9話「嘘つき」
約束を守る手段が、約束を破ることしか残されていない日もある。
それでも俺は、リラだけは守ると決めた。
『光一郎様。今からでも、撤回するべきです』
西日が、高台を赤く染めていた。
「お前には関係ない」
見下ろす村は、いつもより綺麗に見えた。煙突から細い煙が上がっている。
リラが、拳を握った。
「手加減、できないよ」
「俺もだ」
浮遊で間合いを潰す。
体を捻り、蹴る。
片手で防がれた。
リラは返しで蹴り上げる。
紙一重で躱す。
回避の回転を殺さず、もう一度蹴り込んだ。
リラは足で受け、押し返す。
俺の体は、後ろへ流された。
『光一郎様。やめてください。他の方法を』
「黙れ」
息が上がる。
「リラを納得させるには、こうするしかない」
リラが、俺を見た。
「なんで、行くの」
「リラには関係ない」
目を逸らした。その一瞬を、あの子は見逃さなかった。
「……この村が、嫌なの?」
声が、掠れていた。
「人間は、鬼が嫌いって、聞いた。だから、出てくんでしょ。この村、から」
違う。そう言いかけて、飲み込んだ。
言えば、リラはついてくる。
それは駄目だ。試練は、鬼でも半数が死ぬ。
リラを、試練に参加させるわけにはいかない。
「に〜にぃも……鬼が、嫌いなの?」
まっすぐな目が、俺を捉えていた。
鬼は嫌いだ。
だが、リラは違う。
違うと、言いたい。
喉の奥まで、その言葉が来ている。
それでも。
嘘をついても。
嫌われても。
リラを、助けたい。
「……そうだ。俺は、鬼が嫌いだ。気持ち悪い顔も。酷い臭いも。低い知能も。全部、嫌いだ」
リラの目から、色が消えた。
「……じゃあ、私も?」
小さく、それだけ言った。
「私のことも、嫌いなんだ」
答えなかった。
嘘でも答えられなかった。
リラはそれを答えとして受け取る。
「……もう、知らない」
その声が、胸に突き刺さる。
もう十分だ。
これ以上、この子を傷つける言葉も、顔も、見たくなかった。
一瞬で終わらせる。
そう決めて、俺は己が至れる極限の炎を解き放った。
轟音を引き、紅蓮の塊が一直線にリラへ奔る。
リラは動かない。
ただ、火球がその身に触れようとした刹那。
白い指先が、空を払った。
それだけだった。
紅蓮は音もなくほどけ、夜霧のように掻き消える。
「……な」
息が止まる。
理解より先に、身体が魔法を紡いでいた。
槍のように圧縮した炎。
横薙ぎに広がる火炎。
炸裂する火球。
惜しみなく魔力を注ぎ込み、立て続けに放つ。
業火は唸り、吼え、世界を焼き尽くさんと牙を剥く。
そのすべてが、リラへ届く。
はずだった。
炎は触れる寸前で、その勢いを失う。
まるで見えない境界に怯えたように。
燃え盛るはずの焔はリラを避け、左右へ流れ、背後へと巡る。
誰一人傷つけることなく、ただ一人の少女だけを中心にして。
いつしかリラは、燃え盛る炎をその身に纏って立っていた。
炎は王を彩る衣へと姿を変えている。
その光景は、美しい。
だが、美しいからこそ、息が詰まるほど禍々しい。
燃え盛る業火を従え、紅蓮を羽織って静かに佇むその姿は、人ではない。
まるで、地獄の王。
幾千幾万の命を焼き尽くし、地獄の底で万火を統べる鬼。
撃つ。
撃つ。
撃つ。
魔力が尽きることも構わず、俺は炎を放ち続ける。
当たっている。
確かに届いている。
それなのに、熱も、衝撃も、傷ひとつ与えられない。
まるで俺の炎は、最初からリラのものだったかのように。
それでも、止まれない。
ここで手を止めた瞬間、負ける。
浮遊魔法で一気に間合いを詰める。
何百回と身体に叩き込んできた連携。
考えるより先に、身体が動く。
紅蓮を叩きつける。
炎はまたしてもリラへひれ伏すように揺らいだ。
だが、その一瞬だけでいい。
炎の帳に紛れ、青白い雷光を奔らせる。
稲妻は真っ直ぐリラを貫き、その身体を一瞬だけ縛りつけた。
今だ。
岩を拳へ纏わせる。
浮遊魔法の勢いを殺さず、真上へ跳ぶ。
重力さえ味方につけ、渾身の拳を振り下ろす。
躊躇う暇はない。
迷えば、その瞬間に終わる。
だが。
リラは静かに顔を上げた。
振り下ろされる岩の拳を見据え、右拳を、ただ真っ直ぐ突き上げる。
拳と岩がぶつかる。
轟音が弾けた。
次の瞬間、岩塊は粉々に砕け散り、破片が雨のように宙を舞う。
あり得ない。
そう思う間もなく、腕を掴まれる。
景色が反転した。
背中から地面へ叩きつけられる。
肺の空気が一気に吐き出される。
息ができない。
指一本、動かせない。
負けた。
視界いっぱいに広がる空は、燃えるように赤かった。
いつから、こんなに強かったんだ。
俺はずっと思っていた。
手加減していたのは、俺の方だと。
違った。
地に伏したまま、その思い上がりが音を立てて崩れていく。
さっきの一撃。
背中が地面へ触れる、その一瞬だった。
リラの腕から、ふっと力が抜けたのが分かった。
殺さないために。
俺を壊さないために。
思い返せば、一年間の稽古もそうだった。
夢中になって、本気の拳を叩き込んでしまったことは、一度や二度じゃない。
それでもリラは痛がることなく、困ったように笑うだけだった。
逆は、一度もない。
一度たりとも、リラは本気で俺を殴らなかった。
今日、ようやく知った。
素手で岩を砕く拳。
あれほどの岩塊を、一撃で粉砕する力。
あの拳が本気で俺を打てば、この身体など跡形も残らない。
だからリラは、ずっと力を抑えていた。
俺と並んで戦うために。
俺を傷つけないために。
俺を、守るために。
ずっと、リラを守っているつもりだった。
……ずっと、守られていたのは、俺のほうだった。
リラが、すっ、と拳を下ろす。
しばらく、静寂が落ちた。風が、草を鳴らして通り過ぎる。
「……私の、勝ち」
小さく、言う。
「約束、だから」
答えられない。
「諦めてよ」
唇を噛む。
血の味が広がっても、「諦める」の一言だけは、どうしても口にできなかった。
その沈黙だけで、答えになってしまった。
「……嘘つき」
リラの目が、みるみる潤む。
「そんなに行きたいなら、勝手にして」
涙をこぼして、走り去っていく。小さな背中が、赤い夕日に溶けて、見えなくなった。
追おうとして、立ち上がった、その一歩目で、膝が笑った。
どさり、と地面に手をつく。心臓が、まだ早鐘を打っている。数秒前まで、この体は本気でリラと殺し合っていた。全力を出し切った体は、鉛のように重い。
追いかけることすら、できなかった。
その夜から、俺は寝台に沈んだ。
◆
部屋に吊るした鬼火が、青白く揺れている。俺は天井の木目を、ただ数えていた。もう何百回目かわからない。
扉が静かに開く。
エルダが、湯気の立つ椀を盆に載せて入ってきた。
「……ご飯、置いておくね」
返事はしない。
エルダは俺を見つめたまま、小さく息をついて、盆を机へ置いた。
代わりに、昨日のまま冷え切った椀を持ち上げる。
一口も減っていなかった。
「ちゃんと……食べてね」
その声も、俺は聞こえないふりをした。
扉が閉まる。
しばらくして。
扉の向こうから、小さく、息を殺して啜り泣く声が聞こえた。
「お願い…だから……食べて……」
俺は目を閉じることしか、できなかった。
(負けた)
その一言が、頭の中で反響し続けている。
本気だった。前世の知識も、この世界で覚えた魔法も、持てるすべてを注いだ。それでもリラは、たった一撃で、俺を沈めた。妹一人に届かない者が、鬼ですら半数が死ぬ試練を、どうやって越えるというのか。
(俺には……無理だ)
天井の木目が、滲んで、ぼやけた。
だが、俺を寝台に縛りつけていたのは、負けたことだけではなかった。
俺は、リラが一番傷つく言葉を、選んで刺した。あれは、救うための嘘だ。
だが、救えなければ、ただ妹を傷つけただけになる。
試練で死ねば、残るのはあの言葉だけ。
「鬼は嫌いだ」
それが、俺の最後の言葉になる。
それだけは、嫌だった。
それでも、目を覚ましては、あの瞬間を思い返す。
眠れば、夢の中でも負けていた。
差し込む光の角度と、運ばれてくる食事だけが、日が過ぎたことを教えてくれる。
体の痛みは薄れても、胸の奥だけは、何日経っても軽くならなかった。
そして、何度目かの朝。
体は、相変わらず重い。腹は空いているはずなのに、何も食べる気になれない。俺は寝たまま、ぼんやりと天井を眺めていた。
その静寂を破って、声が響いた。
『光一郎様』
俺は、答えない。
『五日間、生命維持に必要な最低限の栄養を、下回っています。このままでは、試練の前に、体が壊れます』
「……黙れ」
『光一郎様。あなたには、魔法があります』
「魔法、ね」
俺は天井へ手をかざす。指先に赤い炎が揺れた。
「見ただろ。この炎をリラに真正面から全力で撃ち込んだ。それでも火傷ひとつ負わなかった」
炎は小さく弾けて消える。
「炎も雷も岩も全部だ。俺の魔法は鬼には効かない。人間の俺じゃ勝てない」
静寂のあと、コーシーが尋ねた。
『なぜ、真正面から力をぶつけたのですか』
「……何が言いたい」
『効かなかったのは、魔法だからではありません』
「違う!」
寝台を叩く。
「全力を出した。それでも届かなかったんだ」
拳を握り締める。
「俺は弱い。それだけだ」
『負けたのはあなたが、“力そのもの”をぶつけたからです。相手が絶対的に強い場所で、正面から力比べを挑んだ。それは、私の知る光一郎様の戦い方では、ありません』
しばらく沈黙が続き、コーシーが静かに言う。
『前世のあなたは、腕力で釘を打つ人ではありませんでした。テコを使う人でした。重いものを、力で持ち上げず、滑車で吊る人でした。あなたは、力で戦ったことなど、一度もない。あなたはいつも“知恵”で戦ってきた』
その瞬間、止まっていた歯車がカタンと回った。
そうだ。
俺は力ではなく、知恵で生きてきた。
リラの泣きそうな顔が浮かぶ。
力で守れないなら、知恵で守ればいい。
俺は重い体を起こした。
「鬼は強い。その事実は変えられない」
『はい』
「だが、事実だからこそ、“計算に入れられる”。強さが一定なら、それは変数ではなく、定数だ。定数なら、式に組み込める。組み込めるなら、利用できる」
鬼の体は硬い。魔法は効かない。
だが、鬼も地面に立ち、空気を吸い、この世界の法則には従っている。
「俺は鬼を正面から倒そうとしていた。でも狙うべきは鬼じゃない」
寝台の縁を強く握る。
「魔法をただ放つだけじゃない。物理法則を利用し、魔導物理学として組み直す。そうすれば、鬼を超えられる」
初めて、コーシーの声にわずかな笑みが混じった。
『おかえりなさいませ、光一郎様』
床の上に、記録帳が積み上がっていた。
背表紙の擦り切れた古いものから、まだ角の立った新しいものまで。六年分。この世界の理不尽を、ひとつずつ言葉に翻訳してきた記録だ。
鬼火の下で、一冊目を開いた。
幼い俺の字で書かれた仮説が並んでいる。
炎は空気から燃えるものを集め、水は湿った大気や自然から引き寄せる。
魔法とは、無から有を生む奇跡じゃない。もともとそこにあるものを、集め、運んでいるだけの可能性がある。
余白に、当時の走り書きがある。
【魔力そのものには、とんでもないエネルギーが詰まっているはずだ】
「だよな」
昔の自分に、相槌を打つ。
『同意します』とコーシー。『現象を手助けするだけでこの出力なら、直接ぶつけた威力は計り知れない。当時も、そう結論しています』
その次のページには、考察が続いていた。
『なら、炎や水へ変換する必要はない。そのまま叩きつければいい』
魔力弾。
魔力弾は、体から離れると霧散した。
ページの隅へ殴り書きされた一文。
【魔力は、自分以外に、届かない】
……魔力は直接、攻撃には使えない。
六年前の俺が出した結論が、それだった。
あとは、めくるほどに赤字が増えるだけだった。思いつく手は、過去の俺がとうに潰し尽くしている。
鬼火が燃え尽き、空が白む頃。俺は、山の底に近い一冊を引き寄せた。
九十冊目。浮遊魔法。
この魔法だけが、ずっと、手触りが違った。
浮くとき、俺の体は、下から押されている。風とは違う。風なら、当たったものは流れて逃げていく。だが浮遊の力は、当たっても逃げない。俺の体に、留まり続ける。
炎も水も、魔力を別の何かに変えてから使う。だが、浮遊は違う。
「浮遊だけは、魔力が、魔力のまま、俺に触ってる感覚だ」
『はい。変換をはさまず、あなた自身に干渉している可能性が高いです。唯一の例外です』
魔力は、体から離れられない。攻撃には、使えない。
だが、待て。
浮遊は、体から離れない力だ。俺を浮かせ、支え、空中に足場さえ作れる。
(足場が、作れるなら)
椅子から、立ち上がっていた。
(同じ理屈で、壁も、作れるかもしれない)
鬼の攻撃から身を守ることなら、できるかもしれない。
明け方の裏庭。
風が、汗ばんだ首筋を冷やす。
「コーシー。記録を頼む」
『はい』
最初は、失敗の連続だった。
足元にしか、置けない。横に向けると、消える。斜めにすれば、崩れる。何度も、虚空をなぞった。足場を立てるのではなく、起こす感覚。床に敷くのではなく、目の前に、板のように、壁のように。
二十回。三十回。汗が、額を伝う。
そして、目の前の虚空に、確かな手応えが生まれた。
見えない。だが、そこに、ある。押しても逃げない、俺だけの壁が。
陽はとうに落ち、裏庭は月光に沈んでいた。
「試すぞ」
右手に炎を編む。
狙うのは、自分の目の前の地面。
放った瞬間、炎が地面に叩きつけられ、爆ぜた。
轟音。
まともに喰らえば吹き飛ぶほどの爆炎が、俺へ襲いかかる。
俺はとっさに身をかがめ、見えない壁の陰へ潜り込んだ。
爆風は壁にぶつかり、左右へ裂けるように流れていく。
壁からはみ出していた髪がちりりと焦げ、服の裾も熱で焼けた。
だが、壁に隠れていた体には、爆炎は一切届かない。
熱も、衝撃も、受け止められていた。
月明かりの下、俺はゆっくりと立ち上がる。
「できた」
『成功です』
攻撃には使えないはずの魔力が、壁というかたちでなら、外からの力を、堰き止める。
だが、すぐに欠点を記録帳にまとめた。
一つ。狭い。壁は、直径五十センチ程の円形で、体のすぐそばにしか置けない。数メートル先に展開する器用な真似はできない。
二つ。タイミングが、すべてだ。常時張るには、消耗が激しすぎる。相手の攻撃が当たる、その瞬間に合わせて、置く。早すぎれば、敵は軌道を変える。遅れれば、死ぬ。拳を、顔の数センチ手前で受け止める。そういう芸当だ。
(普通なら、無理だ)
だが、俺は思い出す。
この一年。ガルドとリラと稽古を続けてきた。鬼の拳を。蹴りを。人間の数倍というスピードを、この体に刻み込んできた。
鬼の速さには、慣れている。見える。読める。合わせられる。
リラとの日々が、俺を守る魔法になる。
魔力壁は、ただ攻撃を防ぐ盾じゃない。衝撃を受けても逃がさず、そのまま受け止め、押し返す。
鬼が岩をも砕く拳を壁へ叩きつければ、行き場を失った力は、まっすぐ鬼自身へ還る。
(相手が強ければ、強いほど)
(その強さが、そのまま、刃になる)
殴らなくていい。傷つけなくていい。あいつらの力を、そのまま返してやればいい。
「これだ」
記録帳を閉じる。六年分の積み重ねが、手のひらに、ずしりと乗る。
『光一郎様、試練まで、あと半年です』
「ああ」
窓の外では、月が村を淡く照らしている。
あの高台も、きっと同じ月の下だ。
俺は、月に背を向けた。
「続けるぞ、コーシー」
『はい。喜んで』
六年分の記録を抱え、俺は再び前を向く。
あの日の嘘も。
あの涙も。
あの約束も。
全部背負って、俺は試練へ行く。
嘘つきのままでは、終われない。
前回の更新から、少し間が空いてしまいました。
お待ちくださった皆さまには、申し訳ありません。
筆の歩みは相変わらずゆっくりですが、一話一話を大切に紡いでいきたいと思っています。
これからも、気長にお付き合いいただけましたら幸いです。




