこに座って」
「はい」
僕はいつもの椅子に座った。
先輩が向かいに座った。
距離は一メートルくらい。
前と同じだったと思う。
「スキャン開始します。普通にしていてください」
「普通って何ですか」
「いつも通りのあなたでいてください」
「いつも通りって言われると、意識しちゃうんですけど」
「それも含めていつも通りです」
スキャンが始まった。
何かが変わったわけではない。
前と同じように座って、前と同じようにミドリ先輩がデータを見ている。
でも空気が違った。
前は、ミドリ先輩が僕を見ているとき、僕は観察されていると感じていた。
研究対象として見られている感覚があった。
嫌ではなかったけど、少しだけくすぐったかった。
今は違う。
ミドリ先輩が僕のデータを見ているとき、僕を見ているのか、データを見ているのか、区別がつかなかった。
前は区別がついた。
先輩はデータを見ていた。今は、分からない。
「レンくん」
「はい」
「心拍が少し上がっています」
「え」
「何か考えていましたか」
「はい。なんとなく」
ミドリ先輩がグラスの奥から僕を見た。
「なんとなくで心拍が上がるんですか」
「上がるみたいです」
「変な人ですね」
「それは新しい発見じゃないですか」
先輩が一瞬だけ黙った。
「……記録しておきます」
ユイが言った。「よかったね」
先輩が「なにがですか」と呟いた。
スキャンは二十分で終わった。
如月教授がデータを確認した。
「面白いね。前のデータと比較すると、夏目くんの感情パターンは変化している」
「どう変化していますか」
「全体的に安定度が上がっている。でも特定の場面で急に不安定になる」
「特定の場面?」
「それは分析してみないと分からない。ミドリくん、頼むよ」
「はい」
ミドリ先輩はデータを保存しながら言った。
「レンくん、明日も同じ時間に来てください」
「はい」
「あと、できるだけ普通にしていてください」
「普通だと思うんですけど.....」
「分からないのがあなたの普通です。そのまま来てください」
如月教授が帰った後、ミドリ先輩はもう少しだけ研究室に残った。
データを見ていた。
僕はLMCに行くことにした。
部屋に入るとシャーロットに声をかけられた。
「久しぶりの実験はどうじゃった?」
「今までと変わりませんよ」
「嘘じゃな」
「嘘じゃないです」
「お主は嘘が下手じゃからの。涼香と同じことを言っておく。声が上がるのじゃ」
「そんなことないと思うんですけど」
「思うだけじゃろう」
シャーロットがフィカスに向き直った。
「スキャン中、こっちの植物が面白かったのじゃ」
「面白かった?」
「全部同じ方を向いておった」
「どっちを?」
「お主らの方じゃ」
「僕のですか」
「そんなのは知らん。ミドリかもしれん」
涼香さんが笑った。
「シャーロット、それレンくんに言ったら余計に明日のデータ跳ねるわよ」
「跳ねた方が面白かろう」
「研究としてはそうだけど」
「研究以外もじゃ」
涼香さんが何か言いかけて、やめた。
僕はパキラの前に座った。
葉っぱがさっきより少しだけ揺れている気がした。
気のせいかもしれない。
帰り道、ソラに聞いた。
「今日のデータ、ソラも見てた?」
「はい。レンさんの端末を通じて確認していました」
「どうだった」
「前回のデータと比較すると、レンさんの感情パターンは確かに変化しています」
「どう変わったの」
「全体的な安定度は上がっています。ただ、数値が跳ねる瞬間がありました」
「跳ねる?いつだろう」
僕は立ち止まった。
空は夕方の赤だった。少しだけ深い赤。
明日も、跳ねるんだろうな。たぶん。




