1章-2 鉱山の秘密
翌朝、部屋の窓から差し込む朝日が、エメラの顔を照らした。
ゆっくりと目を開ける。天井の木目が、最初はぼやけていて、やがて輪郭を取り戻していく。昨日の落盤事故での救出劇で使ったマナの疲労が、まだ体の奥底に沈んでいた。肩が重く、指先が微かに痺れている。眠ったはずなのに、深いところで何かが消耗したままだ。マナの疲れは、体の疲れとは少し違う。睡眠では完全には癒えない。
それでも、エメラは体を起こした。
緑のコートを手に取り、袖を通す。長年の旅で体に馴染んだ生地が、肌に柔らかく触れた。フードを軽く直してから、ベッドの方を見る。
ダンテはベッドの中央で丸くなっていた。漆黒の毛並みが朝日を受けて、わずかに青みがかって見える。小さな体が規則的に上下し、時折、耳がピクリと動く。夢でも見ているのだろう。なんの夢だろうか。エメラはしばらく眺めてから、声をかけた。
「ダンテ、起きろ」
ダンテは動かない。
「ダンテ」
少し声を大きくした。今度は耳が動いた。それから、片方の目だけがゆっくりと開く。琥珀色の瞳が、眠そうにエメラを見た。
「……んん」
ダンテは小さく鳴いた。
「まだ早い」
「もう8時だぞ」
エメラは窓の外を指差した。街はすでに目覚めていて、通りを行き交う人々の声が、窓越しに聞こえてくる。
「俺にとっては早い」
ダンテはもう一度目を閉じ、尻尾でベッドをぱたりと叩いた。
「グレゴールさんが9時に来いって言ってた」
「じゃあまだ1時間ある。寝かせろ」
ダンテは丸まり直し、完全に寝る体勢に入った。エメラは溜息をついた。こうなると、骨が折れる。
エメラは立ち上がり、ベッドに近づいた。そして、躊躇なくダンテを両手で抱き上げた。
「おい! 何すんだ!」
ダンテは驚いて目を見開き、四本の足をばたばたと動かした。だがエメラの手は、しっかりとダンテを掴んでいる。
「起きろ猫。顔を洗って来い」
エメラは淡々と言った。
「俺は猫じゃない!」
「そうだな猫じゃない。魔獣だ」
「魔獣も洗わない!」
声が少し高くなる。エメラはダンテを抱えたまま、窓の方に歩いた。そして、ダンテを窓の外に向けた。
3階の高さだ。眼下に石畳が見える。エメラは当然、本当に落とすつもりはない。だが、ダンテにとっては十分な脅しになるらしい。
「ちょっと待て! 分かった! 起きる! 起きるから!」
ダンテは慌てて言った。尻尾がぴんと立ち、毛が逆立っている。
エメラは小さく笑って、ダンテを床に下ろした。ダンテは着地すると、すぐに体を伸ばした。前足を突き出し、背中を反らせ、大きなあくびをする。鋭い牙が一瞬覗いて、それからゆっくりと閉じた。
「お前、いつからこんな鬼になったんだ」
ダンテは不機嫌そうに言いながら、顔を前足で撫でた。
「お前を起こすには、これくらいしないとダメだって学んだんだよ」
エメラは荷物を確認しながら答えた。水筒、地図、少しの食料。全て揃っている。
ダンテは床の上で毛繕いを始めた。黒い毛を丁寧に舐め、整えていく。その仕草は、確かに猫のようだった。だが、時折見せる鋭い眼差しや、人間の言葉を操る知性が、ダンテがただの猫ではないことをはっきりと物語っている。
2人は身支度を整えて、部屋を出た。
階段を降りる音が木造の建物に響く。一階のロビーでは、女将が掃除をしていた。箒を動かすたびに、埃が朝日の中で小さく舞い上がった。
「おはようございます」
エメラが挨拶すると、女将は笑顔で振り返った。
「あら、おはよう。もう出かけるの?」
「はい、少し用事があって」
「朝食は?」
「そうですね……食べたいので用事を済ませてから後で戻ってきます」
「そう、わかったわ、気をつけてね」
女将は手を振った。その手には、まだ箒が握られている。エメラとダンテは宿を出た。
外に出ると、朝の冷たい空気が頬を撫でた。
エメラは深く息を吸った。空気は清々しく、木と土の匂いがした。山の街の朝の匂いだ。昨夜の雨で湿った石畳が、朝日を受けて鈍く光っている。水たまりが所々に残り、空を映していた。
朝の街は活気に満ちていた。石畳の通りには、すでに多くの人々が行き交っている。商人が荷車を押し、職人が工房の扉を開け、主婦が市場へ向かう。子供たちの笑い声が路地から響き、どこかで犬が吠えた。
パン屋の前には長い行列ができていた。焼きたてのパンの香ばしい匂いが、通り全体に漂っている。その匂いだけで、腹が鳴りそうだった。
「いい匂いだな」
エメラの肩に飛び乗ったダンテが、鼻をひくつかせながら言った。
「帰りにパンを買おう」
「本当か? 約束だぞ」
ダンテの尻尾が嬉しそうに揺れた。
「ああ」
エメラは頷き、広場の方へ歩き始めた。
鉱山組合の事務所は広場の近くにあった。2階建ての石造りの建物で、しっかりとした造りをしている。壁は古いが、手入れが行き届いていた。入り口の上には木製の看板が掛かっており、丁寧な文字で『ヴェルディア鉱山組合』と書かれていた。
エメラは深呼吸をしてから、扉をノックした。
コン、コン、コン。乾いた音が響く。
「入れ」
グレゴールの低い声が聞こえた。
事務所の中は薄暗かった。窓から差し込む朝日が、浮遊する埃を光の筋の中に浮かび上がらせている。部屋の中央には大きな木製の机があり、その周りに椅子が並んでいた。壁の棚には書類や帳簿がぎっしりと詰まっている。紙と木とインクの混ざった、古い記録の匂いがした。この部屋に積み重なった年月の分だけ、鉱山の歴史がある。
グレゴールは机に座っていた。昨夜より顔が疲れている。深い皺が刻まれ、目の下には隈がある。よく眠れなかったのだろう。それでも、エメラが入ってくると顔を上げ、小さく笑った。
「おお、来てくれたか。早いな」
「おはようございます」
「座ってくれ」
グレゴールは机の向かいの椅子を指差した。エメラは頷き、腰を下ろした。体重をかけた瞬間、椅子がギシッと軋む。長年使われてきた椅子だ。座面は滑らかに磨かれ、背もたれには年月の痕跡が残っている。
ダンテはエメラの肩から机の上へと音もなく飛び移った。羽毛のように軽やかな着地だった。地図の横、グレゴールの手が届かない程度の距離に落ち着くと、前足を揃えて座り、背筋を伸ばし、尻尾を体に巻きつけた。完璧な座り姿勢で、琥珀色の瞳がじっとグレゴールを見つめる。
「おい、猫」
グレゴールが笑った。深い皺が顔に刻まれ、目尻が下がる。
「行儀がいいな」
ダンテの耳がぴくりと動いた。
「猫じゃない。魔獣だ」
即座に訂正する。尻尾の先が、小さく揺れた。
エメラは内心で苦笑した。何度言われても、一向に慣れる気配がない。魔獣としてのプライドは、骨の髄まで刻まれているらしい。
グレゴールは謝ったが、その顔には笑みが残っていた。悪気はないのだろう。ただ、ダンテの見た目が可愛らしいので、つい。そう思っているに違いなかった。
「それで、鉱山の調査の件なんだが。国にも依頼を書けておるが、まだ何も返答がないので困っておった。依頼を受けてくれて助かったわ」
グレゴールは視線を机の上の羊皮紙に落とした。そこには大きな地図が広げられていた。インクで描かれた線や記号が複雑な模様を作っている。鉱山の地図だ。
「これが鉱山の地図だ。坑道は3つある。北坑道、東坑道、南坑道だ」
地図には、3本の太い線が描かれていた。街の北側から山の中へと伸び、途中で細かく枝分かれしている。線の周りには小さな文字で注釈が書き込まれていた。深さ、幅、支柱の位置、鉱脈の場所。長年の記録が、この一枚の羊皮紙に凝縮されている。
エメラは地図を見つめた。3本の線は、まるで木の根のようだ。地中深くに伸び、養分を求めて広がっていく根。そう考えると、何か象徴的なものを感じる。
「どこで落盤が起きたんですか?」
「昨日は北坑道だ」
グレゴールは北の線を、指でゆっくりとなぞった。入り口から奥へ、約五十メートルほどの地点で指が止まる。
「先週は東坑道で2回、南坑道で1回」
指が次々と地図上の点を示す。東坑道の入り口近くと最深部、南坑道の中央付近。
「場所はバラバラなんですね」
エメラは地図を見つめた。落盤の場所に規則性は見られない。もし構造的な問題なら、同じ箇所、あるいは近い箇所で起きるはずだ。だがこの配置には、何の法則性もない。
「ああ。それが不自然なんだ。もし構造的な問題なら、同じ場所で起きるはずだ」
グレゴールの声には、深い困惑が滲んでいた。長年鉱山を管理してきた者にとって、この状況は理解しがたいのだろう。鉱山のことなら何でも知っている。支柱の位置、岩盤の強度、地下水の流れ。全てを把握している。だからこそ、この不可解な落盤が恐ろしいのだ。
ダンテが地図に顔を近づけた。小さな鼻が羊皮紙の表面すれすれまで近づき、ひくつく。インクの匂い、羊皮紙の匂い、それに触れた人々の匂い。様々な情報を読み取っているのだろう。
「坑道の深さは?」
「北と東は最深部で約1000メトル、南は650メトルだ」
「誰が管理してるんですか?」
「各坑道に責任者がいる。北はガレス、東はオズワルド、南はフィンだ。みんな長年の経験者だ」
グレゴールは3人の名前を、まるで家族の名前を呼ぶように言った。声の調子が変わり、温かみが増す。彼らは単なる部下ではない。共に鉱山で働き、苦楽を共にした仲間なのだ。
「彼らに不審な点は?」
エメラの質問は慎重だった。人を疑うことは、決して気持ちの良いものではない。だが、真実を知るためには、あらゆる可能性を探らなければならない。
「いや、みんな真面目な男たちだ。裏切るとは思えん」
グレゴールは首を振った。その動きには、絶対的な信頼が表れていた。
「じゃあ、外部の人間か」
エメラは腕を組んだ。内部の人間でないなら、外から来た誰かが鉱山を狙っている。だが、それは誰なのか。なぜそんなことをするのか。
「その可能性が高い」
グレゴールは顔を曇らせた。深い溜息をつき、窓の外を見た。窓の向こうには、平和な街の風景が広がっている。その平和を、誰かが脅かそうとしている。
「だが、なぜそんなことをするのか、見当もつかん」
「利益か、復讐か」
ダンテが淡々と言った。尻尾が机の表面をトントンと叩く。考えている時の癖だ。
「復讐?」グレゴールが眉をひそめた。
「誰かが鉱山組合を恨んでるとか」
ダンテの琥珀色の瞳が、じっとグレゴールを見つめた。まるで心の中を見透かそうとするような、鋭い視線だ。
グレゴールは黙り込んだ。老人の顔に、様々な表情が浮かんでは消える。記憶を辿っているのだろう。長年の鉱山経営の中で、誰かを傷つけたことがあっただろうか。誰かを怒らせたことがあっただろうか。
事務所の中に、沈黙が降りた。時計の音だけが規則的に響いていた。カチッ、カチッ、カチッ。秒針が進む音だ。
エメラは待った。急かすことはしない。グレゴールが自分で思い出すまで。
ダンテも動かない。石像のように、じっとグレゴールを見つめている。
やがて、グレゴールが口を開いた。
「心当たりはないが……」
呟く声は小さく、自信がなさそうだ。それから、何かを思い出したように目を見開いた。
「いや、待てよ」
突然、声の質が変わった。何かを掴んだような確信の響きだ。
「何か?」
エメラが身を乗り出した。椅子が軋む。
グレゴールは深呼吸をした。胸が大きく上下し、それからゆっくりと話し始めた。
「半年前、1人の鉱夫を解雇したことがある。名前はカールといった」
グレゴールの声が、少し沈んだ。老人の顔に影が落ちる。目が遠くを見つめ、過去の出来事を辿っているようだ。
「なぜ解雇したんですか?」
「盗みですよ」
突然、後ろから男の声がした。
3人は驚いて声がした方を振り返る。扉のそばに、細身の男が立っていた。いつの間に入ってきたのか。気配がなかった。背が高く、きちんと整えられた服を着ている。書類を小脇に抱えており、いかにも事務仕事の人間という風体だ。
「失礼、来客中とは知らずにドアを開けてしまいまして」
男は軽く頭を下げた。言葉は丁寧だが、その目はどこか値踏みするようにエメラを見ていた。
「ファスと申します。この組合の経理を一任されております。カール氏の解雇の際に私も現場にいましたので、思わず口に出てしまいました」
そう言いながら、ファスはすでに部屋の中央まで歩を進め、グレゴールの後ろへと立っていた。自然な動きだったが、エメラは何かが引っかかった。来客中と知らなかったにしては、随分と迷わず入ってきた。
「ファスよ、軽々と口を挟むな」
グレゴールは我慢しているのだろうが、表情にはいら立ちが見えた。老人にしては珍しい、剥き出しの感情だった。
「エメラ殿、今お聞きした通りだ。私が思う心当たりは1つだけある。盗みだ。鉱石を隠し持って持ち出そうとした」
グレゴールは机に両手をついた。節くれだった指が、羊皮紙の地図を掴む。その手が、わずかに震えていた。
「それは確実なんですか?」
人を疑うことは簡単だ。だが、冤罪の可能性もある。一度貼られたレッテルは、簡単には剥がせない。
「ああ、現場を押さえた」
グレゴールは頷いた。その動きには、迷いがない。
「ありきたりですが、盗んだ理由は聞いたんですか?」
「それは……」
グレゴールが言葉に詰まると、ファスが横から口を挟んだ。
「盗みをする者の大半は金です。そのような者の弁明を聞いても時間の無駄なのですよ。彼は即日解雇とさせていただきました。解雇の際も歯を食いしばりながら恨み言を何かつぶやいていましたよ」
「余計な口を挟むなと言ったはずだ!」
グレゴールから怒号が飛んだ。静かな事務所に、老人の声が想像より大きく響く。
「私が客人と話しておるのだ。ファスよ、今お主は同席しなくてよい。席を外せ」
怒気を含むが、声は冷静だった。
「し、失礼いたしました」
ファスは頭を下げ、逃げるように部屋を後にした。扉が閉まる。その足音が廊下を遠ざかるのを、エメラは耳で追った。
エメラは肩の上のダンテと、一瞬だけ目を合わせた。ダンテの耳は前に向いていた。考えている時の姿勢だ。
「エメラ殿、お見苦しいところをお見せして申し訳ない」
「ファスは優秀なのだが、度々それをひけらかす癖があっての」
「他者を見下ししてしまうのもあるのじゃ、なので奴は接客には向かんでな」
「はは」
エメラはこのやりとりに乾いた笑いで答える。心情はどちらかというとどうでもいいという感情が強いのかもしれない。
グレゴールの目に、後悔の色が浮かんだ。
「カールは……良い働き手だった」
グレゴールは静かに言った。
「真面目で、力持ちで、鉱山のことをよく理解していた。だからこそ、あの時は信じられなかった。なぜ、あんなことをしたのか」
「今となっては、ちゃんと弁明を聞いておけばよかった。金に困っていたのか、それとも他に理由があるのか」
エメラは黙って聞いていた。グレゴールの声には、痛みがある。信頼していた者に裏切られる痛み。それはどんな時代でも、人間にとって最も辛い経験の1つだ。
ダンテが小さく鳴いた。普段は皮肉屋のダンテも、この老人の苦悩を感じ取ったのだろう。
エメラとダンテは目を合わせた。一瞬の、しかし密度の濃い視線の交換。
怪しい、とダンテの琥珀色の瞳が言っている。耳が前に向き、尻尾が静止している。警戒の姿勢だ。
エメラも同じ考えだった。カールは、今のところ最も疑わしい人物だ。動機がある。組合を恨んでいる。だが、まだ確証はない。
「そのカール、今どこにいるか分かりますか?」
「いや、街を出て行ったと聞いた。どこに行ったかは知らん。誰も、彼の行き先を知らない。消えたんだ。この街から」
「見た目の特徴は?」
エメラはコートの内ポケットから、小さなペンと紙を取り出した。旅の記録をつけるために、いつも持ち歩いているものだ。紙を膝の上に置き、メモを取る準備をした。
グレゴールは目を閉じ、記憶を辿った。1年前の記憶。カールの顔。体格。服装。
「背が高くて、痩せている」
グレゴールはゆっくりと話した。
「180センチメトルはあっただろう。だが、かなり痩せていて体重は軽かった。60キロもなかったかもしれない」
エメラはペンを走らせた。
「髪は黒く、長かった。いつも後ろで縛っていた。顔は……痩せていて、頬骨が高い。目は暗い色だった。茶色か、黒か」
「それに、左腕に火傷の跡があった」グレゴールの声が、少し低くなった。
「古い火傷だ。鉱山での事故で負ったものだと聞いた。大きい。肘から手首まで、赤黒く変色していた。皮膚が引きつれて、動かしにくそうだった」
「どんな様子でしたか?」エメラが訊いた。
「痛々しかった。だが、カールはそれを気にしていないようだった。むしろ、誇りにしているようにさえ見えた」
「誇り?」ダンテが首を傾げる。
「ああ。カールは、その火傷を隠そうとしなかった。いつも腕をまくって働いていた。『これは鉱山の勲章だ』と言っていた」
「鉱山の勲章か。そう思っていた男が、なぜ盗みを働いたのか。今でも理解できん」
エメラはメモに最後の言葉を書き込み、紙を折りたたんでポケットにしまった。それから、椅子に深く座り直し、グレゴールを真っ直ぐ見つめた。
「分かりました。調べてみます。必ず、真実を明らかにします」
その言葉には、静かな決意が込められていた。穏やかな声だが、その奥に強い意志がある。
グレゴールは、エメラの目を見た。若い青年の目。だが、その瞳の奥には、老人よりも深い何かがある。
「頼んだぞ」グレゴールは立ち上がった。椅子が床を擦るギギッという重い音がした。
「必要なら、坑道に入ることもできる。責任者たちには話を通しておく。ガレス、オズワルド、フィン。3人とも、あんたたちに協力してくれるはずだ」
「ありがとうございます」エメラも立ち上がり、深く頭を下げた。ダンテは机の上からエメラの肩へと音もなく飛び移る。
「気をつけてな」
グレゴールは2人を見送った。その目には、心配と期待が混じっていた。
事務所の重い木の扉を開けると、外の明るさが目に飛び込んできた。エメラは一瞬目を細め、それから扉を静かに閉めた。背後で、蝶番が小さく軋んだ。
朝日はさらに高くなっていた。
街は完全に目覚めている。広場では市場の準備が始まっていた。赤いりんご、オレンジ色のかぼちゃ、緑の葉物野菜。朝日を受けた色彩が、宝石のように輝いている。
ダンテがエメラの肩の上で体勢を整えた。尻尾が軽くエメラの背中を叩く。
「一番はやはりカールが怪しいな」
ダンテの声は低く、考え込むような響きがあった。
「ああ。だが、まだ確証はない。それに……」
エメラは慎重に答えながら、もう一人の顔を頭の中で反芻していた。
ファスと名乗る男。
来客中と知らなかったにしては、随分と迷わず入ってきた。カールの話に、まるで自分が関わっていたかのように自然に割り込んだ。グレゴールの反応を見るに、普段からそういう人物らしいが——それにしても、あのタイミングは。
エメラはその考えを、まだ口には出さなかった。
「じゃあどうする?」
ダンテが前足でエメラの肩を軽く押す。急かすような仕草だ。
「まず、坑道を見てみよう。何か手がかりが残ってるかもしれない」
エメラは鉱山の方角を見た。街の北側、なだらかな斜面の途中に、鉱山の入り口が見える。暗い穴のように、山肌に開いている。
「了解」
ダンテは尻尾を大きく揺らした。毛が逆立ち、体が緊張している。戦闘態勢に入ったのだ。
「だけどエメラ、今もっとも重要なことが1つあるぞ」
ダンテが真剣な眼差しでエメラに伝える。その雰囲気に思わずエメラも真剣な目つきで返す。
「どうした?何か必要なものがあったか?」
「ああ、よく聞いてくれ」
「朝メシがまだだ」
「パンも買う約束だった、俺は憶えているぞ」
宿に戻り朝食をすませ、まずは鉱山の北の坑道へと向かう。
石畳の道を離れ、坂道を登る。道は次第に狭くなり、両側に草木が茂っていた。足元には小石が転がり、土が露出している。
一歩、また一歩。
踏み出すたびに、足元の草に変化が起きた。エメラが踏んだ場所の草が、みるみるうちに青々と茂る。枯れかけていた草が生き返り、新しい芽が顔を出す。まるで、エメラの足跡が生命を吹き込んでいるかのようだ。
エメラは慌てて意識を集中させ、能力を抑えた。体内を巡るマナの流れを意識的に制御する。草の成長が止まり、元の状態に戻った。
「また出てるぞ」
ダンテが呆れたような声で指摘した。
「気をつける」
エメラは小さく笑った。自分でも滑稽だと思う。一族の最後の1人だというのに、まだ能力を完璧に制御できないとは。
だが、それはエメラの力が強大すぎるからでもあった。木属性は、生命そのものを操る力だ。意識しなくても、周囲の植物に影響を与えてしまう。特に、感情が高ぶった時や、疲れている時は制御が難しい。
坂道は次第に急になっていった。エメラの呼吸が少し荒くなる。昨日のマナの使いすぎが、まだ響いているのだ。
歩きながら、エメラは昨日の落盤事故を思い出していた。あの時、彼は必死で魔術を使った。人々を救うために。崩れた岩を押しのけ、根を伸ばし、空間を作った。
街の人を助ける瞬間、エメラの中で何かが燃えた。正義感か、使命感か。あるいは、贖罪の思いか。
エメラはかつてこの力の制御に失敗し、そのせいで多くの命が犠牲になった。その中には、共に肩を並べた友もいた。力の巨大さ、若さゆえの未熟さ——そんなものは理由にならない。その罪は、決して消えることはない。
だからこそ、エメラは人々を救おうとする。1人でも多く。1つでも多くの命を。それが、彼にできる唯一の贖罪だから。
だが——。
もし、あの時、力がさらに暴走していたら。制御を失い、さらなる災害を引き起こしていたら。
背筋に、冷たいものが走った。
「おい、エメラ」
ダンテの声が、エメラを現実に引き戻した。
「どうした? 顔色が悪いぞ」
「いや、何でもない」
エメラは首を振った。今は、そんなことを考えている場合ではない。
「本当か? 無理してないか?」
ダンテの声には、普段の皮肉めいた調子がなかった。本気で心配しているのだ。
「大丈夫だよ」
エメラは小さく笑って、ダンテの頭を軽く撫でた。柔らかい毛が、手のひらに触れる。
「お前が心配してくれるなんて、珍しいな」
「心配なんかしてない。お前が倒れたら、俺が困るだけだ」
ダンテは不機嫌そうに言ったが、尻尾は嬉しそうに揺れていた。
エメラは再び歩き始めた。
やがて、木々が途切れ、視界が開けた。
鉱山の入り口だ。
暗い穴が、山肌に口を開けている。昨日の崩落の痕跡が、まだ生々しく残っていた。粉塵が周囲に薄く積もり、散乱した岩の破片が足元に転がっている。人の命がかかっていた場所の、静かな事後だ。
入り口の脇には、小さな小屋があった。管理人の詰所だろう。煙突から煙が上がっており、中に人がいることが分かる。
エメラは小屋に近づいた。扉をノックしようとした時——。
「誰だ!」
鋭い声が響いた。
扉が勢いよく開き、一人の男が飛び出してきた。がっしりとした体格で、背丈は一般的な成人男性ほど。筋肉質の体に作業着を着ており、額には汗が光っていた。歳は40代だろうか。短い黒髪に濃い眉。鋭い目つきで、エメラを睨んでいる。
その手には、つるはしが握られていた。武器として構えているわけではないが、警戒しているのは明らかだった。
エメラは咄嗟に両手を上げた。敵意がないことを示す。ダンテも肩の上で動かない。
「驚かせてすみません」
エメラは穏やかな声で言った。
「私はエメラといいます。冒険者です。グレゴールさんに頼まれて、落盤の調査に来ました。あなたが、北坑道の責任者のガレスさんですか?」
「ああ、俺がガレスだ」
ガレスは額の汗を拭った。それからエメラとダンテをじっくりと見た。値踏みするような視線だ。
「グレゴールの旦那から聞いてたぞ。助っ人が来るって」
ガレスの声が、少し柔らかくなった。
「だが、まさかこんなに早く来るとは思わなかった」
「一刻も早く、原因を突き止めたいので」
ガレスは頷いた。それから、小屋の扉を開けた。
「最近、物騒でな。知らない奴が近づくと、つい警戒しちまう」
「分かります」
エメラは同情するように頷いた。昨日の事故の後だ。無理もない。
「中に入れ。話をしよう」
ガレスが先に入っていく。
エメラはその背中を追いながら、一瞬だけ鉱山の入り口を振り返った。暗い穴が、静かにそこにある。中に何があるのか。答えは、あの暗がりの中にあるはずだ。
ダンテの尻尾が、エメラの首筋にそっと触れた。
行くぞ、と言っているような気がした。
エメラは向き直り、小屋の中へと足を踏み入れた。




