10話「ゼルガ」
愛や覚悟で確率は変わらない。
純粋に確率を信じたほうが、間違いは少ない。
「そうだろ?コーシー」
『光一郎様の、おっしゃるとおりです』
俺は、確率を上げるために今日もここに来た。
朝の光は、まだ冷たい。
村の中央の広場に、人影はない。息を吐くと、白くなった。
昼になれば違う。
広場の中央は、強い鬼たちの場所になる。広く間合いを取って、好き勝手に稽古を始める。俺は端に座って、その動きを盗み見るだけだ。近づけば、相手をさせられるかもしれない。それだけは、ごめんだった。
右手を、上げる。
空中に、土が集まる。魔力に引かれるように重なり、圧縮され、ひとつの岩になる。人の背より大きい。俺はそれを、空へ押し上げていく。
(もっと高く)
岩が朝日を遮った。
右手を、握る。
岩が、内側から砕けた。音は鈍い。無数の破片が、光をまとって降ってくる。ひとつ、ふたつ、数えるひまはない。
俺は魔力を、掌の前に薄く張った。
魔力壁。
最初の破片が当たり、砕けた。次。弾く。次。弾く。
速い。
二十個目で、タイミングがずれた。
壁を張るより先に、破片が肩を打った。鈍い痛みが背中まで走る。膝が落ちる。残りの破片が、頭の上を通り過ぎて、地面に散らばった。
息が上がっていた。
肩に手をやる。布が裂けて、血がにじんでいる。何度目かは、数えていない。
俺は立ち上がった。
(……まだ足りない)
リラの顔が浮かんだ。俺を見下ろしていた顔。手加減されていたと知らずにいた自分。あの日から、朝はずっとここにいる。
リラは、知らない。
病気のこと。
(あと八年……)
そこで、止めた。
考えても、岩は砕けない。俺はもう一度、右手を上げた。
◆
昼が近づき、稽古場に鬼の子が集まる。
俺は井戸のそばで、水をかぶっていた。体中の傷がしみる。近くに、三人の鬼の子がしゃがんでいた。角がまだ丸い。青い頬、赤い頬。木の枝で地面に絵を描いている。
「オレ、世界一、強い戦士なる」
いちばん大きい子が言った。枝を槍のように構える。
「オレは、鬼神様みたいな、英雄」
「ボク、世界を守る、騎士団」
三人が、笑う。
この村の子は、みなその話をする。試練を越えた者だけが、戦士になれる。昔の英雄も、みんな越えてきた。だから鬼は、試練を誇る。
『鬼族にとって試練は、通過儀礼であり、信仰に近いものです』
コーシーが、頭の奥で言った。
(……そうか)
俺は、水を絞った。
俺には、関係ない。
戦士になりたいわけじゃない。英雄でもない。ただ、リラを救いたい。救うには、試練を越えるしかない。それだけだ。
鬼の子たちは、まだ笑っている。
背後で、砂を踏む音がした。
いつからそこにいたのか、分からなかった。振り返ると、鬼の子が立っていた。角は二本。皮膚は青みがかって、目だけが乾いている。笑っていない。
「人間か」
俺は、水の桶を置いた。
「そうだ」
鬼は動かない。三人の鬼の子が、いつのまにか静かになっている。
この鬼のことは、知っていた。いつも広場の中央で稽古している鬼だ。ゼルガと呼ばれている。
ゼルガは俺の全身の傷を見て言う。
「試練、受けるのか」
「受ける」
「戦士に、なりたいのか」
「なりたくない」
ゼルガの口の端が、わずかに動いた。笑ったのかもしれない。
「じゃあ、何故だ」
リラの顔が、一瞬よぎった。
喉まで出かかって、飲み込んだ。
「お前には関係ない」
ゼルガは、しばらく黙っていた。それから、乾いた声で言った。
「人間は、どうせ死ぬ。諦めろ」
「黙れ、鬼」
空気が、変わった。子どもたちが、そろそろと後ずさる。俺は、拳を握っていた。血の乾いた肩が、また熱を持つ。
ゼルガが、一歩、前に出た。
「お前の覚悟。試してやるよ」
「望むところだ」
ゼルガは俺の横を通り過ぎる。
「来い」
短く、それだけ言った。
連れて行かれたのは、広場の中央だった。いつもは端から眺めるだけの場所に、俺は立っていた。鬼たちが、ひとり、またひとりと集まってくる。
「ゼルガだ」
「人間と?」
「物好きだな」
声は小さい。
誰も止めようとはしなかった。ただ、円を描くように間合いを空ける。いつの間にか、俺とゼルガだけが中央に残っていた。
ゼルガが、俺を見る。
「来い」
その一言で、始まった。
俺は掌を突き出し、炎を飛ばす。まっすぐ、ゼルガの胸へ。
当たる。そう思った。
ゼルガの肩が、わずかに傾いた。
炎が、肩をかすめ、空を焦がして消える。
俺は続けて、ゼルガの足元の土を盛り上げる。槍のように突き上げた。
今度は首が、少し傾く。
土槍は軌道を変え、頭を外れて砕け散った。
『光一郎様、魔法が逸れています』
「……分かってる」
なら、逃げ場をなくす。
俺は両手を広げた。ゼルガの周りに、炎を四つ。前、後ろ、左、右。同時に、内へ。
どこへ動いても、当たる。
ゼルガが、腕を上げた。
四つの炎が、揃ってゼルガの体を撫でるように逸れて、消えた。
「……なんだ、それ」
見物の鬼たちが、低くどよめいた。
今回は、腕を上げた瞬間だった。
奴が体を動かすたび、魔法の流れが変わる。
なら、魔法を逸らせる隙を与えなければいい。距離を潰す。至近距離なら、軌道を変える前に叩き込める。
俺は地を蹴り、一気に間合いを詰める。
その瞬間だった。
ゼルガの腕が霞む。伸びた爪が、頬をかすめた。
熱が走る。
頬を伝う、生ぬるい感触。
避けきれなかった。
あとほんのわずか遅れていれば、頬の肉ごと抉り取られていた。
俺は、飛びのいた。
『警告します。対象は本気です』
コーシーの声が、硬い。
頬の血を、手の甲で拭う。ゼルガは、追ってこない。ただ立って、こっちの息が整うのを待っている。
もう一度、踏み込む。
炎、盾、浮遊、雷、岩。武術。俺は、持っているものを、全部混ぜた。頭のなかで、コーシーが数字を回している。魔力の残量。ゼルガの癖。次の一手。
ゼルガが、踏み込んだ。いつもより深い。俺は横へ逃げた。地面を、ゼルガの拳が抉った。土が噴き上がる。一拍前まで立っていた場所に、人ひとりぶんの穴が空いていた。
背筋が、冷えた。
(……当たっていたら)
考えるまでもない。この鬼は、殺す気で振っている。
攻防が、速くなる。
息が、切れ始めていた。ゼルガも、汗をかいている。お互いの手数が、拮抗していく。
ゼルガが、体を沈めた。
これまでで、いちばん大きな踏み込み。渾身の一撃が来る。俺には、分かった。
俺は、完璧なタイミングで壁を張った。
ゼルガの拳が、壁に当たり弾かれる。
今度は、ゼルガの体が流れた。
姿勢が、崩れる。
上体が、大きく開いた。
隙。
『成功確率、五割』
コーシーの声が、耳を打った。
(撃てる)
掌に、魔力が満ちていた。炎をここへ、全部を叩き込めば。
五割。
当たれば、勝つ。
外せば、反撃が来る。
さっきの穴が、頭をよぎった。
俺の足が、止まった。
あの拳が、今度は俺に。七割を切る勝負はしない。半分の賭けに、命を乗せる理由がなかった。
俺は、跳んで距離を取った。
ゼルガが、体勢を立て直した。
「なぜ、止めた」
俺は、息を整えながら言った。
「勝てる保証がなかった」
ゼルガは、少し、首をかしげた。
「それで、止めるのか」
「危険な賭けはしない」
ゼルガの目から、さっきまでの熱が、引いていく。
「命を賭けられない者に、試練を受ける資格はない」
ゼルガが言った。声に、抑揚はなかった。
「お前はいざという時、逃げる」
俺は、動けなかった。
「臆病者は、鬼になれない」
「鬼になんか、なりたくない」
そう返した。声は、思ったより静かに出た。
ゼルガは、それ以上、何も言わなかった。背を向けて、歩き出した。稽古場の子どもたちが、道を空ける。青い背中が、遠ざかっていく。
俺は、その場に残された。
◆
帰り道は、一人だった。
傷が、歩くたびに疼く。頬の血は、乾いて突っ張っている。夕方の光が、木々のあいだから斜めに差していた。
歩きながら、さっきの隙を思い返す。
鬼と互角に、打ち合えた。動きを読んで、壁を合わせて、鬼を止めた。リラのときとは違う。
あの一撃。撃っていたら。
合理的な判断だったはずだ。半分の確率に、命は乗せない。間違っていない。
それなのに。
(負けたのは)
拳を、握った。
(……心だ)
その言葉が、いちばん、しっくりきた。
握った拳に、力が入りすぎて、爪が掌へ食い込んだ。
どれくらい歩いただろう。
ふと顔を上げる。
家は、とっくに通り過ぎ、村の端だった。
そのとき。
低く押し殺した声が、風に乗って届いた。
俺は足を止める。
少し先の木立の陰に、二つの影があった。
ひとりは、ヴァルム先生だった。もうひとりは、クレイヴンだった。
背は高くない。鬼にしては痩せている。顔に傷があった。頬から顎まで、深く走った傷。その傷の鬼は、腕を組んで、先生を見ていなかった。
「君ほど、優秀なのに」
先生の声だった。いつもの穏やかさが、少し掠れている。
「何故、分からない」
「お前には、関係ない」
クレイヴンが言った。声は、平らだった。感情のありかが、読めない。
「このままでは、鬼族が……世界が滅ぶぞ」
「お前に協力する気はない」
俺には何の話か分からない。
ただ、あの傷の鬼が、どこか、怖かった。ガルドの怖さとも、エルダの怖さとも違う。何を考えているのか、底が見えない怖さだった。
よく見ようと、静かに身を乗り出した時。傷の上の目が、動いた。
目が、合った。
息が、止まった。見透かされた、と思った。何を、とは言えない。ただ、隠していたものを全部、一瞬でめくられたような感覚だった。
傷の鬼は、先生に背を向けた。
「話は、終わりだ」
そう言って、歩き去っていく。先生が、何か言いかけて、やめた。
俺は、その場を離れた。誰にも、見つからないように。
◆
その夜、ガルドが久々に帰ってきた。
肩に、熊のような大きな獣を担いでいた。白と黒の横縞模様の毛色。牙が長い。ガルドは、それを土間にどさりと下ろして、笑った。
「珍しいの、獲って、きた」
エルダが、目を丸くする。
「まあ。こんな立派なの」
「オレも、試練の前、これ、食った」
ガルドは、俺を見た。目が、いつもより柔らかい。
エルダが、竈に火を入れた。肉を焼く音と、匂いが、家じゅうに満ちていく。脂の匂いが、鼻の奥に届く。
「いっぱい、食べな」
エルダが、俺の皿に、いちばん大きな肉を乗せた。
リラは、机の向こうに座っていた。まだ、口をきいてくれない。俺の頬の傷を、ちらりと見た。それから、ぷいと横を向いた。けれど、立ち上がって出ていくことは、しなかった。
今晩の村は、静かだった。
どの家も、明かりが灯っている。けれど、笑い声は少ない。明日、試練へ向かう子が、この村には何人もいる。半分は、帰ってこない。誰もが、それを知っていて、口にしない。
俺は、肉を噛んだ。温かかった。
リラを、見た。竈の火が、その頬を照らしている。
愛や覚悟で、命は賭けない。
昼間の、五割。
試練も、五割。
それでも行くのは、リラが助かる可能性があるからだ。
「そうだろ?コーシー」
コーシーは何も答えなかった。




