8話「拳の意味」
前世でも、この世界でも、誰かを本気で殴ったことは、一度もなかった。
拳は、憎しみのために振るうものだと思っていた。
王都へ続く試練のために、ガルドの稽古が始まった。
初日は、いまの俺がどこに立っているのかを測ることに費やされた。ガルドは庭の中央にあぐらをかき、好きなだけかかってこいとだけ言って、両膝の上に手を置いた。岩のように動かない。
俺は拳の握り方、指をどこまで曲げればいいのかさえ分からない。
とりあえず、腹を打った。固い。木の幹を叩いたときの、跳ね返ってくる感触だった。
膝を蹴る。今度は岩だ。爪先の骨まで痺れて、思わず片足で跳ねた。
ガルドは眉ひとつ動かさない。
化け物だ、とあらためて思う。
火球を放った。橙の光がガルドの胸で潰れ、煤の匂いだけが残った。続けて岩、雷。火と岩は、ただ散った。雷のときだけ、ガルドの口の端がわずかに引きつった。
「いてっ」
短く、たったそれだけ。
『鬼族の皮膚密度、推定で人間の三十倍以上』
頭の奥で、いつもの声が淡々と告げる。
『神経の伝達は電気信号に依存します。鬼であっても、そこは例外ではありません』
「電気だけは効く、ってことか」
『ただし致死域には到達不能と推定します』
俺は自分の手のひらを見下ろした。雷の余韻で、指先がまだ小さく震えている。それでも、この震えを百回重ねたところで、目の前の山を倒せはしないのだろう。
「肉体だけじゃ、絶対に勝てない」
声に出すと、その事実が、急に重さを持った。
ひと通りの力試しが終わると、ガルドはあぐらをかいたまま、右手の小指を一本だけ立てた。
「俺、小指だけ」
その指先が、宙でゆらりと動く。蛇が鎌首をもたげるときの、あの予備動作によく似ていた。
俺は、小指を相手に戦った。
踏み込む。指がすっと内側へ滑り込み、喉のすぐ手前で止まる。下がる。指は追ってこない。攻めたつもりが、いつの間にか俺の重心の真下に潜り込んでいて、気づいたときには背中から地面に叩きつけられている。
何度倒れたのか、途中から数えるのをやめた。空ばかりが視界に流れていく。
稽古が終わるたび、家に帰るとエルダが俺の隣に膝をつき、治癒の魔法をかけてくれた。
この魔法は、いまだに理解できない。傷がふさがるだけではないのだ。切り傷も、内出血も、捻挫も、火傷も、そして時々折れた骨さえ、まったく同じ詠唱で元へ戻っていく。ただ、深い傷のあとには、薄い線がうっすらと残った。
『再生と強化、その両方の特徴があります』
その情報を聞きながら、俺は天井を見ていた。エルダの手のひらが触れたところから、痛みが潮のように引いていく。
時折、エルダはリラを連れて稽古を見にきた。ガルドが俺を地面に転がすたび、エルダは腰に手を当てて、もっと手加減しなさい、と一語ずつ区切って言う。リラはその横で、何も言わない。膝を抱えて座り、ガルドの小指の動きだけを、瞬きも惜しむようにじっと追っていた。
数日後、先生が来た。俺が転がされる様子をしばらく眺めると、土を払うように一度だけ手を振る。
その日から、彼は別の戦い方を授けてきた。
「ガルドの武術だけでは、王都の試練は越えられない」
複数の魔法を同時に走らせる手順、退路を確保してから攻める順序。生き延びるための、冷たく整然とした算術だ。
「浮遊魔法も、火も、雷も、岩も……どれも単体では決め手にはなりにくい。弱い魔法だ」
先生は机の上に指を滑らせ、数式を解くように手順を組み上げていく。
「だが、弱さは組み合わせれば強さになる。一つでは届かない魔法も、重ねれば相手に届く」
そして、初めて俺の魔法そのものを評価するように視線を向けた。
「君の浮遊魔法は優れている。扱い方さえ誤らなければ、攻撃にも、防御にも、退避にも使える。戦場では最も応用の利く魔法の一つだ」
少しだけ間を置いて、先生はいつもの調子で言葉を締める。
「君は、自分が生き残ることだけを考えなさい」
「はい」
ある日の稽古中、ガルドの拳が、本気の速度で来た。
避けられない。その判断より先に、体が浮いていた。拳は俺のいた場所の空気だけを潰し、低い音が腹に響いた。
「逃げる、いい。判断、早い」
ガルドが、めずらしく顎を引いた。
俺は空中で、息を呑んだ。
浮遊魔法は、攻撃ではない。移動の意味を書き換える魔法だ。
着地して、自分の手のひらを見つめる。
『運動方向の自由度が、平面から立体へ拡張可能です』
地面に縛られていた俺の動きに、もう一本、上下の軸が加わる。その実感が、指先からゆっくりと腕を上っていった。
すぐに試した。浮遊で踏み込みを加速させ、その勢いのまま拳を伸ばす。速い。確かに速い。だが、当たった瞬間、俺のほうが後ろへ吹き飛んだ。背中から茂みに突っ込み、葉を散らしながら、空を仰ぐ。
「攻撃、軽い」
ガルドが、声だけで笑った。
『運動量は質量と速度で決まります。しかし、固定点がなければ、力は逃げます』
「分かってる」
起き上がりながら、口の中でつぶやいた。
「固定点を、作ればいい」
浮遊魔法で、空中に足場を固定する。
目の前に、微動だにしない透明な足場が生まれる。
そこを強く蹴る。
一度目の加速に、二度目の加速が重なる。地面だけに縛られていた推進力が、宙にも生まれ、身体は矢のように前へ弾け飛ぶ。
初めて、ガルドの頬に拳が届いた。
乾いた音が、庭に短く立った。
ガルドの目つきが、ほんの一瞬だけ変わる。次の瞬間、巨大な拳が振り下ろされ、俺は回転しながら吹き飛んでいた。背中から落ちて、肺の空気が全部抜けた。
それでも、俺は笑っていた。
「コーシー、今のは……」
『記録済みです』
組み立てていった。
雷で一瞬、相手の動きを止める。生み出した空の足場で間合いを詰める。浮遊で軌道を曲げ、相手の予測の外へ回り込む。火で視界を奪い、死角から拳を通す。
一つひとつは、まるで頼りない。けれど順番に重ねていくと、流れになる。
その日、俺はガルドの片手と、一度だけ互角に打ち合った。
『戦闘における魔法運用、初期定義を確立しました』
肩で息をしながら、俺はガルドを見上げた。
これが、先生の言ってた戦い方。
俺がガルドの片手と渡り合えるようになった頃、魔法を一切使わないという約束のもとで、リラも稽古に加わってきた。
体は俺より小さいのに、拳の芯が重い。地面を踏む音からして違った。数日もしないうちに、リラはガルドの小指と、対等に打ち合うようになっていた。
こうして向かい合っていると、この子があと五年で死ぬなどとは、どうしても思えなかった。
ガルドのいない合間に、俺は俺なりの形を磨いた。浮遊で加速し、減速し、ときに腕だけを先に走らせる。
何度も繰り返すうち、魔法は発動するものではなく、手足の延長になっていった。
夜になると、いつものようにリラに蛍火を見せた。
「に〜にぃ」
リラが、んっ、と短く声を漏らして、布団から出した手をぱたぱたと振る。俺が立てた指を、小さな手が握り込んだ。
その手のひらに、豆ができていた。
「これ、どうした」
「ころんだ」
リラは目を逸らさずに言った。
『豆の形成位置は、棒状の物を繰り返し握ったときの典型例です』
ガルドの手伝いでもしたのだろう。俺はそう片づけて、それ以上は考えなかった。
ガルドが先生やクレイヴンと出かける日は、俺がリラの稽古をつけた。
その日も、俺は魔法を惜しまずに使い、大人げなくリラの相手をしていた。リラは武術の覚えこそ俺より速いが、一歳ぶんの体格差と、魔法を操れる差で、まだ俺に分があった。
軽くいなしているつもりだった。リラの拳の流れを横へ流した、その瞬間。手のひらから、反射的に光が散った。
放電。
リラの動きが、止まった。
「それ、嫌だって、言ったよね」
声が、低かった。いつものリラの、跳ねるような響きが、どこにもなかった。俺の知っている顔ではなかった。
次の瞬間、連打が来た。
「ちょっ。ごめん。あっ。待っ……」
言葉が間に合わない。視界の端で拳が膨れ上がり、頬の骨を捉えた。体が、足の裏を離れて宙を舞う。
回る天井、流れる庭。落ちた先は、ちょうど稽古を見にきたエルダの足元だった。
エルダの「ヒカル、大丈夫?」と言う声が遠のいた。
目を覚ましても、リラはまだ怒っていた。枕元に立って、俺を見下ろしている。
「に〜にぃが悪いんだからね」
「ごめん」
リラは、それだけ聞くと、踵を返して家を飛び出していった。
追いかけた。
向かう先は……あの高台だ。
着くと、リラは一人で稽古をしていた。俺たちの秘密の場所で、一本の木に向かって、拳を打ちつけている。
ぼす、ぼす、と鈍い音がする。打つたびに、太い幹が、わずかに揺れた。
俺は、しばらく動けなかった。
やがて、リラの拳が止まった。肩が、息に合わせて大きく上下する。その場に、ぺたりと座り込んだ。投げ出された手のひらが、上を向く。
豆が、いくつも潰れていた。皮が剥けて、赤い肉が覗いている。古い豆の上に新しい豆ができ、それがまた割れた跡があった。
昨日も、その前も、そのまた前の日も、潰しては固め、固めてはまた潰してきたのだろう。
俺の知らないところで。
「リラ」
声を出したつもりだった。ほとんど音にならなかった。
それでも、小さな肩がぴくりと跳ねた。振り返らない。
「ごめん、悪かった」
返事は、なかった。
風が、葉を一枚、二人のあいだに運んできた。地面に落ちる、その小さな音だけが、妙にはっきりと耳に届いた。
俺は、リラの隣まで歩いた。膝を折って、座る。並んでも、リラはこちらを見ない。
手のひらを、開いた。
淡い光が、ふわりと浮かぶ。いつも通りの蛍火だった。
これまで何度も、この光が、二人を仲直りさせてきた。リラが泣いたときも、拗ねたときも、口を聞いてくれないときも。この小さな光が、いつも、二人のあいだに立ってくれた。
俺は、その光を、リラのほうへそっと寄せた。
リラは、見なかった。膝に視線を落としたまま、動かない。
蛍火は、しばらく宙に浮かび、やがて、音もなく消えた。
リラは一度も目を上げなかった。
息が、止まりかけた。
なぜだ。
光が消えたあとの手のひらを、俺は見つめた。
蛍火を見せても、許してくれない。
初めてのことだった。
「痛かったか」
問いかけても、リラはすぐには答えなかった。俯いたまま。風が梢を揺らし、葉擦れの音だけが二人のあいだを満たしていく。
やがて、かすれた声が返ってきた。
「痛くない」
「じゃあ、なんで怒ってる」
沈黙。リラは膝の上に置いた手を見つめている。拳が白くなるほど、強く握り締められていた。
「嘘ついた」
「嘘ついてない」
そう返した瞬間だった。
「ずっと一緒って言ったのに」
その一言で、胸の奥が凍りついた。続く声は、もっと細かった。
「一緒に居れないんでしょ……」
息が止まる。どうして知った。病気のことを、誰から聞いた。巡りかけた問いを、リラの声が押し流していく。
「嘘つき」
怒っているはずの声は、どうしようもなく泣きそうで、小さな肩が震えた。
「嘘つき」
「……大丈夫だ」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど弱かった。
「大丈夫じゃない」
リラは首を振る。
「リラは俺が助ける」
「リラ、そんなのお願いしてない」
静かな拒絶だった。助けてくれと言われたわけじゃない。それでも、助けずにはいられなかった。
泣き虫で意地っ張りで、それでも誰より優しいこの子は、初めて会った日から、いつの間にか俺の日常になっていた。
その日常を失う未来だけは、どうしても受け入れられない。
「俺は諦めない」
「諦めてよ」
「治す方法は絶対にある」
「……治すって何?」
リラは涙で濡れた目をぱちぱちと瞬かせた。
「意味、わかんない」
俺は息を呑んだ。その瞬き方は、演技なんかじゃない。病気を知っている人間の顔ではなかった。
勘違いしていた。
リラが怒っているのは、病気のことじゃない。約束を破って、俺が王都へ行こうとしているからだ。
「試練で、に〜にぃが死んだら……」
リラがぽつりと呟く。
「に〜にぃが行くなら、私も行く」
「ダメだ」
思わず声が強くなる。
「危険すぎる」
「に〜にぃだって、そうじゃん」
「半分が死ぬんだぞ」
「に〜にぃも、でしょ……」
返せなかった。言葉が見つからない。
だからこそ苦しかった。
「俺は、お前だけは生きていてほしい」
ようやく絞り出した言葉に、リラはゆっくりと首を振った。涙が頬を伝う。
「私は……に〜にぃに、生きててほしい」
梢が揺れる。葉擦れの音だけが、静かに二人を撫でていった。
俺は何度も口を開きかけて、そのたびに閉じた。説得なんてできない。この子は、俺と同じだ。守りたい相手のためなら、自分の命なんて惜しくない。だから、引かない。
長い沈黙のあと、俺は小さく息を吐いた。
このまま話しても、きっと平行線だ。
曲がらない。
それなら。
「……じゃあ、勝負だ」
リラは顔を上げる。
涙で濡れた瞳が、真っすぐ俺を見つめた。
「勝った方の言うことを聞く」
風が止む。木々も、小鳥の鳴き声も、世界ごと息を潜めたようだった。
リラは何も答えない。
膝の上で握り締めていた手を、ゆっくりと開く。
小さく震える指先を見つめて、そっと握り直した。
「……約束だからね」
震える声だった。
「絶対負けないから」
その瞳だけは、一歩も逃げなかった。
俺は静かに頷いた。
「ああ」
その一言だけで十分だった。
互いに譲る気など、最初からなかった。
生まれて初めての本気の拳が最初に届く相手は、世界で誰より守りたかった妹だった。




