別れ
恐る恐る部屋に入ると、倒れた人形が嫌な雰囲気を醸し出しておりました。何に例えましょう。そうですね、汽車の煙の中とでも言いましょうか。それとも手入れの行き届いておりませぬ、古本屋の奥底の棚とでも言いましょうか。つまりは、そのような息苦しく、脳が危険信号を全身へと隈無く発するような、そんな雰囲気なのです。
「我も哀れよな」
人形を一撫でし、今までを思い返してみます。あの子から頂戴したこの制服から始まり、妹のワンピース、近所の二つ年上のお姉さまのレーススカートなどなど、数多くの服を着せてまいりました。捨てるにはやはり、惜しいと思ってしまいます。
「だが捨てねば、先には行けん」
意を決し、台所から袋を取り出しまして、勢い良く人形を投げ入れました。
「今までありがとう。もう二度と、世話にはならん」
それから、辺りに散らばっている服も投げ込み、袋の口を縛り、ゴミ収集所へと出しました。
ゴミを出し、プラプラと家まで歩いていると鉄砲雨に襲われました。無論、傘など持っておりませんのでほとほと困り果てていますと、一匹の猫が目の前を走り去って行きました。私は神からの祝福だと思いました。といいますのも、昔から雨に襲われた時は猫を探せと祖母に言われていたのです。すれば凌げる場所へと導いてくれる、と。
私は急いで猫を追いました。猫は振り向きもせず走っており、時々撒かれそうになったりもするのですが、今絶好調の私には、それすらもとても快に感じられました。
「気持ちが良いな」
周りの景色が混凝土の塀から木製の塀へと変わっていき、ノスタルジックな空間が広がっていきます。それは私の体によく馴染みました。きっと、私以外、つまり日本人ならば皆馴染むのでしょう。今私は、生きているのです。
猫は煙草屋の廂で止まりました。すると『にゃ〜』と一鳴きし、シャッターの方をじっと見つめて固まってしまいました。
「どうした。ここの人と知り合いなのか」
語り掛けましても、猫は尻尾を左右に振るばかりです。
数分でしょうか、もしくは数秒なのかもしれません。経つと老婆がシャッターを開け出てきました。
「やっぱり黒かい。こんなに濡れちゃって。さ、お入りなさい」
老婆は猫を入れた後に、シャッターを下ろそうと手を掛けた所で私に気付きました。
「あら、あんたも雨宿りかい? 随分濡れているようだけど、何処から来たの」
老婆は心配してくださいました。それはもう深く。
「それが、先程の猫を追いかけて来たもので、何処から来たのか分からんのです」
笑い声は雨に反響し、私達の周りに執拗に残りました。老婆の顔は気狂いを見たようでした。
「そうかい。まぁお上がり。そんな状態でいたら風邪を引いてしまうからね、お風呂へお入り。お茶も出すから飲んでいくといい」
「い、いえ大丈夫です。私はヒョロイがこれでも丈夫なのです」
老婆は眉根を寄せました。
「若者が遠慮なんかせんでええ。はよお上がりやんせ」
そう言うと老婆は中へと姿を消しました。私はどうしたものかと迷いましたが、この寒さと衣類の張り付く感触が我慢できませんで、渋々、といいますか、やはり申し訳なく、中へとお邪魔させていただきました。




