1章ー9 残されたメッセージ
詰め所の事務所を出ると、ちょうど昼時だろうか、太陽が真上で照らしている。
「冒険者ってのも、楽じゃないな」
ダンテが肩の上で呟いた。
「ああ」
「俺はてっきり、依頼を受けて仕事して、報酬をもらう。それだけのことだと思っていたが」
「そんな単純な話じゃなかった」
「……まあ、お前のことだから、どうせ困っている人間がいればほっとけないんだろうけどな」
ダンテの声は少しからかうような調子だったが、その奥には真剣みがあった。
「だから余計に、気をつけないといけない、ということか」
「そうだな」
エメラは答えた。
「力があっても、知らずに悪用されることはある。むしろ力があるからこそ、狙われやすいのかもしれない」
「トルクのことを言っているのか、自分のことを言っているのか、どっちだ」
「……両方かな」
エメラは苦笑した。
通りを歩きながら、どこかの家の窓から料理の匂いが漂ってきた。玉ねぎと肉の匂い。昼飯の時間だ。
「腹が減ったな」
ダンテが言った。
「お昼はどうする?このまま無言の碑につく頃には俺は餓死してしまうかもしれないぞ」
「それは困るな」
「パンは買ったか?バックから匂いがするぞ」
ダンテの尻尾が揺れた。
「朝に買った。ちゃんとある」
それを聞くとダンテの尻尾は嬉しそうにぶんぶん横に振れた。
「たべながら向かおう。女将さんの話じゃあ街の北、森を抜けた先にある小高い丘だったな」
「むしゃむしゃもぐもぐ」
ダンテはエメラから貰ったパンを口いっぱいにほおばっており、こちらの話を聞いていない。きっと宿屋で話した女将さんとの会話もあまり聞いていなかっただろう。諦めて女将さんの言葉を思い出しながら記憶を頼りに向かう。
2人は北へ向かった。
ヴェルディアの街を抜け、森の入り口へ。門のところで警備の兵士が会釈した。エメラも頭を下げ、森の中へと踏み込んだ。
木々の間を抜ける小道は、よく踏み固められていた。恋人たちが歩いてきた道だ、とエメラは思った。足元に小さな花が咲いており、朝露がまだ草の葉に残っている。空気が澄んでいた。鉱山の近くとは思えないほど、深くて静かな空気だった。
「いい場所だな」
ダンテが鼻をひくつかせながら言った。
「土の匂いがする。生きている匂いだ」
「ああ」
エメラも深く息を吸った。
小道は緩やかに登り始めた。傾斜が増すにつれ、木々の間から光が差し込む角度が変わっていく。葉が風に揺れるたびに、光の粒が地面を走った。
やがて、森が途切れた。
そこに——小高い丘があった。
見晴らしの丘。女将の言っていた通りだ。頂上に立つと、ヴェルディアの街が眼下に広がっていた。石畳の道が細い筋のように走り、家々の屋根が朝の光を受けて光っている。遠くには鉱山の入り口が見え、さらにその向こうには山の稜線が連なっていた。
「確かに、一望できるな」
エメラは少し立ち止まり、その景色を眺めた。空が広い。ここまで来ると、空が近くなる気がした。風が穏やかに吹いており、草が一斉に揺れる。
「恋人たちが愛を誓う場所としては、確かにもってこいだな」
ダンテが言った。
「お前がそういうことを言うのは珍しい」
「事実を言っただけだ」
ダンテは取り合わなかった。
エメラは視線を丘の頂上へと向けた。
そして——そこに、石碑が立っていた。
巨大な石だった。
エメラの身長を優に超える高さで、幅も腕を広げたほどはある。表面は苔むし、緑と灰色が混ざり合った独特の色をしていた。何年、いや何十年、あるいはもっと長い時間をここで過ごしてきたのか、その風化の具合が教えていた。
近づいてみると、表面に文字のようなものが刻まれているのが分かった。しかし——刻んだ当時はどれほど鮮明だったのか、今となっては石碑を撫でる手の感触でかろうじて溝があると分かるほど、かすれていた。文字なのかどうか、そもそも判断できないほどだ。
所々、何かで傷をつけられたような跡もある。おそらく解読しようとした者が、拓本を取ろうとしたのか、あるいは別の方法を試みたのか。それでも石碑自体はびくともしていない。悠久の年月を、ただそこに立って刻んできた石だ。
「これが、六個目か」
ダンテが静かに言った。エメラの肩から降り、石碑の周りをゆっくりと歩く。
「ああ」
エメラは石碑の正面に立った。
表面を眺める。かすれた文字の痕跡を目で追う。世界のあらゆる学者が解読できなかった理由が、エメラには分かる。
この文字はイミテーションだ。偽物の文字。表面に刻まれているものは、どんな言語学者が見ても文字には見えない。文字のような模様に見えなくもないが、どんな既知の言語とも一致しない。
解読できないのは当然だ。本当の文字は、別の場所に隠されている。
同じ種類の者だけが知る、符牒がある。言葉ではなく、マナの流れ方で開く鍵だ。
エメラは石碑に手を置いた。
石は冷たかった。しかしその冷たさの奥に、何かが眠っているのをエメラは感じた。眠っているのではなく、待っている。ずっと、ここで、誰かが来るのを待っていた。
エメラはゆっくりと目を閉じた。
体内のマナを高める。木属性の力が、指先から石へと流れ込もうとする。しかしエメラはそれを抑え、別の流れを作った。通常の魔術とは違う。術式とも違う。もっと根元にある、言葉の形をした何か。
声に出す。
「我が名はエメラ・ヴァイパグリン」
エメラの声が、丘の上に静かに響いた。風が止んだ気がした。草も、葉も、一瞬動きを止めたかのようだった。
「木のエレメンツにして、五柱の長」
手のひらを通して、石の奥に何かが応えた。微かな振動だ。眠っていたものが目を覚ます時の、わずかな震えだ。
「石碑に刻まれし我が同胞の言葉よ——顕現せよ」
沈黙が一瞬あった。
それから、石碑が光り始めた。
最初は、かすかなものだった。苔の間から、石の割れ目から、淡い光が滲み出てくるように。それが徐々に輝きを増し、かすれていた文字の痕跡に沿って光の線が走り始める。
光は形を成していく。
かすれて消えかけていた溝が、光によって補われていく。文字ではないと思っていたものが——文字だったのだと、今初めて分かる。エメラが知っている文字ではない。しかしエメラには読める。血に刻まれた読み方で、読める。
ダンテが静かに歩み寄り、エメラの隣に立った。
2人は並んで、光る石碑を見上げた。
ヴェルディアの街が眼下に広がり、空が頭上に広がり、丘の上で、石碑が何百年ぶりかに目を覚ました。
光はさらに輝きを増し、形を固めていく——。
石碑の表面に文字が浮かぶ。光でできた文字だ。青白く、淡く発行しており、その光はどこかやさしさを感じられる。
「読んでよエメラ」
ダンテが催促する。いかにかしこい魔獣でも、文字は読めないらしい。少し甘えた声を出すからエメラは思わず微笑む。
「わかってるよ。えーっと」
「(聖暦1072この世界を巡る2週目 まだ、誰も目覚めない 水は闇に抱かれた海底 木は静寂の澱む森の奥 火は灼熱に満ちた奈落 風は颶風纏う高嶺の塔 1人では何も成せない 力が必要だ なおこの地の大層は安定している 良質な鉱脈を内包しマナの流れも濁りない ここに街を作り鉱物資金を準備する 来たるべき再開へ向けて 世界は広い テラ・バトランバー)」
「下にもう1つメッセージがあるな」
「(聖暦1103小さな宿場から始まった街も長年の人の往来により街として形作ることが出来た 鉱山も稼働し数年 街の長 鉱山の長を任せ、資金の目処も経ち計画を次の段階に進める事とする これより北へ向かう 北はいくつかの大きい町がある そこでまた刻文を残そう テラ・バトランバー)」
「テラはここに約30年滞在していたみたいだ」
「ということはこの街の原型はテラが作ったのか?」
「おそらく、グレゴールさんにあとで聞いてみよう。この街と鉱山の成り立ちを」
「なあ。テラってエメラの仲間だよな? どんな人なの?」
ダンテが尋ねた。
エメラは少し考えてから、丘の草の上に腰を下ろした。膝を立て、ヴェルディアの街を眺める。ダンテもその隣に座った。
「そうだな、俺たちはみんな本当の兄弟のように育ったんだけど、その中でもテラは落ち着いていて物知りで、みんなの頼れる兄みたいな存在だな」
エメラの声には、懐かしさと、それに寄り添う温もりがあった。
「テラが話すときは、みんな自然と聞き入ってしまう。押しつけがましくはないのに、言葉に重みがある。叱るときも穏やかだから、余計に刺さる」
「みんなって、何人いたの?」
「人数はいっぱいいたよ」
エメラは草の一本を指先でつまみながら言った。
「そこから段々減っていって」
声のトーンが、わずかに落ちた。
「最終的には6、いや……5人が選ばれたんだ」
懐古するエメラの顔は、どこか寂しげだった。最初はいっぱいいた。段々減っていった。最終的には5人。
ダンテはその言葉を聞き、頭の中で問いが浮かんだ。どういう意味なのか。減っていったとは、選ばれたとは、5人というのは今も生きている者の数なのか、それとも。
エメラの説明を言いても全てに疑問が浮かび上がる。エメラの横顔を見た。寂しげな表情が、そこにある。聞くべきか、聞かざるべきか。ダンテは心の中で葛藤した。
しかし——知りたかった。エメラのことを、もっと。
「なあ、エメラ。言いたくなかったら言わなくてもいいけど」
少し言い淀むように、ダンテは問いかけた。
「いっぱいいた仲間は何で減っちゃったんだ? 最終的には5人って?」
エメラはしばらく黙っていた。草の先を見つめ、風が髪を揺らした。
「そうだな……ダンテにはまだ詳しく話してなかったな」
エメラはゆっくりと口を開いた。
「俺とダンテが出会った森の奥の神殿、覚えているか?」
「ああ、あの古びた神殿か、もちろん覚えているぞ」
「あそこは俺たちの一族のもの、と言ったが、正確には木のエレメンツが所有する神殿なんだ」
「出会った頃に少しだけ聞いたけど、木のエレメンツって何なんだ?」
ダンテが問い返した。
エメラは空を見上げた。青い空だ。雲が1つ、ゆっくりと流れていく。
「そこから話すか」
エメラは膝に肘をつき、少し前のめりになった。
「エレメンツというのは、この世界に5つある根源的な力の、それぞれの担い手のことだ。木、土、水、火、風の5つ。俺が木のエレメンツで、テラが土のエレメンツ。他の仲間もそれぞれ担う属性がある」
「ちなみにジルは風のエレメンツだよ」
「五柱、と石碑で言っていたやつか」
「ああ。各属性のエレメンツは、世界に1人しかいない。複数いることは、原則としてあり得ない」
「世界に1人……」
ダンテは静かに繰り返した。
「ダンテ、知ってるか? この世界の中心にあると言われる世界樹の存在を」
「え? うーん、知……らない」
ダンテは正直に答えた。世界樹、という言葉は聞いたことがあるような気もするが、実態を知っているかと問われると、首を縦には振れない。伝説か、神話か、そういう類の話だと思っていた。
「外界からは隔絶され、人も魔獣も、生きとし生けるもの全てが到達不能な場所だ」
エメラは静かに語り始めた。
「各国の王ですらも存在を知らされていない場所に、世界樹は存在している。俺たちは守り人の部族と言って、その世界樹の麓に集落を作り、代々世界樹を管理しているんだ」
「そんな場所で、俺たちは生まれたんだ」
エメラは少し間を置いた。
「大体千年位前にね」
「え??」
ダンテは思わず声を上げた。
千年。
その数字が、ダンテの頭の中でうまく処理されなかった。千年という時間が、どれだけのものなのか。自分が知っている中で最も長い時間の概念は、百年かそこらだ。千年というのは——。
ダンテは大きく動揺した。エメラに対して抱いていた疑問が、さらに大きく膨らんでいく。あの廃墟の神殿で出会った時から、普通ではないと思っていた。マナの扱い方、詠唱魔術、力の規模——どれも常識の外にあった。しかし千年という数字は、それらを全て飲み込んでしまうほどの重さがある。
何から聞けばいいか分からない。ダンテは言葉を見つけられず、ただエメラの次の言葉を待つことしかできなかった。
「集落の名前はアル・ノア」
「俺たちの一族は、生まれた時からマナの総量が外界の人よりも何倍も持って生まれる」
「……何倍」ダンテがようやく言葉を絞り出した。
「どのくらいだ」
「人によって差はあるが、平均的な外界の魔術師と比べると……十倍から、二十倍程度は最低でもあると思う」
「それが一族全員か」
「ああ。守り人の一族は、世界樹の傍で生まれ育つことで、世界樹のマナの影響を受けながら育つ。それが体に蓄積されていく。生まれた時からそれが普通だから、俺たちはそれを特別だとは感じなかったけどな」
「ということは、お前は千年生きているのか」
「厳密には違う」
エメラは首を振った。
「眠っていた時間が長い。目覚めていた時間と、眠っていた時間がある。実際に意識があって、世界を経験した時間は——もっと短い」
「それでも、相当な時間だな」
「ああ」
「俺が出会った時のお前は……ずいぶん長く眠っていたのか」
「詳しくはまだ把握しきれていないが、そうなるな。目覚めた時には神殿がすでに廃墟になっていた。それがどのくらいの時間を意味するのかは……」
エメラは苦笑した。
「正直、想像したくなかった」
ダンテはしばらく沈黙した。
「その集落に生まれたのになんでその神殿で眠ってたんだ?」
ダンテが尋ねた。
「確かにあの神殿は森の奥深くにあって、なかなか人も獣も立ち寄らないような場所にはあったけど、外界から隔離されているというには少しおおげさじゃないか?」
率直な疑問だった。エメラが語ったアル・ノアのイメージと、あの廃墟になった神殿のイメージが、うまく重ならない。世界樹の麓の、到達不能な聖地——そういう場所の話をしていたはずなのに、あの神殿はエメラが言うほど隔絶されているようには見えなかった。ダンテ自身が住処にしていたくらいだ。
「順を追って話すよ」
エメラは少し考えてから言った。話す順番を整理しているような、間だった。
「人間や魔獣、動物や草木に至るまで、この世にはマナが宿っている。宿す量に大小はあるけどね」
「それは知っている」
ダンテが頷いた。
「そして世界樹というのは、世界のマナの調和をしているといわれている。世界に溢れているマナは世界樹から産まれ、世界樹に回帰する。それを俺たちは見守り、時に管理する役割を、集落全体で行ってきた」
エメラの声は淡々としていた。暗唱しているというより、ずっと昔から知っていた当たり前の事実を、改めて言葉にしているような語り口だった。
「アル・ノアにいる人々を、守り人の一族と呼んでいた」
「守り人」
ダンテが反芻するかのように繰り返した。
「ああ。世界樹を守るのではなく、世界樹が生み出すマナの流れを守る、という意味だ。世界樹そのものは、俺たちが守るような代物じゃない。ただ、そこから流れ出るものが正しく循環するように、見守る。それが仕事だった」
「アル・ノアで産まれた子供たちは、生まれつき高いマナをさらに高めるために、幼少期から過酷な訓練をしていく。そして、それを次世代につないでいく」
「過酷な訓練というのは」
「外界の鍛錬とは根本が違う。体を鍛えるというより、マナの器を広げる訓練だ。無理に器を広げれば、体が悲鳴を上げる。適切な速さで広げなければ、力が暴走する。その均衡を保ちながら、少しずつ、少しずつ——それを子供の頃から続けていく」
「子供の頃から、か」
ダンテの声には、どこか複雑なものが混じっていた。
「世界樹の恩恵もあると思うが、そういった常日頃の努力が、一族全体のマナの量が高い一因にもなっているんだろうと思う」
「そんなにマナを高くする必要はあるのか? とても強い魔獣でも出るとか?」
「いや、アル・ノアで魔獣は無かった……こともないか」
エメラは少し言い直した。
「でも普通に暮らしているだけでは、魔獣に出会うことは無かった。日常的な危険という意味では、外界よりずっと穏やかな場所だったと思う」
「じゃあ、なんでそこまでマナを鍛える必要があるんだ」
「理由は主に2つだ」
エメラは指を2本立てた。
「1つは、定期的に世界樹にマナを供給する必要があったこと。世界樹は自らマナを生み出す存在だが、完全に自律しているわけではない。一族が定期的にマナを注ぐことで、その循環を助けていた。これは一族全体で行う、いわば集合的な仕事だ」
「そしてもう1つは——」
エメラは少し間を置いた。
「一族の中でも特にマナの力が強く、固有のマナと親和性が高い者が選定されるんだ」
「選定……エレメンツの選定か」
「ああ」
エメラは頷いた。
「選ばれた者はエレメンツと言われ、世界樹からの寵愛を一身に受ける。しかしその代わりに、命をかけて世界樹に尽くす運命を背負う。このエレメンツが、千年の周期で力を継承される」
「千年の周期」
ダンテが繰り返した。
「ということは……今のお前たちが、ちょうど千年ということか」
「そうなる」
「継承を受けた者は、不老不死に近い存在となる。ジルヴェント商会の会頭が何百年も活動を続けているという話も、それで説明がつく」
「不老不死に近い、というのは」
「完全ではない」
「死なない、ということではなく——老いるのが極めて遅くなる。また、通常では致命的な傷でも、肉体が朽ちることは無い。全てのマナを失ってしまえば分からないけどね。そして、それが俺が神殿で眠っていた理由の1つでもある——が、それはまだ後の話だ」
「順を追って、だったな」
「ああ」
エメラは苦笑した。
「そのエレメンツに選ばれるために、一族は訓練を行う。選ばれるかもしれない、という可能性を持った子供が複数いて、全員が全力で鍛えていく。その過程で、脱落していった者も多い」
「脱落、というのは」
ダンテが慎重に尋ねた。
「死んだ者もいる」
エメラは静かに言った。声に感情的な揺れはなかった。しかしそれが逆に、何度も反芻してきた言葉のように聞こえた。
「マナの器を無理に広げようとした結果、体が耐えられなかった者。力の暴走を制御できず、自分を傷つけた者。訓練そのものではなく、訓練のための試練——外の世界に出ようとして、自分の力を証明する前に倒れた者も」
「子供が?」
「子供が」
エメラは繰り返した。
「俺たちの一族にとって、それは当たり前のことだった。悲しまなかったわけではない。ただ——覚悟の上での訓練だという共通認識があった。誰もが選ばれたかった。誰もが世界樹のために尽くしたかった。そのために死ぬことを、恐れていなかった」
「お前も、恐れていなかったか」
ダンテが静かに尋ねた。
エメラは少し黙った。木々の間から差し込む光が、2人の足元を照らしていた。
「……子供の頃は、恐れていなかったと思う」
やがてエメラが言った。
「今になって振り返ると、何も分かっていなかっただけかもしれない、とも思う」
その言葉は、答えでも否定でもなく、ただ正直に置かれた言葉だった。
ダンテは何も言わなかった。
「まあ、そんなこんなで俺はエレメンツに選ばれたが、ふとした事件がきっかけで、俺たちは神殿に眠りにつくことになったんだ」
エメラは淡々と言った。まるで「そういえば昨日、宿で夕飯を食べた」と話すような口調だった。しかしその言葉の密度は、その軽さとは全く釣り合っていなかった。
ダンテはしばらく黙っていた。
整理する時間が必要だった。千年前に生まれた。世界樹の麓の集落で育った。エレメンツに選ばれた。そして——神殿に眠りについた。
その神殿は、あの廃墟だ。ダンテが住処にしていた、森の奥の古びた石造りの建物だ。エメラが眠っていた場所だ。
「そうなのか」
ダンテが言った。
「っていうか、神殿で眠りにつくレベルの話って——エレメンツになったエメラが死にかけたってことなんだろ?」
ストレートな問いだった。しかしそれ以外の聞き方が、ダンテには思いつかなかった。
エメラは少し間を置いた。
「そうだ、な」
肯定だった。しかし「な」という一音の後に、何かが続きそうで続かなかった。エメラが言葉を選んでいるのではなく、言葉にする部分とそうでない部分を、今この瞬間に分けているような沈黙だった。
「あの件は……まだ解決してはいない」
やがてエメラが言った。
「世界を回って、いつかは俺は世界樹の元に再び向かい、真相を知りたいと思っている」
「真相」
「まだ分からないことがある、ということか」
「ああ。俺が知っていることは、断片だ。眠りにつく直前に起きたことの全てを、俺は把握しきれていない。テラは知っているかもしれない。あるいは他の誰かが」
エメラは前を向いたまま歩いていた。その横顔は穏やかだったが、ダンテには分かった。穏やかさの下に、解決していない何かが、ずっとそこにある。
「そのためにも、テラが各地に残したメッセージを読みつつ、テラを追いかけているんだ」
エメラは続けた。
「ジルや他の2人にも合流しないとな。まずはもっと手掛かりが必要だ」
「他の2人は……まだ何も分かっていないのか」
「ああ。水のエレメンツと、火のエレメンツ。名前は知っている。顔も覚えている。しかし今どこにいるのか、目覚めているのかどうかも、まだ分からない」
「ジルはジルヴェント商会という手掛かりがある。テラは石碑という手掛かりがある。他の2人は」
「今のところ、何もない」
エメラは静かに言った。
「だから、歩き続けるしかない。会う人間の話を聞いて、訪れた土地で耳を澄まして、見たものを全部頭に入れて——いつか何かが繋がる日を待ちながら」
語り終えたエメラは、ふう、とため息をついた。
それは疲れたため息ではなかった。どちらかというと、長い間胸の中にあったものを、少しだけ外に出した時のような、静かな息だった。
ダンテは肩の上で、エメラの横顔を見ていた。
話を聞いている間、ダンテはエメラが語る以上の重さを、その言葉の裏に感じ続けていた。千年の生、選ばれた宿命、死にかけた事件、解決していない真相、行方の分からない仲間たち——一つ一つは断片として語られたが、それらが積み重なると、エメラという人間が歩んできた時間の密度が、じわじわとダンテの中に染み込んでくる。
壮絶、という言葉が浮かんだ。
しかしそれを口にしなかった。エメラが淡々と語ったのは、それを壮絶だと思っていないからかもしれない。あるいは、壮絶だと認めてしまうと、立っていられなくなるからかもしれない。どちらなのかは、ダンテには分からなかった。
「なあ、エメラ」
ダンテが静かに言った。
「何だ」
「話してくれて、ありがとうな」
エメラは少し驚いたような顔をした。ダンテが礼を言うのは珍しい。それはダンテ自身が一番よく知っていた。
「なんだ、急に」
「急でもない」
ダンテは尻尾を揺らした。
「三年一緒に旅して、今日初めて少し分かった気がしただけだ」
「少し、か」
「千年分を一日で全部分かろうとするのは無理だろう」
エメラは笑った。今日何度目かの笑いだったが、これが一番柔らかかった。
「そうだな。俺も全部は話せないし、全部は覚えていない。眠っていた間のことは特に」
「ゆっくり聞く」
ダンテが言った。
「旅はまだ続くんだろう」
「ああ。終わる気配がない」
「なら、時間はたっぷりある」
エメラはまた笑った。今度は声が出た。
「お前が時間はたっぷりあると言うのは、珍しいな。いつも急かすのに」
「急かすのは仕事が遅い時だ。話を聞くのに急ぐ理由はない」
「ダンテが賢いことを言っている」
「いつだって賢い」
ダンテが言い放った。それがまた可笑しくて、エメラは少し肩を揺らして笑った。
「じゃあそのエレメンツの力を継承しているおかげで、エメラはそんなに強いんだな」
ダンテが言った。今日聞いた話を整理するように、確認するように。
「俺は強くなんかないよ」
エメラが答えた。
それから少し間があって——
「それに、継承できてはいない」
ぽつり、と呟いた。
常人には聞こえないくらいの声で。
ダンテの耳は、しかし確かにその言葉を拾った。
継承できていない。
その言葉の意味を、ダンテはすぐには問わなかった。問えなかった、というより——問うべきではないと感じた。エメラが今日話してくれたことは、たくさんあった。しかしその一言は、今日話してくれたどの言葉とも、少し質が違った。
そっと置かれた言葉だった。誰かに聞かせるために言ったのではなく、自分の中にずっとあったものが、ふとした拍子に口から出てしまったような、そういう言葉だった。
ダンテは深く触れることなく、黙っていた。
2人の間に、しばらく沈黙が続いた。
気がつくと、あたりが赤く染まり始めていた。
西の空から、夕暮れが滲んでくる。山の稜線が黒く浮かび上がり、その上に橙色と紅色が重なっていく。ヴェルディアの街の屋根が、その色を受けて静かに輝いていた。
「そろそろ戻るか、グレゴールさんが待っているかもしれないし」
エメラが促した。
「そうだな、早く言ってあげないとご飯の時間が遅くなっちゃうからな」
ダンテが言った。
それだけ言って、2人は丘を後にした。




