1章ー1木漏れ日の守護者
山間の街・ヴェルディア。
朝靄が山肌を這うように、ゆっくりと流れていく。針葉樹の梢が白い霞に半ば溶け、鳥の声だけが澄んだ空気を切り裂いていた。石と土の入り混じった山道は、踏み固められた年月の分だけ滑らかで、しかし勾配はそれなりに急だった。エメラは荷物を背負い直しながら、緩やかになってきた坂道を登っていた。革のストラップが肩に食い込むたびに、わずかな痛みが足の疲れと混ざり合う。それでも足は止めない。止める理由がない。
肩の上では、漆黒の毛並みを持つ猫ほどの大きさの魔獣、ダンテが尻尾を揺らしている。揺れるたびにエメラの首筋をくすぐるが、慣れてしまった今では気にもならなかった。
「なあ、エメラ」ダンテが人間の言葉で話しかけてきた。声は低く、どこか喉を鳴らすような響きがある。
「もう3時間も歩いてるぞ。お前の足、そろそろ棒になってるんじゃないか?」
「大丈夫だ」エメラは苦笑しながら答えた。棒というよりは、感覚が少しずつ遠くなっている、というのが正直なところだったが、それをわざわざ言う気にはなれなかった。
「ヴェルディアまであと少しだろう。そうしたら宿で休める」
「休めるって言っても、お前また安宿を選ぶんだろう? ノミだらけのベッドで寝るのは御免だぞ」
「贅沢言うな。お前は昼間俺の肩で寝てるんだから関係ないだろう」
ダンテは鼻を鳴らした。不満と軽蔑が絶妙な割合で混ざった、あの鼻音だ。
「俺の鼻は敏感なんだ。安宿の匂いは50メートル先からでも分かる。カビと汗と絶望の混ざった、あの独特の香りがな」
エメラは思わず笑った。笑い声が朝の山道に溶けて、すぐに消えた。ダンテと旅を始めて3年。この魔獣の皮肉めいた物言いには慣れていたが、それでも時々、的確すぎる表現に笑わされる。絶望の匂い、というのは、おそらく比喩ではなく本当にそう感じているのだろうというのが、長年の付き合いで分かっていた。それがまた妙におかしい。
「じゃあ今回は少しマシな宿を探すよ。お前の鼻が許可するやつをな」
「それがいい。俺は質の高い睡眠を必要とする魔獣なんだ」
威厳たっぷりに言い放つダンテの尻尾が、のんびりと揺れる。エメラはもう一度、小さく笑って、前を向いた。
道は次第に平坦になり、やがて視界が開けた。思わず、足が止まる。
山の斜面に沿って、街が息づいていた。木造の家々が階段状に重なり、石畳の道が蛇のように街を縫っている。どの屋根も朝の光を浴びてほのかに光り、煙突からは細い煙が立ち上っていた。生活の煙だ。人が生きている証の、白い細い煙。ヴェルディア——森と山に囲まれた交易の要所。地図で見たときより、ずっと温かみのある場所に見えた。
「見えたぞ、ダンテ」
「ああ。見えるし、匂いもする」
ダンテが鼻をひくつかせた。その動きはわずかだが、エメラの首筋に微かな振動として伝わってくる。
「パンを焼く匂い、木材、それに……なんだ? 硫黄みたいな……いや、違うな。鉱石か?」
「ヴェルディアは鉱山の街でもあるからな。銅や鉄が採れる」
「ふうん。じゃあ金持ちの鉱山主がいるわけだ。奴らは大抵いい酒を持ってる」
「酒場に寄るのはいいが、トラブルは起こすなよ」
「俺がいつトラブルを起こした?」
「先週、港町で漁師の網に勝手に乗って、魚を食べただろう」
「あれはトラブルじゃない。ちょっとした誤解だ」
エメラは首を振りながら、街の門に向かって歩き出した。誤解、という言葉を使うたびに反省の色が微塵もないのが、また憎たらしくも可愛らしい。
街の入り口では、2人の衛兵が立っていた。1人は若く、もう1人は髭を蓄えた中年の男だった。夕方の巡回を終えたばかりなのか、中年の方はどことなく疲れた目をしていた。
「通行証と身分証を」
中年の衛兵が言った。声は低く、感情を込めない職業的な響きだった。
エメラは懐から革製の冒険者登録証と麓で購入した通行証を取り出して見せた。
「冒険者のエメラです。一泊か二泊、滞在する予定です」
衛兵は書類を確認し、それからダンテを見た。
「そいつは?」
「俺の相棒、ダンテです。魔獣ですが、登録済みです」
ダンテが尻尾を揺らした。
「よう、おっさん。俺は大人しく賢くて強くてかっこいい魔獣だ。心配するな」
衛兵は目を見開いた。日焼けした顔に、動揺が走る。
「喋った……」
「魔獣ですもん」
若い衛兵が笑った。先輩の反応が面白かったのか、口元が少しほころんでいる。
「珍しいけど、たまにいる。問題ないですよ、先輩」
中年の衛兵は咳払いをして、証明書を返した。咳払いは照れを隠すためのものだ、とエメラは長年の経験から知っていた。
「まあ、いい。トラブルは起こすなよ」
「善処します」
エメラは頭を下げて、街の中に入った。背中の向こうで若い衛兵がまだ笑っているのが、足音越しに伝わってくるようだった。
石畳の道は滑らかで、よく手入れされている。歩くたびに靴の底から固い感触が返ってきて、それが長旅の終わりを少しずつ実感させた。家々の窓からは洗濯物が干され、色とりどりの布が朝風にひらひらと揺れている。路地では子供たちが歓声を上げ、老犬が日向で目を細めていた。市場の方からは人の声と、野菜を切るような乾いた音が混ざり合って聞こえてくる。
「いい街じゃないか」
ダンテが言った。その声には珍しく、素直な感嘆が混じっていた。
「活気がある」
「ああ。ここなら安心して休める」
エメラも気に入ったようだ、と自分で思いながら、その感覚の正体を探った。活気があるのに、騒がしくない。生活の音がある。それだけのことなのに、胸の中に小さな温もりが灯るような気がした。
2人は街の中心部に向かって歩いた。広場には石造りの古い井戸があり、その周りに人々が集まっている。女性たちが水を汲み、老人たちがベンチで談笑している。子供が1人、井戸の縁をぐるぐると走り回り、母親に叱られていた。どこにでもある、平凡な朝の光景。しかしその平凡さが、今のエメラには心地よかった。
「宿を探すか」
エメラが言った。
「ああ、頼むぞ。俺の鼻を信じろ」
ダンテが鼻息を鳴らして言う。どこか得意げな響きがある。
エメラは広場の近くにある宿屋を見つけた。「緑樹亭」という看板が掛かっている。木彫りの文字は少し色褪せていたが、建物の壁は白く塗り直されたばかりのようで清潔感があった。三階建ての窓からは暖かい光が漏れ、扉の隙間からシチューの香りがかすかに漂ってくる。胃が、正直に反応した。
「どうだ、ダンテ?」
ダンテは鼻を鳴らした。今度は吟味するような、慎重な鼻音だ。
「悪くない。清潔な匂いがする。料理も……おお、シチューか? いい匂いだ」
「じゃあここにしよう」
我ながら即断が早い、とエメラは思った。だが、それでいい。旅の途中で悩む時間は、もっと別のことに使うべきだ。
エメラは宿屋の扉を押して中に入る。
宿屋のロビーは木の温もりに満ちていた。梁の太い天井、磨き込まれた床、暖炉のそばに置かれた揺り椅子。どこを見ても、長い年月をかけて積み重ねられた生活の痕跡があった。壁には古い地図と、よく分からない動物の角が飾られている。カウンターの後ろには、ふくよかな中年女性が立っていた。丸い頬と柔らかい目をした、どこか台所のにおいのする人だ。彼女は2人を見て、迷わず笑顔を浮かべた。作ったものではない、本物の歓迎の笑顔だった。
「いらっしゃい! お泊まりですか?」
「はい。1泊、お願いします」
「かしこまりました。お名前は?」
「エメラです」
女性は宿帳に名前を書き込んだ。ペンを走らせる音が、静かなロビーに小さく響く。
「エメラさんね。お部屋は2階の角部屋がいいわ。窓から街が見えるのよ」
「ありがとうございます」
エメラはペコリとお辞儀をした。
「それと、その子は?」
女性はダンテを見て、目を細めた。警戒ではなく、好奇心からくる細め方だ。
「俺はダンテだ。魔獣だが、行儀はいい方だぞ」
女性は一瞬だけ目を丸くした。それからすぐに、声を立てて笑った。
「まあ、喋るのね! 可愛らしいわ。うちは魔獣も歓迎よ。ただし、家具を壊さないでね」
「約束する」
ダンテが尻尾を振った。嫌いではない相手を認識したときの、あの振り方だ。エメラは内心で、少し安堵した。ダンテが尻尾を振る相手は、大抵、信用できる。
「夕食はどうなさいます?」
女性が尋ねる。
「お願いします」
エメラが答えた。
「分かったわ。今夜はシチューとパンよ。6時に食堂へ来てちょうだい」
「はい、楽しみです」
エメラが返事をし、ダンテの尻尾がフリフリと揺れる。シチューの匂いをすでに追い始めているのが、鼻の動きで分かった。
女性は鍵を渡し、階段を指差した。
「2階の右奥よ。ゆっくり休んでね」
「ありがとうございます」
エメラは階段を上り、部屋に入った。
部屋は狭いが、清潔だった。磨かれた木の床、白いシーツのかかったベッド、小さな机の上には陶器の燭台が1つ。余分なものは何もない。それがかえって、落ち着いた。荷物を降ろせる場所があって、横になれる場所がある。旅人に必要なものは、それだけだ。
窓に近づくと、街並みが一望できた。遠くの山々が夕日の色に染まり始めていた。赤みがかったオレンジが山肌をなぞり、街の屋根をやわらかく照らしている。あの山を越えてきたのだ、とエメラは改めて思う。三時間。荷物の重さと、ダンテの重みと、それから自分の意志だけで。
「悪くないな」
ダンテがベッドの上に飛び乗った。着地音は驚くほど静かで、それからすぐに、毛並みが沈む気配がした。
「ふかふかだ」
「お前、さっき俺の肩で寝るって言ってなかったか?」
意地悪な質問をエメラが投げかける。
「気が変わった。このベッドは合格だ」
ダンテは満足げに言うと、猫のように丸くなる。黒い毛並みが白いシーツの上で丸くなる様は、どこからどう見ても、ただの猫だ。ただの猫が、一丁前に旅の疲れを癒している。
エメラは苦笑しながら、荷物を床に下ろした。肩が、ようやく解放された感覚を取り戻す。軽い。体が軽い。それだけのことなのに、ため息が出た。
「少し休んだら、街を見て回ろう」
「俺は留守番でいいぞ」
ダンテは丸くなった体勢のまま見向きもしない。すでに半分眠りの淵に落ちかけているのが、わずかに緩んだ尻尾の動きで分かる。
「お前も来い。運動不足になる」
ヤレヤレと、半ば諦め気味にエメラが言う。
「俺は十分運動してる。お前の肩の上でバランスを取るのも大変なんだぞ」
「屁理屈を言うな」
窓の外では、夕日がさらに赤みを増していた。シチューが食べられる時間まで、あと少しある。エメラはベッドの端に腰を下ろし、窓の向こうの山を眺めた。ダンテの小さな寝息が、静かな部屋に溶けていく。
今夜はいい夜になりそうだ、と思いながら、エメラもゆっくりと目を閉じた。
食事の時間になり、エメラは1階の食堂に降りた。ダンテも肩に乗っている。
階段を下りるたびに、匂いが濃くなっていく。肉と野菜の煮込まれた、丸みのある湯気の匂い。胃が、正直に鳴る。隣でダンテの鼻がひくついているのが、肩越しに伝わってきた。同じことを考えているのだろう。
食堂は賑わっていた。仕事を終えた鉱夫たちが、テーブルを囲んで酒を飲んでいる。日焼けした顔、厚い手のひら、笑い声。グラスのぶつかる音が部屋の隅まで響き、薪の爆ぜる音がその下に静かに混ざっていた。蝋燭の光が揺れ、壁に伸びた影もそれに合わせて揺れている。どこか懐かしい光景だ。どの街に行っても、こういう食堂だけは、似た空気がある。
エメラは隅のテーブルに座った。
しばらくして、女将が料理を運んできた。
「お待たせ。今夜はシチューとパンよ」
笑顔で皿を置く。どん、と音がするほど量が多い。温かいシチューから湯気が立ち上り、漂ってくる香りに肉と根菜の甘みが混ざっていた。エメラは思わず、少し前のめりになった。
「ありがとうございます」
ダンテもテーブルの上に飛び乗り、期待に満ちた目で皿を見つめている。尻尾が小刻みに揺れていた。
「あら、あなたの分もあるわよ」
女将は小皿に肉を盛って、ダンテの前に置いた。ダンテの耳が、ぴんと立つ。
「おお、ありがとう」
ダンテは嬉しそうに尻尾を振った。感謝の表情というのは、魔獣でも人間でも、どこか似ている。
エメラはスプーンを取り、シチューを一口啜った。
食堂は賑わっていた。鉱夫たちが仕事を終えて、酒を飲みながら談笑している。
温かさが喉を通り、胸の奥まで届いていくような気がした。野菜の甘みと、肉の旨みが静かに広がる。塩加減が丁度よく、飾り気がない分、素材の味がよく分かった。幾日も歩いた体に、じわじわと沁みていく。
「美味しいですね」
「ありがとう。うちの自慢の料理よ」
女将は誇らしげに言った。その顔には、長年の積み重ねからくる自信があった。
エメラはパンをちぎり、シチューに浸して食べた。パンは外が少し固く、中はやわらかだった。浸すと、みるみるうちにシチューの味を吸い込んでいく。ダンテも向かいで、肉を美味しそうに齧っていた。静かな食事の時間だ。
「そういえば」
エメラはスプーンを持ったまま、口を開いた。
「この街に『見晴らしの丘』という場所があるそうですね」
「ええ、あるわよ」
女将は頷いた。少し遠くを見るような目をして、話を続ける。
「街の北、森を抜けた先にある小高い丘よ。そこからは、街全体が見渡せるの」
「綺麗な場所なんですか?」
「ええ、とっても。特に夕暮れ時は最高よ」
女将は目を細めた。記憶を愛でるような細め方だ。
「夕日が湖に映って、街全体が金色に染まるの。言葉じゃあ、うまく伝えられないけれどね」
「若い恋人たちが、よくデートに行く場所よ」
ダンテがクスクスと笑った。
「エメラ、お前もデートに行くのか?」
「違う」
エメラは呆れた顔をした。
「実は、その丘に石碑があると聞いたんです」
「ん? ああ、あれね」
女将は少し驚いた顔をした。
「よぉく知ってるわねぇ。旅人で、あの石碑に興味を持つ人は珍しいわ」
「どんな石碑なんですか?」
「古い石碑よ。いつからあるのか、誰も知らない」
女将は腕を組みながら話す。食堂の喧騒が、少し遠くなった気がした。
「私が子供の頃から、ずっとあそこにあったわ。祖母に聞いても、そのまた祖母の時代からあったって言ってたわ」
「何か文字が刻まれているんですか?」
「ええ。でも、だーれも読めないの」
女将は首を傾げた。
「変な文字でね。学者さんたちも何人か見に来たけど、誰も解読できなかったって。学者さんたちは、あの石碑を『無言の石碑』って呼んでたわね。話を聞くと、各地に無数に点在しているみたいよ」
「無言の石碑……」
エメラは小さく呟いた。スプーンを持つ手が、止まる。
ダンテがエメラを見た。琥珀色の瞳が、何かを訴えている。問いかけるような、確かめるような、静かな視線だ。
エメラは小さく頷いた。
「明日、見に行ってみようと思います」
「そう? まあ、散歩にはいい場所よ」
女将は笑った。
「でも、森を抜けるから、気をつけてね。たまに、魔獣も出るから」
心配そうに言う。本物の心配だ、とエメラは思った。旅人に向けるそれではなく、知人に向けるそれだった。
「魔獣なら、俺がいる」
ダンテが胸を張った。小さな体を精一杯伸ばし、尻尾を高く掲げる。
「俺よりも強くて、賢くて、凛々しい魔獣は、いまだに見たことがねえ」
得意げな声だった。琥珀色の瞳が、自信に満ちて輝いている。
女将はダンテを見て、目を細めた。
「そうね」
女将は優しく笑った。
「君よりも賢くて、可愛らしい魔獣は、私も見たことがないわ」
そう言って、ダンテの頭を軽く撫でた。
「いい子ね」
女将は満足そうに笑って、厨房へ戻っていった。足音が遠ざかり、食堂の喧騒だけが残る。
しばらくの沈黙。
「……か、可愛い?」
ダンテが唖然とした顔をしている。肉を口に運ぼうとしたまま、固まっていた。まるで時が止まったかのように、ぴくりとも動かない。
エメラは口元を押さえて、笑いを堪えた。
「可愛い、だと……?」
ダンテは震える声で繰り返した。
「俺は、凛々しいって言ったんだぞ。凛々しい、だ」
「まあ、確かに可愛いな」
エメラは素直に言った。
「小さくて、黒くて、ふわふわで」
「ふざけるな!」
ダンテは立ち上がった。テーブルの上で、小さな体が怒りでぷるぷると震えている。
「俺は魔獣だ! 本気を出せば、馬よりもでかくて、速くて、強いんだぞ!」
「知ってる」
「なのに、可愛いだと!」
ダンテは前足で皿を叩いた。カチン、と音がする。
「俺を、ぬいぐるみか何かと勘違いしてるんじゃないのか!」
どうやら、ダンテは自分の今の姿が、他人の目にどう映っているのか、いまいち把握していないようだ。
ダンテの中にあるのは、本来の自分の姿だ。巨大で、力強く、闇夜に溶けるような漆黒の毛並み。大地を揺るがす足音。威圧的な、あの全身から滲み出る存在感。
だが、今この瞬間のダンテは違う。
猫ほどの大きさで、ふわふわの毛並み。大きな琥珀色の瞳。テーブルの上でぷるぷる震えながら仁王立ちするその姿は、どこからどう見ても、可愛い以外の言葉が出てこなかった。
「俺は……凛々しい……」
ダンテは力なく呟いた。
「そうだな」
エメラは笑いを堪えながら、そっとダンテの頭を撫でた。
「お前は凛々しいよ。とても」
「本当か?」
ダンテは疑わしげにエメラを見上げた。
「本当だ。走るのは速いし、本気を出したらすっごく強いしな」
まるで駄々をこねる子供をあやすように、エメラはダンテをなだめる。内心では少しだけ申し訳ないとも思っているが、笑いを堪えるのが精一杯で、それどころではなかった。
「そうだろう!」
ダンテは少し元気を取り戻した。
「あの速度で走れる魔獣なんて、そうそういないぞ!」
「ああ、知ってる」
エメラは優しく笑った。
「だから、お前は凛々しい」
「そうだ。俺は凛々しい」
ダンテは何度も頷いた。自分に言い聞かせるように、少しずつ、力強く。
「可愛いなんかじゃない。凛々しいんだ」
「ああ、凛々しい」
エメラは同意した。
だが、心の中ではしっかりと思っていた。
(でも、やっぱり可愛いな)
ダンテは再び肉を齧り始めた。だがその動作は、どこかまだ不満げだった。咀嚼のリズムが、心なしか荒い。
エメラはシチューを食べ続けた。温かくて、美味しい。ただ、時々ダンテの不機嫌そうな横顔を盗み見ては、こみ上げてくる笑いを飲み込むのに苦労した。
食堂の他の客たちも、先ほどのやり取りを見ていたらしく、笑みを浮かべている。特に、隣のテーブルの若い女性二人が、ダンテをちらちらと見ながら何かを囁き合っていた。
「……可愛い」
片方が小声で言った。
ダンテの耳が、ぴくり、と動いた。
聞こえてしまったらしい。
「……ちくしょう」
ダンテは小さく呟いた。皿を見つめたまま、尻尾だけがぱたりと落ちる。
エメラは、もう笑いを堪えられなかった。声を立てないように、ひっそりと、しかし確かに、肩を震わせて笑った。
しばらくして、食堂の喧騒がひと段落した頃、エメラはスプーンを置いた。
「無言の石碑……か」
呟くように言った。声のトーンが、少し変わっていた。
「これで6個目か? お前の家にあったやつを入れて」
「ああ、そうだな」
ダンテはもう不機嫌ではなかった。自然と、声が落ち着いていた。
「明日にでも石碑を見に行こうと思う」
「明日?」
ダンテは顔を上げた。
「このご飯食べてからでもいいぞ」
「いや、もう暗くなっている。今日はこの後、少し街も散策したいしな」
「わかった」
ダンテは短く言って、また皿に視線を戻した。それ以上は訊かない。それが、ダンテなりの付き合い方だった。訊かなくても、隣にいる。訊かないからこそ、隣にいられる。
エメラはもう一口、シチューを啜った。
すっかり温度が下がったのに、まだ美味しかった。
食事が終わると、2人は夜の街並みを散策するために外へ出た。
扉を押すと、夜の空気が顔に当たる。昼間よりも冷たく、しかし不快ではない。山の街の夜の冷気は、どこか澄んでいて、肺の奥まで気持ちよく入ってくる。エメラは少し目を細めて、石畳の続く通りを見渡した。
思ったよりも、人がいた。
仕事を終えた鉱夫たちが、あちこちに散見される。重そうな足取りで帰路につく者、連れ立って馴染みの店に吸い込まれていく者、路地の角で煙草に火をつけながら仲間と笑い合う者。彼らの笑い声は太く、よく通る。一日の疲れを笑いで洗い流すような、そういう声だ。
通りには鉱夫だけでなく、商人や旅人、家族連れの姿もあった。肉屋の店先では、吊るされたランタンの下で主人が残り物を売り捌いている。青果店はもう店じまいを始めていたが、それでも最後の客と値段の交渉を続けていた。パン屋からは、焼き直した生地の香りがまだ漏れている。
石畳の上を、人が流れていた。川のように、緩やかに、しかし絶えず。
「賑やかだな」
ダンテが耳をそばだてながら言った。
「山の街だから、もっと静かかと思っていた」
「鉱山で働く者が多いと、夜も活気があるらしい。昼間の仕事が終わってからが、彼らの時間なんだろう」
エメラは通りをゆっくり歩きながら答えた。
酒場の扉が開くたびに、中の喧騒がどっと溢れ出てくる。歌声が聞こえた。上手くはないが、楽しそうだった。通り過ぎる一瞬だけ聞こえて、また扉が閉まると遠ざかっていく。
露店が数軒、通りの端に並んでいた。焼いた串肉を売る店、温かい飲み物を売る店、安価な装飾品を並べた店。串肉の煙が石畳の上を這い、ランタンの光の輪の中でくるくると渦を巻いていた。
「いい匂いだ」
ダンテの鼻がひくついた。
「さっき食べたばかりだろう」
「鼻と胃は別々に動く」
エメラは苦笑しながら、露店の前を通り過ぎた。
頭上では、家々の窓に灯りがともっていた。黄色く温かい光が、窓枠の形に切り取られて石畳に落ちている。どこかの窓では子供が外を覗いていた。目が合うと、すぐに引っ込んだ。エメラは小さく手を振ったが、もう見ていなかった。
街の中心から少し外れると、通りは静かになった。石畳は続いているが、ランタンの間隔が広くなり、光と影が交互に現れる。歩くたびに、自分の足音がよく聞こえた。
そのときだった。
路地の奥で、何かが動いた。
エメラの足が、自然と止まる。意識して止めたのではない。体が先に反応した。
「エメラ、あれ見ろ」
ダンテが尻尾でとある建物の方向を示した。
「ああ、わかっている」
エメラは目を凝らした。
路地の奥に、フードを被った男が立っている。深くフードを被っているせいで顔は見えない。だが体の向きが、落ち着かない。頻繁に左右を確認し、まるで何かを、あるいは誰かを探しているようだった。
「怪しいな」
エメラが呟いた。
「ああ。匂いも変だ。何か……焦げたような、金属のような……」
ダンテが鼻を鳴らした瞬間、男がこちらに気づいた。
目が合った、とエメラが感じた次の瞬間には、男は路地の奥に消えていた。足音もなく、影が溶けるように。
「追うか?」
ダンテが訊いた。
「いや、やめておこう。余計なトラブルは避けたい」
「お前、いつからそんなに慎重になったんだ?」
「お前と旅をしてから学んだんだよ」それを聞きダンテは笑う。
「それは賢明だ」
エメラも小さく笑い、路地から視線を外した。ただ、背中のどこかに、小さな引っかかりが残った。焦げたような匂い。ダンテの嗅覚が拾ったということは、かなりの濃度だったはずだ。
気のせいであればいい、と思いながら、エメラは歩き出した。
2人は市場を抜けて、広場に戻る。
夜が深まりつつある中で、広場はまだ明るかった。石畳に沿って立ち並ぶランタンが、温かみのある光を足元に落としている。日中の賑わいとは違う、落ち着いた時間の流れ方だ。遠くで誰かが笑い、その声が夜気の中をゆっくり漂っていく。
「綺麗な街だな」
エメラが言った。
「ああ。平和そうだ」
その言葉が終わらないうちに——
轟音が、響いた。
一度ではない。地の底から突き上げるような、鈍く重い振動が、石畳を通じて足裏に伝わってくる。エメラは反射的に身を屈め、ダンテは肩から飛び降りて地面に着地した。四本の足で地を踏み、低く構える。
「何だ!?」
「分からない! だが、方角は……」ダンテが鼻を鳴らした。
「北東だ。鉱山の方角だ」
広場の人々がざわめいた。談笑していた者たちが立ち上がり、ランタンの光の中で互いの顔を見合わせている。子供が泣き出した。老人が空を仰いだ。誰もが何かを探していたが、答えを持っている者はいなかった。
そして遠くから、声が届いた。
「助けてくれ!」
「落盤だ!」
エメラはすでに走り出していた。
「おい、エメラ! 何する気だ!」
「助けに行く」そう言うとエメラは走る速度を一段上げた。石畳を蹴る音が、夜の通りに響く。
「お前、さっき余計なトラブルは避けるって言ったばかりだろう!」
「これはトラブルじゃない。緊急事態だ」
ダンテは舌打ちしながらも、エメラの後を追った。その小さな体が、夜の石畳の上を矢のように走る。
街の北東部へ続く道は、次第に急勾配になっていった。ランタンの数が減り、地面が石畳から砂利に変わる。足場が悪くなっても、エメラは速度を落とさなかった。
人の気配が多くする場所が近づいてくる。前方に見えるのが鉱山の入り口だろう。
坑道の前は、すでに人だかりができていた。
男たちが怒鳴り合い、女性たちが泣いていた。子供の声も混じっている。ランタンをかざした者が坑道の入り口に近づこうとしては、崩れた岩の壁に阻まれて立ち尽くしている。坑道の入り口は完全に塞がれていた。大小の岩が折り重なり、隙間はほとんどない。深くから、粉塵が漂ってくる。
「誰か中にいるのか!」エメラが叫んだ。
「あぁ」1人の男が振り返った。日焼けした顔に、恐怖と焦りが剥き出しになっている。
「5人閉じ込められてる、 うちの息子もだ……」
焦りの中に絶望が見える。助けに行きたいが、どうしたらいいのか分からない、といった状態だ。必死にどうすればいいか考えているが、答えが出ない。そんな表情だ。
「崩落してどのくらい経つ!?」
「10分ほど前だ。 突然だった、いきなり坑道が崩れたんだ」
エメラは坑道の入り口を素早く見渡した。岩の積み重なり方、隙間の位置、重さの偏り。無理に引き剥がせば、上部が崩れてくる。人の力では動かせない。
「ダンテ、中の様子は分かるか?」
ダンテは岩に近づき、鼻を鳴らした。その耳がぴんと立ち、しばらくの間、静止した。
「生きてる。5人とも生きてる。だが、空気が薄い。急がないと窒息する」
「分かった」
エメラは目を閉じた。
周囲の声が、少し遠くなる。泣き声も、怒鳴り声も。自分の呼吸だけが近くなる。
「おい、エメラ」ダンテが低い声で言った。
「お前、まさか……」
「やるしかない」
エメラは杖を構えた。愛用の、節くれだった木の杖。それを岩に向ける。周囲の人々が、静かになった。何かが起きることを、本能的に察したのかもしれない。
「根を這い、幹を鎌首とせよ。大地の息を吸い、我が声を聴け。木の命、蛇の姿に転じて、地を裂け――地這い蛇」
地面から、緑色の光が立ち上った。
それは根のように、静脈のように、地を這いながら広がり、岩の隙間へと入り込んでいく。光の筋が太くなり、やがてその先から、本物の根が現れた。生きているように動く、太い根。それが岩の下に潜り込み、力をためて、押し上げていく。
「何だ、あれは……」
「魔法使いか!」
「イヤ、魔術師っていうんだぜ!!」
人々の声が上がる。だがエメラには届かない。集中の向こう側にいる。
岩が、動いた。
ミシリ、と低い音を立てて、少しずつ。隙間が広がっていく。人が一人通れるほどの空間が、ゆっくりと開いていく。歓声が上がった。
しかしエメラはすぐに次の術を唱えていた。
このままでは崩れる。
「木霊よ、地に眠る鎖と成れ。根を撓め、枝を結び、我が敵を封ぜよ。天地の理に背かずして、命の動きを鎖す――樹縛鎖」
杖を地面につく。緑の光が地を走り、開いた隙間へと集まった。光が収束した場所から、鎖のように絡み合った樹木の枝が生え、岩の隙間を内側から支えていく。
「空間は作った!今だ!」エメラが叫ぶ。
その声を皮切りに、立ちすくんでいた者、叫び怒鳴り散らしていた者、泣いてその場に突っ伏していた者達が我に返り、坑道へと駆け込んだ。ランタンを手に、粉塵の中へ消えていく。
エメラは杖を握ったまま、立っていた。集中を切らせない。樹縛鎖は維持し続けなければならない。腕が重い。額に汗が滲む。それでも足を踏ん張り、光を繋ぎ止める。
長い、時間だった。
体感では何十分にも感じたが、実際はそれほどではなかっただろう。やがて、男たちが戻ってきた。
5人が、1人ずつ運び出された。
周囲が静まり返る中、彼らはゆっくりと地面に寝かされた。誰かがランタンを近づける。光が、5つの顔を照らした。
「大丈夫か!」
あの父親が、若者に駆け寄って抱きしめた。腕が震えていた。
「しっかりしろ! 意識はあるか? どこか痛むか?」
「ああ、父さん……」
力のない声だったが、確かに届いた。意識はある。目立った外傷もなさそうだ。
5人のうち3人は、軽傷のようだった。咳き込んでいるが、自力で体を起こせる者もいる。
だが、残り2人が違った。
1人はうめき声を上げながら脚を抱えている。骨に異常があるのかもしれない。
そして最後に担ぎ出された男が——
エメラは目を見開いた。
腹部から、鮮血が溢れていた。岩の破片が深く刺さったのか、着衣が真っ赤に染まっている。顔は蒼白を通り越して灰色に近く、呼吸は浅く、途切れがちだ。意識があるのかも分からない。
「もう駄目だ……医者を呼んでも間に合わない」
誰かが絞り出すように言った。絶望を声にした、その呟きが夜の空気に溶けていく。
エメラはすでに駆け寄っていた。膝をつき、男の容体を確認する。傷の深さ、出血の量、呼吸の様子。頭の中で、持っている知識が素早く動く。
「これは……今すぐ処置しなければ間に合わない」
顔を上げ、周囲を見渡した。
「怪我をしたお2人を、こちらに並べて寝かせてください」
声は、落ち着いていた。自分でも不思議なほど。
エメラの言葉に応じて、町民達が、うめき声を上げている男性を抱え、今にも死にそうな男の横へ慎重に運ぶ。誰も初対面の旅人の言葉を疑う者はいない。
2人が横たわるのを確認すると、エメラは杖を地面に突き刺し、術を唱え始める。するとエメラの足元からは植物がまるで何百倍もの早送りのように勢いよく生える。
全身が緑の光を帯び始め、やがてその光が杖に集中していく。
「木々よ、古の息吹を我が身に賜え。枯れし血を巡らせ、裂けし肉を繋げよ。地の理、再び巡れ。我が身、再び芽吹かん――《樹受再生》!」
エメラがそう唱えると杖からの光が放たれ寝かせられた2人に命中する。
その瞬間その光は男性達全体を包みだす。その光は眩しくも暖かく、まるで命の息吹、地に植えた種が大輪の花を咲かせるが如く、柔らかな光が傷口から溢れ出す。
その輝きは温もりを帯び、まるで春の陽だまりのように優しく肌を包み込んだ。裂けた肉が糸を引くように寄り添い、断たれた血管が蔦のように絡み合い、失われた生命力が根を張るように体内へと浸透していく。
痛みが引いていくのではない。痛みそのものが慈しみに変わっていくのだ。
エメラの杖から放たれる光は、まるで見えない種子を蒔くように宙を舞い、傷ついた者の身体という土壌に降り注ぐ。そして瞬く間に、生命という名の花が内側から咲き誇る。骨が軋む音さえ、新たな成長の産声のように聞こえた。
やがて光が薄れゆく頃には、そこにあったはずの深い傷は跡形もなく消え、代わりに新しい皮膚が、生まれたての花びらのように艶やかに輝いていた。
エメラは術を解いた。
植物が、逆再生するようにゆっくりと地面へ戻っていく。根が縮み、枝が溶け、緑の光が少しずつ薄れて、やがて消えた。夜の暗さが戻ってくる。エメラはその場でひとつ息をついて、膝をついた。しゃがみ込むというより、崩れ落ちる寸前を意志で止めた、という方が近かった。
「エメラ!」
ダンテが駆け寄ってきた。その声に反応して、周囲の人々がエメラの周りに集まる。
「2人の傷が治っている……今の光、あんたが治してくれたのか?」
先ほどの父親がエメラに問いかけた。その声には、まだ信じ切れていない震えがあった。
「何とか2人とも治療できました。ただ、体力までは回復させることができないので、落ち着いたら診療所まで運んであげてください」
言い終わると同時に、四方から声が上がった。
「ありがとう!」「あんたが助けてくれたんだな!」「命の恩人だ!」
言葉が重なり、混ざり合い、夜の鉱山前に広がっていく。担架を用意した男たちが、5人を慎重に運び始めていた。女性たちが寄り添い、子供たちが走り回っている。さっきまでの恐怖が、じわじわと安堵に変わっていく瞬間だ。
エメラは立ち上がり、笑顔を浮かべた。
「無事でよかった」それだけ言って、空を見上げた。月が輝き皆を照らしている。
その夜、緑樹亭の食堂は騒がしかった。
救出劇の話はあっという間に街中に広まったらしく、食堂はいつにも増して人が多かった。鉱夫たちがグラスを掲げ、見知らぬ者同士が肩を組んで笑っている。エメラが食堂に姿を現すと、何人かがすぐに気づいて声を上げた。歓声とも呼べるような、暖かいざわめきだった。
女将は特別なご馳走を用意してくれていた。シチューだけでなく、こんがりと焼いた肉、みずみずしいサラダ、それにパイまである。テーブルの上に皿が並べられるたびに、ダンテの鼻がひくついていた。
「さあさあ、遠慮しないで食べて!」
女将が満面の笑みで言った。
「あんたは街の英雄よ!」
「そんな大したことじゃないです」エメラは照れくさそうに頭をかく。
「大したことよ!」隣のテーブルの男が身を乗り出した。目が赤い。泣いていたのかもしれない。
「うちの弟が助かったんだ。本当にありがとう」
ダンテは肉を齧りながら、エメラをちらりと見た。
「エメラ、お前、本当にやるときはやるな」
「自分の力が人助けに役立ったからね、嬉しいよ」
エメラは恥ずかしげに、しかし少しばかり誇らしげに答えた。普段は滅多にしない顔だ、とダンテは思いながら、もう一口肉を頬張る。
「マナの使い方も上手くなってたな、寝坊助のくせに」
「普段はお前の方が寝坊助じゃないか」
2人は目を合わせて、笑った。
食事が半ば進んだ頃、一人の老人がエメラのテーブルに近づいてきた。
白い髭を蓄え、杖をついている。背は高くないが、その立ち姿には長い年月をかけて積み重ねられた重みがあった。食堂の喧騒の中でも、この老人の周囲だけ、わずかに空気が落ち着いているように感じた。
「エメラ殿」老人が言った。
「話をしてもいいかな?」
「もちろんです。どうぞ」
老人は椅子に座った。腰を下ろすのに少し時間がかかった。それでも、顔に疲れは見えない。
「わしはこの街の鉱山組合の長、グレゴールという。今日は本当にありがとう」
グレゴールは深々と頭を下げた。白い髭が揺れた。
「いえ、当然のことをしただけです」謙遜ではなく、エメラはそう伝えた。
「謙遜せんでいい。あんたの魔術は見事だった。木属性の魔術師は珍しい。とても高名な魔導士殿であるかな? それにしてもとても若く見えるが」
「あれは魔術とはちょっと違うんです」
「ほう」思わぬ返答にグレゴールは興味深そうに相槌を打つ。
「生まれてこのかた78年、この町では他の者よりも魔術師は見てきた方だとは思っちょるが、あれを魔術ではなくて何というのだね? しかもその若さで、私がみてきた魔術師のなかでもピカイチの力と高潔な行動を見せてくれた。あんたがいなければあの5人は助からなかったであろう。街のみなも今のように飲んで騒いで笑顔でいることはできんかっただろう。本当に感謝している」
グレゴールはまた深々と頭を下げた。
「や、やめてください。感謝の気持ちは十分伝わりましたから」
エメラは慌てて手を振った。
「そうですね……あの術は、俺たちの一族に伝わる門外不出の術式になります」
「なるほど、他の魔術師とは一線を画すわけじゃな」
グレゴールは納得した様子だった。エメラがあまり語りたがらないのを察して、静かに話題を変える。そのさりげなさが、長年人と接してきた者の所作だった。
「で、あなた方は冒険者なのかね」
「はい。旅をしながら、仕事を受けています」
「そうか、旅の目的などはあるのかの?」
「強いて言うなら、仲間を探してるんです。昔からの友達で、今はぐれてしまったので足跡を追っています」
「はぐれてしまったとは? その者たちもそれぞれ旅をしてるのかね?」
「詳細はまだあんまり分からないんです。ちょっと俺が寝坊している間にみんなと離れ離れになっちゃいまして」
「薄情な仲間たちじゃのう、入院でもしておったのかね」
「まあ、そんな感じです。だから早くみんなに追いつかないといけないんですよ」
エメラは笑いながら話した。懐かしむような顔だった。遠い記憶を眺めるような、やわらかい表情。
「しかし仲間を探しておるが、詳細があまり分からんとはのお」
「そこはあまり気にしていないんです。なによりみんなかなり目立つ存在なんで。ゆっくりとコイツと世界を見ながら探していこうかなと。あてもゼロではないですし」
向かいで肉を美味しそうに頬張るダンテの背中を撫でながらエメラが言う。ダンテは撫でられながらも、知らんぷりをして食べ続けていた。
「なるほどのお」グレゴールは2人を見てから少し物思いにふける。時間にして僅かなものだったが、意を決したように目を見開く。
「実は、頼みたいことがあるんだが」
「頼みですか」
「ああ。今日の落盤だが、実は最近、鉱山で不可解なことが続いている」
エメラは身を乗り出した。
「不可解なこと?」
「ああ。小規模な落盤が頻発しているんだ。今日のは特にひどかったが、先週も3回ほどあった」
「それは……偶然じゃないんですか?」
グレゴールは首を振った。
「鉱山は長年使っているが、こんなことは初めてだ。構造的な問題でもない。点検も定期的にしている。街の警備隊も鉱山の中を見て回ってもらっておるが、今のところ何も分からない状況なのだ」
ダンテが肉を置いて、老人を見た。
「じゃあ、何か別の原因があるってことか?」
「そうだ。わしは、誰かが故意に落盤を起こしているんじゃないかと疑っている」
「故意に?」エメラが眉をひそめた。「なぜそんなことを?」
「分からん。だが、最近、見慣れぬ者が鉱山の周りをうろついているという報告がある」
エメラはダンテと目を合わせた。市場の路地で見た、あのフードの男が脳裏をよぎる。
「その者の特徴は?」
「フードを被っていて、顔が見えないらしい。それに、妙な匂いがするとか」
「匂い?」その言葉を聞きダンテの耳がぴん、と立つ。
「ああ。焦げたような、金属のような匂いだそうだ」
ダンテとエメラは再び目を合わせた。今度は、どちらも何も言わなかった。言葉にしなくても、同じことを考えているのが分かった。
「それで」グレゴールが続けた。「もしあなた方が良ければ、調査を手伝ってもらえないか? もちろん、報酬は払う」
エメラは少し考えてから、頷いた。
「分かりました。引き受けます」
「本当か!」
グレゴールは皺の刻まれた顔をほころばせた。
「ありがとう! 明日、詳しい話をしよう。鉱山組合の事務所に来てくれ」
「はい」
エメラが頷くと、グレゴールは椅子から立ち上がり、もう一度深く頭を下げて、食堂の賑わいの中に戻っていった。その背中が、人の波に溶けていく。
テーブルに沈黙が戻った。ダンテが再び肉に手をつけた。ただ、その動きは少しだけ、さっきより遅かった。
部屋に戻ると、ダンテは窓辺に座って外を見ていた。
夜の街が、ランタンの点々とした光の中に沈んでいる。遠くでまだ笑い声がした。食堂の喧騒がここまで漏れてくる。それでも部屋の中は静かで、2人の間には穏やかな沈黙があった。
「なあ、エメラ」
「何だ?」
「お前、またトラブルに首を突っ込んだな」
ダンテは視線を外に向けたまま言葉を投げかけた。責めているのではない。ただ、確かめているような声だった。
「これは仕事だ」エメラははっきりとした口調で伝えた。
「同じことだ」ダンテは振り向き返答する。
「だが、まあいい。俺も気になってた」
「あのフードの男のことか?」
「ああ。あの匂い、尋常じゃなかった。魔術の類いだ」
「魔術の?」
「ああ。それも、かなり強力な。しかも、禁術の類かもしれない」
その言葉を聞きエメラは深刻な顔になる。
「禁術……」
その言葉を口の中で転がしながら、ベッドに横になった。天井を見上げる。今日一日の出来事が、順番に浮かんでは沈んでいく。朝の山道、街への入城、女将の笑顔、食事、フードの男、轟音、崩れた坑道、血の色、緑の光。
「まだ確証はない。だが、明日調べてみる必要がある」
「分かった」
しばらくの間、2人は黙っていた。
「なあ、エメラ」
「何だ?」
エメラは片目だけ開けて、ダンテの方を見た。窓辺に座る小さな黒い影。琥珀色の瞳が、夜の光をわずかに反射してきらめいている。
「出会った頃に比べると、だいぶマナの扱い方上手くなったじゃないか」
ダンテは水筒から一口飲んで、満足そうに頷いた。
「さっきの連続詠唱なんて、完璧だったぞ。出会い頭に術ぶっ放してきた頃に比べてな」
ダンテはニヤっと笑いながら言う。あの時のことを思い出すと、今でも少し背筋がゾクっとする。
「寝起きで外に出たらでっかい腹黒そうな魔獣がいたからな、先手必勝だ」
エメラは涼しい顔で答えた。まるで当然のことをしたとでも言いたげだ。
ダンテは苦笑しながら、あの日の朝を思い返した。鳥の声で目が覚めて、何かの気配を感じて振り向いた瞬間だった。目の前で巨大な樹木がみるみると成長していき——次の瞬間には枝から蔦が飛んできていた。間一髪で避けたが、背後の壁が貫通されていたのを覚えている。
「あそこは人がいないと思って住処にしてたんだ。いきなり人が出てきてびっくりしたんだぞ」
エメラは少し不満そうに鼻を鳴らした。
「廃墟だと思っていたのに、中から寝ぼけ眼の人間が出てくるなんて想定外だ」
「あの建物は元々俺の一族の持ち物なんだ」
ダンテは遠くを見つめながら言った。
「まあ、今は俺だけになっちゃったけど」
声のトーンが、ほんのわずかに落ちた。それだけで、部屋の空気が少し変わった。ダンテは一瞬だけ耳を伏せた。が、すぐにいつもの調子に戻る。早かった。慣れているからこそ、早い。
「じゃあもっと人が居住してる風に見せといてくれ。あんなのただの廃墟だ廃墟」
「窓は割れてるし、蔦は這ってるし、屋根の一部は崩れかけてただろう。どう見ても『廃墟です、どうぞご自由に』って言ってるようなもんだ」
前足で地面を軽く叩きながらダンテが言う。
「いやあ、眠気には勝てないな」エメラは頭をかきながら笑う。
「怠惰の極みだな」
「お前に言われたくない」
しばらく、沈黙があった。
ただ、嫌な沈黙ではなかった。慣れた2人の間にある、暖炉の前のような静けさだ。
「それよりもさっき腹黒って」
「ん?」エメラは首を傾げた。
「だってお前、実際お腹の色黒いじゃん」
エメラはダンテの腹部を指差した。確かに、背中や側面は艶のある漆黒の毛並みなのだが、腹部だけはまるで炭のように深い黒をしていた。その対比が妙に印象的で、初めて見たときから気になっていた。
「これは毛並みだ!」ダンテは即座に反論した。4本の足を踏ん張り、全身の毛を逆立てる。
「生まれつきこういう模様なんだ! 腹黒いとかそういう性格の話じゃない!」
「分かってるよ」エメラは笑いながら手を振った。
「でもさ、初対面の印象って大事だろ? でっかい体に鋭い牙、そして腹の部分だけ不気味に黒い。あれは完全に『悪役魔獣』って感じだったぞ」
「お前の方こそ、ボサボサの髪にボロボロの服で扉から現れて、最初はゾンビかと思ったぞ」
「ひどい言い草だな!」
「お互い様だ」
エメラはフンと鼻を鳴らしたが、その目は笑っていた。ダンテもまた、苦笑しながら夜空を見上げた。
ランタンの光が窓から差し込み、2人の影を壁に伸ばしていた。あの出会いから、随分と時間が経った。最初は互いに警戒し、時には本気で敵対しかけたこともある。それでも今では、こうして馬鹿な話で笑い合える。どこでそうなったのか、はっきりとした境目は思い出せない。気がついたら、こうなっていた。
「まあ、今となってはいい思い出だけどな」
ダンテは小さく呟いた。
「そうだな」
エメラも静かに同意した。
「あの時、お前が攻撃してこなくてよかった」
「俺も、お前が2発目を撃ってこなくてよかったよ」
2人は顔を見合わせ、同時に笑った。
笑い声が消えると、またやわらかな沈黙が戻ってきた。
「まあ、まだあんまり無理するなよ」
ダンテが言った。先ほどとは声の質が違った。冗談を言うときの声ではなく、少し低くて、静かな声だ。
「マナを使いすぎると、体に負担がかかる」
「分かってる」
「本当に分かってるのか? お前、今日、かなり無理してただろう」
「……少しな」
「ほら見ろ」
ダンテは溜息をついた。窓枠の上で体を丸め、尻尾をゆっくりと揺らす。
「お前は優しすぎるんだ。人を助けようとして、自分を犠牲にする」
「それは悪いことか?」
少しムッとしながら返す。
「悪くはない。だが、お前が倒れたら、俺が困る」
「何にせよ、力が完全に戻るまでは無理しちゃ駄目だぞ」
思いがけない言葉にエメラは笑った。
「お前、意外と優しいんだな」
「優しくなんかない。ただ、お前が倒れたら、俺の飯が食えなくなるだけだ」
「嘘つけ」
目が合い2人は笑った。
笑い声が夜の静けさに溶けて、消える。
エメラはもう一度、天井を見上げた。呼吸がゆっくりになっていく。体の奥の疲れが、じわじわと表に出てくる。目が、重い。
窓の外では、月が昇り始めていた。丸くはないが、十分に明るい。月の光が窓枠の形に切り取られて、静かに床に落ちている。
ダンテの寝息が、聞こえた気がした。
エメラはそっと目を閉じた。
明日はまた、早い。




