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1章ー4 暗躍スルモノ

隙間の向こうには、だだっ広い空間が広がっていた。

 

 天然の洞窟だ。天井は高く、壁は自然の岩肌がむき出しになっている。地面は平らで、歩きやすい。ランタンの光が届かない先まで、空間は続いていた。外の坑道とは空気が違った。閉じた空間特有の、澱んだ重さがある。

 

 そして、その洞窟の中央に——。

 

 もう1つ魔法陣があった。

 

 先ほどのものよりはるかに大きい。幾何学模様が幾重にも重なり、外縁から中心まで複雑な術式が描かれている。地面に刻まれた線は鮮明で、乾いた黒と赤の粉が混じり合い、低く脈打つように薄く光っていた。

 

「これは……何だ、誰の仕業なんだ」ガレスが思わず呟く。声が洞窟に反響し、同じ言葉がわずかに遅れて返ってくる。

 

 エメラは魔法陣に近づいた。慎重に、一歩ずつ。足を踏み出すたびに、地面に敷かれたマナの圧が足の裏にわずかに伝わってくる。触れられる距離まで近づき、しゃがんで観察する。

 

 魔法陣はまだ使用された様子がない。しかし、一定量のマナがすでに込められているのが分かった。準備された火薬が、火を待っている状態だ。

 

「これには……時限の術式が組み込まれている」エメラは呟いた。ダンテが立ち上がり、魔法陣の周りを静かに歩く。

 

「やっぱり。これ、先ほどの魔法陣と連動している」エメラが確信して伝えた。

 

「つまり、どういうことだ?」ガレスは魔法に全く無知なのだろう、皆目見当がついていない様子で訊ねる。

 

「この魔法陣が起動すると、他の魔法陣が連動して反応するように術式を組んであります。起爆装置——この鉱山を爆破させる仕掛けです」

 

「なんだと??」ダンテが反応する。その声はとても驚いている。

 

「ああ。間違いない。以前見たことがある。この魔法陣を起点に、他の魔法陣にマナを流す。マナは通した魔法陣に留まり、設定した時間になると施された術式を発動させる」

 

 それを聞いたダンテの全身の毛が、ぞわりと逆立った。

 

「こいつが爆発したら、鉱山全体が吹き飛ぶだけでは済まないかもしれない」エメラの顔から血の気が引いた。

 

「全体が?」

 

「ああ。威力を高める触媒が使われている。普通の爆発ではない。威力を何倍にも高めるように設計されている」

 

 ダンテは魔法陣を睨んだ。その琥珀色の瞳に、剣呑な光が宿る。

 

「カールの目的は、鉱山の破壊じゃ……ない。まさか……街ごと吹き飛ばすつもりなのか」

 

 ガレスは震える声で言った。昨日の夜、食堂で飲んでいた鉱夫たちの顔が、エメラの頭をよぎった。井戸の周りで水を汲んでいた女性たちの顔が。路地で走り回っていた子供たちの声が。

 

「止められるのか?」ダンテがエメラの肩に飛び乗り、問いかけた。エメラは魔法陣を見つめた。複雑な構造だ。術式の層が深い。

 

「やってみる」


「ダンテ、周囲を警戒しておいてくれ」

 

「分かった」ダンテはエメラの肩から降りて、洞窟の入り口付近で耳を立てた。

 

 エメラは魔法陣の前に膝をついた。六芒星の内部には複雑な文様が幾重にも重なり、その中心には爆裂の印が脈打つように明滅している。薄い赤みがかった光が、エメラの顔を下から照らした。

 

「まずは全体構造の把握、か」

 

 指先を陣から少し離してかざし、ゆっくりと外周をなぞっていく。魔力の流れが視える者だけが感じ取れる、微細な振動が指先を撫でた。

 

「外周は起動トリガー……いや、待て。この文様の配置は……」

 

 目を凝らす。六芒星の各頂点に刻まれた古代文字が、わずかに異なる輝度で光っていた。北の頂点が最も強く、そこから時計回りに光が弱まっていく。

 

「循環回路……だと? 普通の爆破陣なら単純な起動式でいいはずなのに、なぜわざわざ魔力を循環させる……ああ、そういうことか」

 

 エメラは苦い笑みを浮かべた。

 

「外周に触れた瞬間、循環が止まって暴発する仕組みか。つまり触れてはいけない。じゃあ内側から……いや、それも罠だな」

 

 視線を第二層の回路に移す。六芒星の内側、五芒星状に配置された文様は、外周とは逆——反時計回りに魔力を流している。

 

「逆回転……二重ロックか。外を止めれば内が反応し、内を止めれば外が暴発する。どちらから手をつけても……」

 

 額に汗が滲んだ。このままでは触れることすらできない。だが、必ず抜け道はある。トラップが仕組まれているのなら、必ず解除のやり方がある。設計した者が、起動できなければ意味がない。

 

「落ち着け。魔力は必ずどこかで結合している。2つの回路が独立して動いているように見えても、起動の瞬間には同期しなければならない。その接続点さえ見つければ……」

 

 エメラは陣の上に身を乗り出し、文様の1つ1つを精査していく。北東、東、南東——そして、南の位置で手が止まった。

 

「あった……ここだ。この結節点、2つの回路が交差している。なるほど……分かった、ここをこうすると……いや、待て。なんだこれは……これは根本的に違う……」

 

 エメラが術式の解析を始めてしばらく経ったとき——。


「誰か来る」ダンテが小声で伝えた。

 

 3人が同時に身構える。

 

「まだ少し距離は離れているが、3人の匂いがする。元来た道の方に向かっているかもしれない」

 

「あっちに隠れられそうな岩陰がある。2人ともついてきてくれ」

 

 ガレスが先導し、2人は追従した。岩陰に身を寄せ、息を潜める。ランタンの火は消す。洞窟が暗くなり、遠くの魔法陣の光だけが、微かに辺りを照らした。

 

 数分後、3人の人影が広場に姿を現した。

 

「カール……!!」

 

 ガレスが小さく呟いた。1人はカール、もう1人も見覚えがある顔——グレゴールさんと応接間で話をしていた時に割り込んできた、ファスと名乗る男だった。もう1人は見知らぬ顔だ。

 

 エメラがガレスに目配せする。ガレスは首を横に振る。知らない人間だ。

 

 3人は息を殺して、広間の入り口近くの岩陰から様子を窺った。


 炭鉱の奥深く、採掘が放棄されたその広い空間に、3つの人影があった。

 

 ファス。その横に立つ魔法使い風の男。そしてその後方に——カールが、うつろな目つきで佇んでいる。正気ではない。薬か、洗脳魔法か、何かかけられているようだ。

 

「そろそろ潮時かもしれんな」口を開いたのはファスだった。

 

「グレゴールのやつ、冒険者に炭鉱の調査を依頼しやがった。もう少し稼ぎたかったが、厄介なことになる前に逃げた方がよさそうだ」

 

「冒険者風情に怯えすぎなんじゃないですかねぇ」魔術師風の男が小馬鹿にしたような口調で言った。

 

「お前は昨日の晩の出来事を知らんからそう言える」ファスは苛立ちを滲ませて言い返した。

 

「昨日の魔術で重体の鉱夫の命が助かったってやつですかい? 高位の魔術師なら出来ることでしょう」

 

「いや、違う。あいつの力は異常だった」ファスは険しい表情で首を振った。

 

「本部勤めの高位神官でも、杖一本であそこまでの癒しの力は使えん」

 

「それはありえないでしょう、旦那」男は鼻で笑った。

 

「魔術ってのは魔法陣を描き、触媒を使って行うものだ。魔術師によっちゃ体に魔法陣を刻んで、描く手間を省く者も多い。触媒に杖を使う者も珍しくはない。だがな、高位神官クラスの回復魔術をホイホイ使えるやつが、わざわざ冒険者なんて危険な稼業につくわけがねぇ。そんな力があれば、もっと安全に稼げますからねぃ」

 

「それに」


 男は続けた。


 「いくつもの魔術をそいつは使ったって聞いてますが、魔法陣を複数体に刻むのは相当な痛みと時間を要する。若造の冒険者がそこまでやってるとは思えませんぜ」

 

「そうだ。しかも奴は聞くところによると魔法陣を使用していない」

 

 ファスの声が低く沈んだ。

 

「……何ですって?」男の表情が、初めて変わった。


「部下からの情報だ。魔法陣も使わず、詠唱の術で重傷者の傷を完全に塞いだ。しかも1人だけじゃない。立て続けに3人だ」

 

 沈黙が落ちた。壁際でぼんやりと立っていたカールが、意味もなく首を傾げる。

 

「それが本当なら……」

 

 男は唾を飲み込んだ。

 

「そいつは規格外ってことですかい」

 

「ああ。だからこそ、今すぐここを畳む。グレゴールが冒険者を雇ったということは、奴らがこの炭鉱に来るのも時間の問題だ」

 

 ファスは立ち上がり、部屋の隅に置いてあった革袋を掴んだ。

 

「お前もさっさと準備しろ」

 

「じゃああっしとの契約はここまでってことでいいんですかい?」

 

「ああ、残りの報酬は最後の仕事を終わったら渡してやる」


 岩肌を削った仮設の作業場で、ファスが苛立ちを隠そうともせず魔術師を睨みつけた。

 

「大体貴様が魔法陣を準備するのが遅すぎるのだ」

 

 床一面に描かれた複雑な紋様は淡く光り、空気には焦げたようなマナの匂いが漂っていた。

 

「今回必要な爆発は規模が違いやすからねえ」

 

 魔法使いは手を止めず、どこか気の抜けた口調で答えた。

 

「通常の魔法陣1つでは、あっしのマナではとても依頼通りにはいきやせん。なので——相克魔法陣というやり方を使わせていただきやした」

 

 その言葉に、ファスは眉をひそめた。

 

「相克魔法陣? なんだそれは」

 

 魔術師はようやく手を止め、床に描かれた紋様を杖の先で軽く叩いた。

 

「中心の魔法陣とは別に5つの魔法陣で囲い、互いが作用しあい、威力を何倍にも——術者によっては何十倍にも高められるものでさあ」

 

 魔法陣がまるで呼応するかのように、中心の陣が低く唸るような振動を発した。空気が重く沈み込み、地面の砂がわずかに跳ねる。

 

「この魔法陣を書ける者は滅多にいないんですぜ?」魔術師は口の端を上げ、誇らしげに胸を張る。

 

「まあ、あっしはかなりの経験値を持つ魔術師ですからねい」

 

 ファスは腕を組んだまま、光を増していく魔法陣を見下ろした。

 

「それにこの魔法陣は、基本的に平坦な開けた場所で組みやす。今回みたいに鉱山の中という特殊な条件下じゃあ、話がまるで違いやす。隠れながらの作業で、魔法陣も見つからないようにしないといけやせん」

 

 岩壁に刻まれた補助陣は、ぱっと見ではただの採掘跡にしか見えない。だが一定の角度から光が差すと、線と線が繋がり、六重構造の相克式が浮かび上がる仕組みだった。

 

「試行錯誤して完成させやした」その声音に、わずかな疲労が滲む。

 

「まぁ、何度か失敗した分の証拠隠滅で、崩落事故を起こしちまいましたがねぇ。人死にが出なかったのが救いでさぁ。後味がよくないんでねい」

 

 一瞬だけ、魔法使いの視線が暗がりへ落ちた。崩れた支柱の軋み、土煙——それらを振り払うように、彼は再び口元を吊り上げた。

 

「それでも、ここまでの相克魔法陣を作れるのは中々いないって自負しておりやす」

 

「分かった分かった」ファスはうんざりしたように手を振った。

 

「能書きはいい。制御を誤るなよ。次に崩れるのがこの坑道とは限らんのだからな」

 

 低く釘を刺すと、彼は出口の闇へと視線を向けた。

 

「そろそろ指示された時間だ」

 

 ファスが低く呟き、カールの方へ歩み寄った。

 

「カールよ、貴様は触媒となり、この鉱山と共に眠るがいい」

 

 そう言うと、ファスはナイフを取り出した。


 エメラ達はそれを見て、岩陰から飛び出した。

 

「貴様らは!」

 

 ファスが驚いた様子でこちらを向き、ナイフの矛先を変える。

 

 ダンテがいち早く飛びかかった。牙がナイフを持った手に食い込む。鋭い牙が皮膚を貫き、ファスが息を呑んだ。

 

「絡みつけ、地這い蛇!」

 

 エメラが瞬時に術を発動させた。無数の蛇たちが形を成し、ファスと魔法使い目掛けて飛びかかる。緑の光が暗い洞窟を走り、壁に影が踊った。

 

「カール!」

 

 ガレスは全力で駆け出し、身を挺してカールを抱き寄せた。勢い余って2人とも地面に転がる。

 

「くそっ、この魔獣め!」

 

 ファスは噛まれた右手を庇いながら距離を取ろうとした。エメラが放った地這い蛇がファスと魔法使いの足元に絡みつく。だが、ファスは素早く剣を抜き、蛇を斬り払った。魔法使いの男も、懐から炎を宿した札を取り出し、蛇たちを焼いていく。

 

「ちっ、しぶといな!」

 

 エメラが歯噛みした瞬間、魔術師が手を振りかざした。魔法陣が空中に浮かび上がり、火球がダンテ目掛けて放たれる。

 

「ダンテ!」

 

 エメラの叫びが響いた。火球はダンテの小さな体を直撃した。ダンテは悲鳴を上げて地面に叩きつけられ、転がる。黒い毛並みの一部が焦げ、白煙が上がった。

 

「ダンテ! 大丈夫!?」

 

 エメラが駆け寄ろうとした。だがファスと魔術師はその隙にさらに距離を取り、鉱山の奥へと後退していく。

 

「旦那、今のうちに!」

 

 魔術師が地面に札を投げつけた。複雑な魔法陣が浮かび上がり、不気味な光を放ち始める。

 

「転移の準備だ! あとは触媒さえあれば……」

 

 ファスの目がカールに向けられた。

 

「ガレスさん、カールから離れないで!」

 

 エメラが叫んだ瞬間——カールの体が硬直した。

 

 虚ろだった瞳に、一瞬だけ苦痛の色が浮かぶ。

 

「カール? どうした、カール!」

 

 ガレスが必死に呼びかけるが、カールはゆっくりと立ち上がった。そして——ガレスの腕を、振り払った。

 

「カール!?」

 

 ガレスが呆然とする中、カールはふらふらとした足取りで、魔法陣の中心へと歩いていく。操り人形のように、自分の意志など欠片もないように。

 

「やめろ、カール! 戻ってこい!」

 

 ガレスが追いかけようとした瞬間、エメラが彼の肩を掴んで止めた。

 

「待って! 魔法陣に近づいたら——」

 

 その時だった。

 

 ファスが懐からもう一本のナイフを取り出し、躊躇なく投げつけた。

 

 ナイフはカールの肩に深々と突き刺さった。

 

「カール!!」

 

 ガレスの絶叫が炭鉱内に響いた。音が岩壁に反響し、何度も繰り返された。

 

 カールの血が地面に滴り、魔法陣に吸い込まれていく。魔法陣が激しく明滅し始めた。同時に、ファスと魔法使いの足元にも別の魔法陣が浮かび上がる。

 

「転移準備完了ですぜい、旦那!」

 

 2人の体が光に包まれ始めた。

 

「貴様らに残された時間は10分だ」

 

 ファスが転移の間際、冷たい笑みを浮かべて言い放った。

 

「せいぜい残りの生を噛みしめるがいい」

 

 光が弾け、ファスと魔法使いの姿が消えた。

 

 後に残されたのは——激しく明滅する魔法陣と、その中心で血を流しながら立ち尽くすカール。そして、絶望に顔を歪めるエメラとガレス、地面に転がるダンテだけだった。

 

 地面が揺れ始める。天井から小石が落ちてくる。


 「ダンテ、大丈夫か」

 

 エメラはダンテに駆け寄った。膝をついて、焦げた毛並みに手を当てる。

 

「ああ、とっさのことで躱す余裕がなかったがダメージは少ない」

 

 ダンテは小さく身を震わせながらも、エメラを見上げた。

 

「全くこの体はだめだな、戦闘の勘が鈍っている」

 

「それよりもエメラ、カールと魔法陣が! 時間も10分しかない!」

 

「分かっている。ダンテはあいつらを追ってくれ。まだ仲間が待ち構えているかもしれないから、追うだけでいい」

 

「分かった」

 

 ダンテは言うや否や駆け出した。

 

「地這い蛇よ、ダンテについていけ」

 

 エメラが命じると、地這い蛇が数匹ダンテの後ろをついていく。

 

「残していった転移の魔法陣にマナを通すぞ!」

 

 エメラが杖に力を込め、トン、と魔法陣をついた。光が弾け、ダンテと地這い蛇の姿が消える。

 

 静寂が、一瞬だけ落ちた。

 

 エメラは魔法陣の中心に立つカールを見据えた。魔法陣は不気味な光を放ち続け、地面の揺れは徐々に強まっている。天井からパラパラと砂が落ちてくる。

 

「ガレスさん、少し荒っぽいやり方になります。カールさんが暴れないように、押さえつけておいてください」

 

「! あ、ああ、分かった」

 

 ガレスはカールを羽交い絞めにした。カールは虚ろな目のまま、されるがままになっている。まるで人形のように。

 

「すみませんカールさん、ひとまず血を止めさせていただきます。樹受再生」

 

 エメラが術を唱えると、淡い光がカールを包み、傷口をやさしく塞いでいく。完全な治癒には程遠いが、出血は止まった。マナが削れていくのが分かる。今使える分は、節約しなければならない。

 

「時間がありません。ガレスさん、カールさんを魔法陣に寝かせてください」

 

「わ、分かった」

 

「カールさんを触媒として魔法陣が起動したため、逆にカールさんを触媒にして魔法陣を止めます」

 

「そんなことをしてしまったらカールは死んじまうんじゃないのか!?」

 

 ガレスが怒気を孕んだ声で問い詰めた。その目が、エメラをまっすぐに見ている。

 

「……大丈夫です。そのようなことには絶対ならないようにします。しかしカールさんの体にマナを通さないといけないため、体に負担がかかってしまいます」

 

 エメラは真剣な眼差しでガレスを見つめた。

 

「でも、この方法なら解除するために仕掛けられたトラップを全て通り越して止めることができます」

 

「体に負担って……どれくらいだ」

 

 ガレスの声が震えた。

 

「カールさんの体に僕のマナを通すので……正直、分かりません。カールさんの体力次第です。でも——今はこれしか方法がありません。時間がないんです」

 

 エメラの声は穏やかだったが、その底に揺るぎない確信があった。

 

 ガレスは唇を噛みしめた。横たわるカールは、相変わらず虚ろな目でただ天井を見つめているだけだ。

 

 地面が再び大きく揺れた。天井から大きな岩が落ち、近くの地面に激突する。砂埃が上がった。

 

「……分かった。やってくれ」

 

 ガレスは苦渋の決断を下した。その声は、固かった。

 

「カール、すまねぇ。耐えてくれ」


 エメラは深く息を吸い込んだ。

 

 目を閉じる。鉱山の揺れを、魔法陣の脈動を、ガレスの息遣いを、全部感じながら、その中心に意識を置く。杖がゆっくりと光を放ち始め、その光がカールに向けて進んでいく。白い光がカールの全身を包んだ。

 

 そして——光が、カールの体内に入っていく。

 

「ぐ、があああああああ!!」

 

 カールが突然、苦しみを伴う叫び声を上げた。虚ろだった瞳に初めて感情が宿る——それは激しい苦痛だった。体が激しく痙攣し、暴れ始める。

 

「カール!」

 

 ガレスがカールの背中から羽交い絞めにして、必死に抑え込む。

 

「カールよ、俺だ、分かるか!? しんどいかもしれんが心配するな、俺がついているぞ!」

 

 ガレスの声が震える。カールの体は尋常ではない熱を帯び始めていた。

 

「カール! 聞こえてるか! お前は一人じゃねぇ!」

 

 カールの腕が激しく振り回される。ガレスの頬に肘が当たり、鈍い痛みが走った。だが、ガレスは腕を緩めない。歯を食いしばり、全体重をかけて押さえ込む。

 

「思い出せ、カール! お前と俺は一緒に働いてきたんだ! 炭鉱で、毎日毎日、肩を並べて!」

 

 カールの叫び声が一段と激しくなる。エメラのマナがカールの体内を巡り、魔法陣との繋がりを逆流させていく。

 

「覚えてるか!? お前が初めて炭鉱に来た日のこと! 怖がってたお前に、俺が声をかけたんだ! 『大丈夫だ、すぐに慣れる』ってな!」

 

 ガレスの目に涙が滲んだ。

 

「それから、お前の娘が生まれた時! あんなに嬉しそうな顔、俺は忘れちゃいねぇ! お前は『この子のためにも頑張る』って言ったんだ!」

 

 カールの体が一瞬、ぴくりと反応した。

 

「そうだ、カール! お前には帰る場所があるんだ! 家族が、娘が待ってるんだ! だから、耐えてくれ! お前は強い! 俺が一番よく知ってる!」

 

 ガレスは力を込めてカールを抱きしめた。

 

 エメラは目を閉じたまま、集中を切らさない。額に汗が滲む。杖を持つ手が小刻みに震えている。全身のマナが削れていくのが分かった。底が見えてくる感覚。それでも止めない。止められない。

 

 魔法陣の光が激しく明滅した。不気味な音が高まり、まるで悲鳴のように響く。

 

 カールを押さえつけながら、ガレスもとてもつらそうな表情をしていた。魔法陣に流れたマナの余波がガレスにも流れているのだろう。それでも泣き言は一切言わず、ひたすらカールに呼びかけ続ける。

 

「カール……カール! 諦めるな! もう少しだ!」

 

 ガレスの声は枯れかけていた。

 

 カールの叫び声は止まらない。だがその中に——かすかに、言葉になりかけた何かが混じった気がした。

 

 地面の揺れがさらに激しくなった。振動で天井からパラパラと岩の破片が落ちる。

 

「頼む、カール……生きてくれ……!」

 

 ガレスの祈るような声が、轟音の中に消えていった。

 

 その時、カールの体内に入った光が押し出され——辺り一面が輝いた。

 

 と同時に、魔法陣は効力を失ったように光を失い、低く唸りを上げるような音も、ぴたりと止んだ。

 

 静寂が、洞窟に満ちた。


 「ハァ、ハァ……」

 

 エメラは肩で息をし、杖で体を支えた。膝が笑っている。意識を保つのに、少し力がいった。

 

 カールはぴくりとも動かなくなった。

 

 ガレスがゆっくりと顔を上げる。

 

「爆発は……止まったのか?」

 

 カールに懸命に声をかける。

 

「カール? カール!?」

 

「う……」

 

 カールからかすかに声が漏れた。

 

「カール! カール!! しっかりしろ!」

 

 ガレスの目からは涙が滲んでいた。

 

「聞こえているぜ、ガレス。耳元で騒ぐからあの世から追い出されちまったじゃねえか」

 

 カールの声だ。どうやら体はまだ動かせないようだが、意識ははっきりしているようだった。声のトーンが、さっきとは全く違う。人間の声だ。

 

 ガレスの目から涙が零れた。大きな手で、目元を拭う。

 

「へっへっ、変わらねえ減らず口だ。どうせお前があの世で悪態つくから追い出されたんだろうよ」

 

 そう言って、くしゃくしゃな笑顔を向けた。

 

「エメラの旦那、魔法陣は? 鉱山はどうなった?」

 

 エメラは少し呼吸を整えてから答えた。

 

「魔法陣は停止することができました。こちらからマナを逆流させて止めたので、もうこの魔法陣は使い物にならないでしょう」

 

「そいつはよかった……ぐっ」

 

 カールが顔を歪めた。

 

「俺の体もガタがきているようだな」

 

 ガレスも息を荒げていた。羽交い絞めにして押さえていた際に、魔法陣に流れたマナの余波が、ガレスにもダメージを与えていたのだろう。

 

「俺はこれからダンテ達に追いつこうと思っています。ガレスさんはカールさんを鉱山から脱出してください。頼めますか?」

 

「ああ、まだすぐは体が動かせねえが、少し休んだら町に戻る。グレゴールさんにもカールのことを早く伝えてやらねえとな」

 

「俺も大丈夫だ。少し休んだら体は何とか動くだろう」

 

 カールが弱々しい声ながらも伝えた。

 

「今から戦闘になる可能性が高いため、マナは節約しなければなりません。お2人には薬草を渡しておきます」

 

 エメラは懐から薬草の束を取り出し、ガレスに手渡した。

 

「後は任せてください」

 

 エメラは決意を秘めた口調で2人に伝えた。

 

「すまねえ。一刻も早く町に戻って応援を呼んでくる」

 

「エメラさんと言ったかな。あんたのおかげで死なずに済んだ」

 

 カールが小さく笑った。疲れ果てた顔の中に、確かに人間らしい表情が戻っている。

 

「全部解決したら奢らせてくれや」

 

「バカかお前は。酒よりまず体を治しやがれ」

 

 ガレスがカールの頭を軽く叩く。2人の声の間に、温かいものが流れていた。長い年月、同じ場所で働いてきた者同士の、言葉にならない何かが。

 

 エメラはその二人を見て、ニコリと笑顔を向けた。

 

 それから、魔法使いが残していった転移の魔法陣へと向かった。杖を構える。残っているマナを確かめる。足りるかどうか分からない。それでも、行かなければならない。

 

「いってきます」

 

 そう言い残すと、光が弾けた。

 

 エメラの姿が消える。

 

 後に残されたガレスとカールは、しばらくの間、静かな洞窟の中でお互いの息遣いを聞いていた。遠くで岩の落ちる音がして、それからまた静かになった。

 ガレスは大きな手でカールの肩を掴み、ゆっくりと支え起こした。

 

「立てるか」

 

「……ああ」

 

 2人は、体を支えあいゆっくりと立ち上がった。

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