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1章ー10 新たなる旅立ち

帰り道は下り坂だ。自然と足が速くなる。行きよりも体が軽い気がした。話したからか、それとも石碑を見終えて、何かが整理されたからか。エメラ自身にもよく分からなかったが、足取りは確かに軽かった。


 往路の半分ほどの時間で森を抜け、街へ戻る。夕暮れが深まり、石畳の通りはオレンジ色の光に染まっていた。人々が家路に急いでいる。荷物を持った商人、走り回る子供、店じまいを始める露店。一日が終わりに向かう、その慌ただしさの中を、2人は歩いた。


 鉱山組合の建物が見えてきた。石造りの正面に、まだランタンが灯っている。エメラは入り口のドアを押して中に入った。


 ロビーは静かだった。日中の喧騒は消え、椅子や机が整えられている。


 受付のカウンターでは、若い女性が帰り支度をしていた。書類を束ね、引き出しを閉め、羽根ペンをペン立てに戻している。こちらを向いてはいない。人の気配を感じたのだろう、振り返らないまま声をかけてきた。


「本日は就業の時刻となります。御用の方はまた明日の朝ご来訪ください」


 淡々とした、しかし丁寧な声だった。一日に何度も繰り返してきたであろう、定型の言葉だ。


「あ、す、すみません。グレゴールさんを待たせているかもしれないのですが、また明日がいいですか?」


 エメラは少し戸惑いながら対応した。時間の読みが甘かった、と思いながら。


「グレゴールさんに?」


 そういって受付嬢は顔を上げた。


 目の前の青年を認識した瞬間、その表情が変わった。事務的な硬さが解け、慌てたような、申し訳なさそうな顔になる。


「エメラさんでしたか、失礼しました。グレゴールは奥にいると思いますので、入っていただいて結構です」


 慌てて立ち上がり、奥を示すように手を向ける。その様子を見ていたダンテが、肩の上でのんびりと口を開いた。


「別に気にしなくていいぞ。俺たちもグレゴールに用が済んだらすぐ帰るからな」


 それからちょっと間を置いて、


「お茶菓子とかはいらないからな。ただ、出されたものは食べるけどな」


「こら、ダンテ」


 エメラが窘めた。


「俺たちがこんな時間に来たのが悪いんだから。お姉さん、本当に気にしていただかなくて結構です。グレゴールさんがいると教えていただけただけでありがたいです」


 エメラが頭を下げると、受付嬢は少し表情を緩めた。ダンテの発言に苦笑しているのか、エメラの丁寧さに安堵しているのか、おそらく両方だろう。


「お気をつけて」


 受付嬢は小さく言った。


 エメラとダンテは廊下を進み、グレゴールが使っている部屋の扉の前に立った。ドアをノックする。コン、コン、と乾いた音が廊下に響く。


「入れ」


 グレゴールの声が、扉越しに聞こえた。


 エメラは扉を押して中に入った。


 部屋の中はランタンの灯りが灯されており、夕暮れの外よりもむしろ明るかった。机の上には書類が積まれ、その脇に茶器が置いてある。グレゴールは椅子に深く座り、エメラが入ってくるのを見て、皺の刻まれた顔をほころばせた。


「エメラ殿か、お待ちしておったぞ」


「もう用事の方は済んだのかの?」

 

 グレゴールが尋ねた。

 

「はい、あらかた終えたので明日にでもこの街を発とうかと思います」


「そうか……」

 

 グレゴールは少し間を置いた。残念そうな、しかし納得したような顔だった。

 

「これからはどちらに向かわれるのかな?」

 

「北の方へ向かおうと思います」

 

「北か」

 

 グレゴールは腕を組み、少し考えるような仕草をした。それから口を開く。

 

「北東なら大きな国がある。アストリア連合国と、」

 

「アストリア連合国……どんな場所なんですか?」

 

「アストリア連合国はこの大陸でも屈指の大国じゃ。複数の都市国家が連合を組んでおる。商業も学術も盛んで、大きな図書館や研究機関が集まっておる。もちろんジルヴェント商会の支部も、そこにある」

 

「美味しいものがいっぱいありそうだな」


 ダンテが反応する。尻尾が分かりやすくフリフリしていて嬉しそうだ。

 

「そうじゃな。国が大きい分、美味しいものも多いぞ。それに情報が集まる場所じゃから、いろんな話が聞けるはずじゃ。しかし、遠い」

 

 グレゴールは窓の外を見た。夕暮れの空が、窓枠に切り取られて見えている。

 

「エメラ殿なら大丈夫じゃろ」


 グレゴールは穏やかに笑った。


 室内にしばらく静かな時間が流れた。ランタンの炎が揺れる。グレゴールが何かを思いついたように、ぽんと膝を叩いた。

 

「そうじゃ、エメラ殿。明日の出発じゃが、馬車を使ってはどうかの」

 

「馬車ですか?」

 

「ヴェルディアからアストリアに向かう商会の馬車が、明後日の早朝に出る予定じゃ」

 

 グレゴールは机の上の書類をめくりながら続けた。


 「ちょうど鉱石の積み荷を、途中の街を経由しながらアストリアまで運ぶ定期便じゃ。御者は信頼できる男でのう、ワシの口利きで乗せてもらえるはずじゃ」

 

「途中の街というのは?」

 

「まず最初に山を下りて、麓のゴナという宿場町に寄る。それから街道を北上して、カルタという交易の街を経由する。最終的にアストリア連合国の南門に到着する、という経路じゃ」

 

 グレゴールは引き出しから地図を取り出し、指でなぞって見せた。

 

「徒歩で行けば二週間以上かかる道のりじゃが、馬車なら7日から8日ほどで着く。荷馬車じゃから速くはないが、山道を自分で歩くよりはずっと楽じゃ」

 

「それは……ありがたいお話ですが、迷惑をかけてしまいませんか」

 

「何の迷惑があるか」


 グレゴールは手を振った。


 「荷台には余裕がある。それに、護衛が1人増えると思えば御者の男も喜ぶじゃろ。山道には魔獣も出るしの」

 

「護衛と言えるほど俺は」


 「昨日の今日で何を言っておるんじゃ」

 

 グレゴールがエメラを遮った。その目がかすかに笑っていた。

 

「いいか、エメラ殿。あの鉱山で何をしたか、もう忘れたのか。護衛として十分すぎるじゃろ」

 

「それは……」

 

「明後日の早朝、この組合の前に馬車が来る。それに乗りなされ。話はワシがつけておく」

 

 口調は穏やかだが、有無を言わせない重みがあった。


「いいじゃないかエメラ、歩くのも疲れるし、ずっと早く着くならいいことづくめだろ」


 ダンテがグレゴールの案を横から後押しする。自分の肩にずっと乗って道中全く歩かないくせに、とふと思う。

 

「……ありがとうございます」

 

 エメラは頷いた。

 

「よろしい」


 グレゴールは満足そうに頷く。


 「それから、もう1つ」

 

 グレゴールは机の引き出しをもう一度開け、今度は革製の小袋を取り出した。テーブルの上に置くと、金属のぶつかる音がした。ずっしりとした音だ。

 

「今回の依頼の報酬じゃ」

 

 グレゴールが袋を押し出した。エメラは受け取り、中を確認しようとして——袋の口を開けた瞬間、思わず目を見開いた。

 

「グレゴールさん、これは……」

 

「金貨50枚じゃ」

 

 グレゴールが静かに言った。

 

「こんなに貰えません」

 

 エメラはすぐに袋を押し返した。テーブルの上を、袋が滑る。

 

「受け取ってくれ」

 

 グレゴールは押し返した。

 

「いや、でも、俺がしたことは——」

 

「受け取ってくれ」


 もう一度、静かに、しかしきっぱりと言った。

 

「グレゴールさん、50枚は多すぎます。普通の依頼の報酬で考えれば、どう考えても釣り合わない金額で——」

 

「普通の依頼ではなかったじゃろ」

 

 グレゴールがエメラの言葉を遮った。今度は少し声に力が入っていた。

 

「カールの命を救った。鉱山を守った。ファスの不正を暴いた。あの爆破の魔法陣を止めた。それだけではない、マナを使い果たして二日間も眠り込んだじゃろ。お主の働きへの対価として、5枚は決して多くない。むしろワシはまだ少ないとすら思っておる」


「でも」

 

「エメラ殿」

 

 グレゴールが、今度は穏やかな声で言った。

 

「さっきも言ったじゃろ。受け取ることも大事だと」

 

「それは……」

 

「お主は人を助けることに、対価を求めない。それはお主の誠実さじゃ。しかし、だからといって助けた側が感謝を示すことを拒む権利は、お主にはない」

 

 エメラは黙った。

 

「この金は、ワシの、グレゴール個人の感謝じゃ。組合の報酬ではなく、ワシという人間からエメラ殿という人間への、礼じゃ。それを断るのは——ワシの気持ちを否定することになる」

 

 その言葉が、エメラの胸に刺さった。

 

「……そういう言い方は、ずるいですよ」


 エメラが苦笑しながら言った。

 

「ずるくて結構じゃ」


 グレゴールが笑った。


 「年寄りの特権じゃ」

 

「ちなみにグレゴール」ダンテが横から口を挟んだ。

 

「さっきからエメラを言いくるめようとしているが、フーチを使ったら嘘だと判定されるんじゃないか、その一連の発言」

 

「全部本音じゃよ、魔獣ちゃん」グレゴールはにこりとした。

 

「フーチをかけても微動だにしないじゃろ」

 

「……なんで魔獣ちゃん呼びが定着しているんだ」ダンテが苦々しく呟く。


 「だってお主猫呼ばわりだと期限を損ねるではないか」


 エメラは笑いながら、もう一度袋を手に取った。今度は押し返さなかった。

 

「受け取ります。ありがとうございます、グレゴールさん」

 

「よろしい」グレゴールは満足そうに頷いた。深く皺の刻まれた顔に、温かい笑みが広がっている。

 

「旅の路銀の足しにしなさい。そして、仲間を全員見つけて、またいつか遊びにきておくれ」

 

「はい、ありがとうございます」エメラは小さく頷く。その声は、いつもより少し低かった。


 グレゴールが報酬の袋を引き出しにしまい直したところで、エメラがふと思い出したように口を開いた。

 

「グレゴールさん、1つ聞いてもいいですか」

 

「なんじゃ?」

 

「この街の歴史について、少し教えていただけますか。ヴェルディアはいつ頃できた街なんでしょう」

 

 グレゴールは少し意外そうな顔をした。旅の準備や報酬の話が続いていたので、突然の問いに見えたのだろう。しかしすぐに表情を緩め、椅子に深く座り直した。

 

「ほう、歴史に興味があるのかの」

 

「石碑を見たもので、少し気になりまして」

 

「なるほどのお」

 

 グレゴールは顎に手を当て、記憶を辿るように目を細めた。

 

「ヴェルディアの歴史か……ワシが知る限りでは話せるが、どこまで詳しく知りたいかの」

 

「街がいつ建てられたのか、誰が作ったのか、それから鉱山の歴史も合わせて聞かせていただければ」

 

「そういうことなら、腰を据えて話さないといかんな」


 グレゴールはランタンの灯りを少し調整し、改めてエメラを見た。


 「ヴェルディアの起源は、およそ900年前に遡る」

 

 グレゴールは語り始めた。

 

「元々はただの山間の小道沿いにあった、旅人の休憩所のような場所じゃったそうじゃ。山を越える商人が一夜の宿を求めて立ち寄るうちに、少しずつ人が集まり、小さな集落になっていった」

 

「900年前か」


 エメラが呟く。

 

「ああ。そこに転機が訪れたのが、初代の町長——レイナルド・ベルクという男じゃ。記録によれば、もともと行商人じゃったとされておる。この地の山に鉱石が豊富に埋まっておることを見抜いて、人を集め、鉱山の開発を始めた。それがヴェルディアの本当の始まりじゃ」

 

「レイナルド・ベルク……記録が残っているんですね」

 

「ああ、組合にも街の公文書にも、ちゃんと名前が刻まれておる。今でも街の広場の片隅に、小さな石碑があるじゃろ。あれがレイナルドの功績を称えたものじゃ」


「他に記録されているものとして名をあげると、初代の鉱山の長はガルト・ハーヴァという人物じゃな。レイナルドが町長として街を束ねる一方、ガルトが実際に鉱山の開発を指揮した。2人は幼なじみじゃったという記録もある。どちらも出身地が同じ南の港街だったとされておる」


 「その2人の名前はしっかり残っているんですね」

 

「そうじゃ。2人の名前と功績は、しっかりと文書に記録されておる。その後の歴代の町長と鉱山の長の名前も、全員記録が残っておる。ワシもそのうちの一人というわけじゃ」

 

 グレゴールは少し誇らしげに、しかし照れくさそうに言った。

 

「代々の記録が綺麗に残っているんですね」

 

「そこはワシも誇りに思っておる。この街は記録を大事にする文化があっての。何があったか、誰がどんな判断をしたか、それを後世に残すことを組合として重視してきた」

 

 エメラは頷きながら聞いていた。

 

「グレゴールさん、1つ確認させてください」

 

「なんじゃ?」


 「この街の長い歴史の中で——テラ・バトランバーという名前は、どこかに記録されていますか?」

 

 グレゴールの動きが、わずかに止まった。

 

「テラ……バトランバー?」


 グレゴールは繰り返した。


 「聞いたことのない名前じゃな。ふうむ、記録にもざっくりと目を通す限り記載もない。どういう人物じゃ?」


 グレゴールは立ち上がり、部屋の奥の棚へと歩いた。年季の入った木製の棚には、革装丁の帳簿や書類の束が並んでいる。その中から分厚い一冊を取り出し、机に戻ってきた。


 どう答えようか、自分の出自を明かさぬよう注意を払い説明する。


「これはヴェルディアの歴代の記録を纏めたものじゃ。人物の記録も含まれておる」


 グレゴールはゆっくりと頁をめくり始めた。古い紙が、乾いた音を立てる。インクで書かれた文字が、ランタンの光に照らされて浮かび上がっていく。


 ダンテが肩の上で、じっと帳簿を見つめていた。


 しばらくして、グレゴールはゆっくりと帳簿を閉じた。


「ない」


 静かに言った。


「900年分の記録に、その名前は一度も出てこない」


「そうですか……」

 

 「いえ、記載がないのなら自分の勘違いかもしれません。もしよければ旅のお供にその歴史書の写しのようなものがあれば頂きたいのですが」


 「ああ、これなら街が出している資料としてあるからな、確か予備がここに……あったあった。こちらを持っていきなさい。退屈しのぎにはなるじゃろうて」


 「なにからなにまでありがとうございます」


 「なあに、このくらいお安い御用じゃよ」


「馬車でしっかり休みながら行きなさい。急ぐ気持ちは分かるが、倒れては元も子もない」


「はい」


「ダンテ、エメラ殿のことを頼んだぞ」


「任せておけ」


 ダンテが言った。


「倒れそうになったら引っかいてやる」


「それは嫌だな」


 エメラが苦笑した。


 グレゴールは声を立てて笑った。その笑いが部屋に広がり、ランタンの炎が揺れた。





 2日後、早朝。


 空はまだ薄暗く、地平線の端が白み始めたばかりだった。朝露が石畳を湿らせ、冷たい空気が吐く息を白く変えた。馬車停留所には、すでに荷馬車が一台停まっている。鉱石を詰めた木箱が荷台に積まれ、御者の男が手綱を確認しながら出発の準備を整えていた。


 エメラとダンテが停留所の端で荷物を足元に置いて待っていると。


「おーい」しゃがれた声が遠くから聞こえる。


 振り向くと——グレゴールとガレスと、隊長が並んで立っている。見送りに来たのだろう。三人とも、早朝にもかかわらず整った格好をしている。グレゴールは杖をついており、ガレスはいつもの作業着より少し整えた服を着ていた。


「見送りありがとうございます」


 エメラが頭を下げた。


「なに言ってんだ、世話になった人くらい、ちゃんと見送らせてくれ」


 ガレスが言った。それから笑いながら付け加える。


「カールが這ってでも来ようとしていたからな、ベッドに縛り付けるのに時間食っちまった」


「まだ体が完全に回復するには時間がかかります。早く仕事に復帰できるように、今は無理をしないように伝えておいてください」


「ああ、分かってる」


 そう言うとが頷いた。


「あいつも分かってはいるんだ、気持ちが先走るだけで。まあ、それがカールらしいところでもあるがな」


 ガレスは少し目を細めた。懐かしむような、安堵したような、複雑な笑顔だった。カールが無事だということが、まだ信じられないのかもしれない。


 隊長が一歩前に出た。


「君のおかげで、こうしてみんなが何事もなく無事平穏に、いつもの日常を過ごすことができるよ」


 隊長はそう言って、手を差し出した。


「ありがとう」


 エメラも手を差し出し、握手に応えた。隊長の手は大きく、固かった。長年剣を握ってきた手だ。


「こちらこそ、お世話になりました」


「いや……俺の方こそ、疑って申し訳なかった」


 隊長は握った手を少しだけ強くした。


「あの時のことは、まだ少し引っかかっている」


「それはもう終わった話です」


 エメラは首を振った。


「隊長がああしなければ、俺の方が信用できない人間ということになる。あれで良かったんです」


 隊長はエメラをしばらく見つめ、それから頷いた。握手を解く。


「そういや、次の目的地はどこに行くんだ?」


「街道を沿って北上し、アストリアに向かう予定です」


「なるほど……」


 隊長は少し考えてから、口元をほころばせた。


「じゃあもし、交易の街カルタで憲兵隊長に会ったら伝えておいてくれ」


「何をですか?」


「蛙は克服できたのか、と」


 そう言うと隊長はニヤニヤしている。エメラとダンテは思わず顔を見合わせた。カルタの憲兵隊長と何か親交があるのだろう。しかしその笑顔は、今までエメラが見てきた隊長の表情とは明らかに違った。職務上の鋭さも、警戒の色もない。いたずらっ子のような、屈託のない笑顔だ。


 エメラは今まで隊長に抱いていた印象が、するりと変わるのを感じた。


「……蛙、ですか」


「そうだ、蛙だ」


 隊長は満足そうに頷いた。


「返事がどうなるか、ちょっと楽しみにしてる」


「了解しました」


 エメラは苦笑した。


「会えたら必ず伝えておきますね」


「頼んだ」


 ダンテが肩の上でぼそりと言った。


「どんな関係なんだ、そいつとは」


「長い付き合いだ」


隊長は笑ったまま答えた。


「それだけ言っておく」


「エメラ殿、よければこちらを」


 グレゴールが口を開いた。その手に、円筒形の革ケースがある。細長く、丁寧に革が巻かれた、何かを収納するための入れ物だ。


「これは?」


「開いてみてもよいぞ」


 エメラはケースの蓋を外し、中に収まった巻物を取り出した。慎重に広げていく。


 それは地図だった。


 大きな羊皮紙に、細かな線で描かれた地図。山脈、河川、海岸線、街道、都市の位置——それらが丁寧に書き込まれている。一枚に収まっているにもかかわらず、書かれている範囲が広大だった。エメラが今まで見てきたどの地図よりも、遥かに広い範囲が描かれている。


「これは……」


「この世界の地図じゃ。ある程度は正確なはずじゃ」


 グレゴールが静かに言った。


 エメラは地図を広げたまま、しばらく声が出なかった。


 この世界では、測量の技術がまだ十分に発達していない。各国間のバランスや思惑もあって、世界地図というものは軍事機密と同等の扱いで、世間一般にはほとんど出回っていない。金貨をいくら積んでも手に入れることは難しく、手に入れるためには金と地位と権力の全てが必要になる。それでも手に入るかどうかは分からない。金貨に換算してもいくらになるのか、見当もつかないような代物だ。


「こんな希少なものを受け取っていいんですか?」


 エメラが目を上げてグレゴールを見た。声に、驚きと戸惑いが混じっている。


「もちろんじゃ」


 グレゴールは頷いた。


「これから隅々まで世界を旅するのであれば、その地図は必要じゃろうて。それに、それは写しじゃ。貴重な原本はワシが持っておる。写しとはいえ、ちゃんと使える」


「写しでも……これは」


「この街にいつからかある世界地図じゃ。何年前のものか分からんし、作られた頃と比べて国の名前も変わっておるかもしれん。境界線も今とは違う部分があるやもしれん。しかし、山や川、大陸の形といった地形は大きく変わるものではないからの。参考にしてくれ」


 エメラは再び地図に目を落とした。


 北東にアストリア連合国の文字が見える。さらに北東に、大きな河川が大陸を横切り、山脈がいくつも連なっている。東の端には広大な海が広がり、点々と島が描かれていた。


「何年前か分からない……」


  エメラが呟いた。


「そうじゃ。ワシがこの組合を継いだ時にはすでにあった。先代も、その先代も、誰が作ったかは知らなかったそうじゃ」


 ダンテがエメラの肩から降り、地図の端に前足をかけて覗き込んだ。その鼻がかすかに動く。


「この写し自体も古い羊皮紙の匂いがするな」


「これはワシがまだ若い時分に写したものじゃ、いつか必要になるときが来るかもと思ってな。役に立ってよかったわい」


 グレゴールが言った。


「この地図を作った人間が、一体どれほどの範囲を旅したのか……」


 隊長がぼそりと言った。


「世界中を歩き回らなければ、こんなものは作れない。1人で作ったのではないのかもしれないな」


「それこそジルヴェント商会が作った……とか」


「確かにそれなら人材も豊富におるし、各国に支店があるから可能性は高そうじゃの。まあ、誰が作ったか詮索してもキリがなかろうて。エメラ殿、大事に使ってくだされ」


 エメラは地図を慎重に巻き直し、革ケースに収めた。それを両手でしっかりと持ち、グレゴールを見た。


「大切にします」


「うむ」


 グレゴールは満足そうに頷いた。


「仲間を見つける旅の頼りになれば幸いじゃ」


「……はい」


 エメラは地図のケースをバックの底に仕舞った、落とさぬように。


「俺からもささやかながらプレゼントがある」そう言うと隊長はおもむろに封書を差し出した。


 エメラは受け取り、手の中でそれを確認した。


 しっかりとした封蝋が押してある。蝋の表面に紋様が刻まれており、丁寧に仕上げられていた。裏を見ると、差出人の名前が記載されていた。


 グレゴール・ヴァーレン。ロッド・ブレア。1つ、見知らぬ名前がある。

「ああ、ロッドは俺の名前だ」


 隊長が言った。エメラは少し驚いた。ずっと隊長と呼んでいたが、名前はロッドというのか。


「それを次の街に行った時でいい、冒険者ギルドに渡しな。今回の件でのエメラの活躍が書いてある。きっと冒険の役に立つはずだ」


「分かりました、ありがたく受け取ります」


 エメラは封書を大切に鞄にしまった。


「馬車の準備が整ったようじゃ」


 グレゴールが言った。御者の男がこちらに向かって手を上げている。出発の合図だ。


「では、行きます」


 エメラは荷物を肩にかけた。ダンテが素早く肩に乗る。


「エメラ殿」


 グレゴールが一歩前に出てきた。


 エメラが振り向くと、グレゴールは杖をついたまま、じっとエメラを見ていた。深い皺の刻まれた顔に、複雑な表情がある。何かを言おうとして、言葉を選んでいるような間があった。


「……元気でな」


 結局、それだけ言った。


 しかしその一言に、言おうとして飲み込んだ全ての言葉が、詰まっているような気がした。


「はい」


 エメラは頷いた。


「グレゴールさんも、お体に気をつけて」


「ワシはここを動かんよ」


 グレゴールは苦笑した。


「鉱山がある限り、ワシはここじゃ」


「それは安心しました」


「まったく……」


 グレゴールは小さく笑った。


 エメラは馬車に乗り込んだ。荷台の隅に腰を下ろすと、積まれた木箱が周りを囲む形になった。ダンテは膝の上に落ち着いた。御者の男が手綱を手に取り、馬に声をかける。


 馬車がゆっくりと動き始めた。


 エメラは振り返った。


 停留所に、3人が並んで立っていた。グレゴールが杖を高く上げた。ガレスが大きく手を振った。隊長が静かに、しかしはっきりと頷いた。


 エメラは手を振り返した。


 馬車は街道へと進んでいく。石畳の音が、やがて土の道の音に変わった。ヴェルディアの家々が遠ざかっていく。鉱山の入り口が小さく見え、やがて木々に隠れていく。見晴らしの丘が、朝の光の中に浮かんでいた。あの頂上に、石碑が立っているはずだ。


 朝の光が山の向こうから差し込み始めていた。冷たい空気の中、馬の息が白く立ち上る。


「……いい街だったな」ダンテが静かに言った。


「ああ」


「またいつか来るか?」


「いつか、きっと」


 エメラは答えた。


「カールさんに、一杯奢ってもらわないといけないしな」


「楽しみが増えたな」


 エメラは笑った。


 前を向く。北への道が、朝の光の中に続いていた。


 胸の内側に、地図がある。手の届かなかった仲間たちへの糸が、少しずつ、確かに手繰り寄せられている。


 馬車は揺れながら、北へと進んでいく。


 ヴェルディアの街が、少しずつ、遠くなっていった。


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