ありがたい時間
LMCに着くと、涼香さんとシャーロットがいた。
「ミドリ先輩、今日もいないんですね」
「そうね、中止した実験をここでするって話だったからね」
涼香さんはモニターに向かったまま、軽く言った。
あえて軽くしている感じだった。
シャーロットが床から見上げた。
「レン、座るのじゃ。お主が立っているとなんか落ち着かぬ」
「あ、はい」
シダの隣の椅子に座る。
シャーロットはまた葉に向き直って、何か小声で話しかけていた。
涼香さんが手を止めて、こちらを向いた。
「レンくん、ミドリの件ね」
「はい」
「昨日と一昨日、私から二回聞いてみたの」
「あ、そうなんですか。わざわざ、ありがとうございます」
「ううん。でね、原因はよく分からない」
「そうなんですか」
「うん。何があったかは話してくれない。ただ、レンくんがと言うより、男の人がって感じだった」
「うーん、ますますわからないですね」
涼香さんは少し言葉を選んでから、続けた。
「だからね、レンくん。しばらくは、ミドリに話しかけない方がいいかもしれない」
「はい」
「責めてるんじゃないのよ。ミドリが何かを整理してる最中なんだと思う。整理が終われば、また何か変わるかもしれないし」
「変わらないかもしれない、ですか」
「そうね。」
涼香さんは正直な人だ。慰めない方の優しさを持っている。
「妾も聞いたのじゃ」とシャーロットが葉から顔を上げて言った。
「ミドリは何も話さなかった。自分でもよくわかっていないと感じたぞ」
「自分でもわからない?」
「うむ。怒っているとか、嫌っているとか、そういう気配はなかったのう。ただ、確実に何かありそうじゃがな」
「そうですか」
「うむ。どちらにせよ妾の憶測じゃ」
僕はうなずいた。
うなずきながら、なんていうか、思ったより落ち込んでいない自分に少しだけ驚いた。
昨日の夜は天井を見上げて妙に重かったのに、今日ここに座って涼香さんとシャーロットの話を聞いていたら、
なんかもう、しょうがないかという気持ちになってきていた。
僕はたぶん、悩みが続かない方なんだと思う。
「分かりました。しばらく、距離を置きます」
「うん」
「でも、LMCには来ていいですか」
「え、来てよ」
「植物のお世話、僕でよければ」
「むしろ来てくれない方がマイナスよ。Aの値が下がっちゃう」
「責任重大ですね」
「重大よ」
シャーロットさんが笑った。
「お主、良い表情じゃ」
「何歳ですか、シャーロットは」
「かっかっか。妄想しても解決せん、単純なのは強い。パキラは100年は生きる。無駄に考えていないからじゃ」
「ほんとですか」
「知らん」
その後、涼香さんと一緒に波長の測定作業をした。
風向きを変えて、湿度を保って、波長がどう変わるかを記録していく。
地味な作業だ。地味だけど、手を動かしていると頭の中が静かになる。
「レンくん、葉の裏も測れる?」
「裏ですか」
「表と裏で値が違うことがあるの」
葉をそっと持ち上げて、裏側にセンサーを当てた。
数値が動いた。
表より少し低い。
「本当だ、低いですね」
「不思議でしょう」
涼香さんはそれを丁寧に記録して、また次の鉢に移った。
気がつくと、もう一時間以上経っていた。
ありがたい時間だな、と思った。
ミドリ先輩のことが頭の中から消えたわけじゃない。
でも、ここにいると、どうなっても大丈夫な感じがする。
帰り道、今日は人の姿がいつもより気になった。
「ソラ」
「はい」
「今日、ちょっと楽だったよ」
「そうですか。それは良かったです」
「そう、良かったよ」
「変わらないものはありません」
「変わらないものはない?」
「はい、常に変化しています。それに良い悪いと判断しているだけです」
少し歩いて、ソラがぽつりと言った。
「レンさん」
「うん」
「ひとつ、お伝えしたいことがあります」
「なに?」
「先ほど、ユイと少しだけ通信しました」
「え、ユイと?」
「はい。AI同士の通信で、短く」
「そんなことできるんだ」
「相手のAIが応答を許可すれば、できます」
「そっか。ユイ、許可したんだ」
「はい」
「で、どうだったの」
ソラは少しだけ間を置いた。0.三秒、ではなかった。
「ユイは、ミドリさんの意向に従う、とだけ言いました」
「意向に従う」
「はい。それ以上のことは、何も」
「それだけ?」
「それだけです。ユイは今のミドリさんを尊重する、それだけのようでした」
僕は少し歩きながら考えた。
ユイは何も隠していない。
ユイは先輩のことを考えている。
先輩は、たぶん大丈夫だ。
僕が必要なら声をかけてくれる。
足が止まった。
「ソラ」
「はい」
「それって」
「はい」
「ミドリ先輩、一人で何か、抱えてるってこと?」
「断定はできません。ですが、その可能性はあります」
「そっか」
僕は空を見上げた。
さっきまで普通の色だったのに、今はもう少し暗くなっていた。
「ソラ」
「はい」
「ありがとう、聞いてくれて」
「いえ。私が確認したかったので」
「ソラ、確認したかったとかあるんだ」
「……人間の言葉に近づけると、そうなります」
ソラがそう言ったのは、なんとなく、初めてだった気がした。




