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輪廻天才  作者: 餅真似吸栗丼
1章「鬼神の目覚め」
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8/11

7話「大丈夫」

 命ですら、計算できるものだと思っていた。

 病気もそのひとつだ。


 リラの風邪も例外ではなかった。


 この村には薬はない。それでも風邪を早く治す方法は、たった三つだ。体に良いものを食べ、よく寝て、体を温める。それだけでいい。


 俺はリラにも、その通りのことをした。


「……に〜にぃ」


 寝言だった。何かを探すように、布団のふちから小さな手が伸びてくる。指先が空をかいている。

 そこへ自分の手をそっと近づけると、リラは迷いなく俺の人差し指を握った。


 数時間後、トイレに立とうとして手をほどきかけた。眠ったまま、握る力がぐっと増す。指の骨がミシ、と鳴った。


 鬼の子だ。


 熱で赤くなった頬を見ながら、その当たり前のことを、もう一度だけ思い出した。


 その日の夜、ガルドの書斎で、低い声が二つもつれ合っている。


「あの子は普通じゃない」


 エルダの声だ。いつもの張りがない。糸の切れかけた弦みたいに、語尾が震えている。


「……大丈夫だ」


「……死ぬのよ」


 死ぬ。


 廊下の暗がりで、その二文字だけが妙にくっきりと耳に残った。誰が。何の話だ。ここからでは、細かい言葉は拾えない。


 もう一歩。

 踏み込んだ足の下で、床板が裏切るように軋んだ。


「ヒカル?」


 エルダの足音が、まっすぐこちらへ来る。逃げる間もない。扉が開く。考えるより先に、俺は浮遊魔法を放っていた。


「気のせいね」


 そう呟いて、エルダは扉を閉めた。


 天井に背を貼りつけたまま、肺の底に溜めていた息をゆっくり吐く。魔力の糸が細る感覚があって、体が少しずつ重くなり、やがて音もなく床へ降りた。膝が、わずかに笑っていた。


「明日、ヴァルム、聞く」


 扉の向こうで、ガルドが言う。


「そうね。今日は寝ましょう」


 俺は足音を殺して、自分の布団へ戻った。リラの寝息だけが、規則正しく闇を満たしていた。


 翌日。

 ヴァルムが帰った後、ガルドが土間で何かをまとめていた。


「どっか行くの?」


「リラの、薬草、取る」


「どこで」


「村の、外」


 外、という言葉に、胸の奥で小さく火が点いた。この村の柵の向こうを、俺はまだ知らない。


「俺も行く」


 エルダの声が、刃のように飛んでくる。


「ダメ!!」


「大丈夫」


 ガルドが胸をドンと叩く。


「俺、強い」


「ヒカルはまだ子供よ!」


「ヒカル、強い」


二人の視線が、同時に俺へ集まった。俺は頷く。


「俺も行く」


エルダは天井を仰ぎ、長く息を吐いた。降参の合図だった。


「絶対離れちゃダメよ」


「おう」


「あんたじゃ、ない」


「うん」


 エルダは家の中央に立つ飾り柱へ歩み寄り、青い火を灯して、手を合わせた。揺れる炎が、彼女の横顔に薄い影を落とす。


「行ってらっしゃい」


 ガルドは、自分の背丈ほどもある鞄を担いで出ようとした。


「あんた、どこまで、行く気」


「薬草、取りに」


「村の、近く。荷物、いらない」


「おう」


 出発は、いったん取りやめになった。


 鞄を下ろし、中身をひっくり返す。果物。着替え。紐。丸い石。何に使うのか見当もつかない木の枝が三本。よくもまあ、と呆れるほどのがらくたが、土間に山を成した。


「遊びじゃないのよ」


 その山を見つめるエルダの手は、もう燃えていた。


「ヒカル、いる、言った」


 ガルドが、しれっと嘘をつく。


 俺は、がらくたの山だけを選んで、灰にした。

 エルダが魔法でそれを巻き上げ、窓の外へ吹き飛ばす。

 土間に、灰の匂いだけが残った。


 ガルドの目に、じわりと水が浮かぶ。


「一番、良い、枝……」


「さぁ、行ってらっしゃい」


 エルダは、笑顔で見送った。


  見たこともない色の花が風に揺れ、背丈ほどもある草が波のようにうねっている。


 幹の白い木、葉が青銀に輝く木。村では見かけない木々が、山肌を彩っていた。


 ふと影が横切る。


 見上げると、大きな鳥が翼をいっぱいに広げ、風に乗って悠々と空を滑っていた。


 あまりの高さに、羽ばたいているようには見えない。


 空そのものが、鳥を運んでいるようだった。


 村の外には、こんな景色があるのか。

 胸の奥が、少しだけ熱くなった。


 薬草を採り終えた帰り道のことだ。


 木立を抜けた瞬間、空気が変わった。鳥の声が、ふっと止んでいる。


 白い影が、音もなく俺たちを囲んでいた。狼に似ていた。ただし、ガルドより大きい。


 俺は咄嗟に火を放つ。


 効かない。


 炎は毛皮の上を滑り、湯気にもならずに消えた。焦りが指先を熱くする。


 撃つ。撃つ。撃つ。


 当たっているのに、何ひとつ届かない。


 俺は、魔獣のいない方へ、走った。


 息が喉を焼く。背後で、地を蹴る重い足音が増えていく。木の根を飛び越え、藪を裂き、気づけば、目の前に空があった。


 崖。


 跳ねた一匹に向かって、残った魔力をありったけ叩きつける。世界が、一瞬だけ白く灼けた。


 目がくらむ。瞬きの後にひらいた視界の中で、白い影は、減るどころか増えていた。


 牙が、迫る。


 横から、影が割って入った。

 ガルドだ。


 彼の腕に、魔獣が食らいついた。太い腕に、赤い線が一本、すっと走る。


 傷ひとつ見たことのなかった大きな背中が、今は、ひどく小さく見えた。


 ガルドは、牙の食い込んだ腕を地面へ叩きつけ、獣を引き剥がした。

 数えれば、もう十匹を超えている。


「ガルド、逃げよう!」


 声が、勝手に裏返った。


「鬼は逃げねえ」


 短く、それだけ言って、ガルドは群れへ突っ込んでいった。飛びかかる影の一つひとつへ、拳が吸い込まれていく。狂いのない、正確な暴力だった。


 十を超えた頃、白い影は潮が引くように散り、森の奥へ消えた。


 静けさが戻る。


 俺は、ズボンが冷たく濡れていることに、そのとき初めて気づいた。水魔法で、何も言わずに全身を流す。


『記録し——』


「黙れ」


 帰り道、ガルドの隣を歩きながら聞いた。


「なんで助けた?」


「家族、救う、当たり前」


 前を向いたまま、ガルドはそう言った。


「一緒に死ぬかもしれなかった」


「大丈夫。俺、頑丈」


 噛まれたばかりの腕で、胸をドンと叩く。


「いてっ」


 そして、その腕を、そっと抱え直した。

 俺は、笑っていいのか分からなかった。


 なぜ、俺を助けた。あの魔獣を前に、自分も無事で済む保証なんて、どこにもなかったはずだ。


 それでもガルドは、一歩も迷わなかった。


 家に着くなり、エルダは怒った。


「嫌な、予感、した。あなたが、張り切る、良いこと、ない」


 ガルドは、顔じゅうの皺を寄せて言う。


「ヒカル、無事」


「あなた、大怪我。ヒカル、濡れてる」


「大丈夫。俺たち、頑丈」


 ガルドが胸を張る。


 俺も、つられて胸を張り、頷いてみせた。


 エルダは、糸が切れたように肩を落とし、「はぁ」と長い息を吐いた。怒りの行き場が、どこにもないという顔だった。


 そのとき、奥の部屋から、こもった咳が聞こえた。


「に〜にぃ、どこ〜」


 俺はリラの枕元へ行く。


「ここにいる」


「どこにも行かないで」


「ああ」


 人差し指を、一本立てる。

 リラの小さな手が、それを握る。これをすると、リラは落ち着くらしい。理由は、俺にも分からない。


 エルダが、湯気の立つお椀を運んできた。薬草を煮出したものらしい。


「げ〜」


 顔をしかめながらも、リラはそれを飲み干した。


 蛍火を一つ、宙に放つ。淡い光がゆっくり漂い、リラの瞼が、その光を追ううちに、静かに落ちた。



 翌朝、ばたばたと軽い足音がして、リラが部屋に飛び込んできた。


「に〜にぃ、昨日ありがと!」


「何が」


「薬草、取って来てくれた」


「ああ」


「わたしもカキカキする」


「いい」


「かして」


 リラが記録帳をひったくり、何かを描きはじめる。


「やめろ」


 奪い返したそこに、俺がいた。


 丸い顔に、棒の手足。それだけなのに、不思議と誰が描かれているのか分かった。


 体のまわりを、名前のないもやもやが囲んでいた。

 風なのか、光なのか、それとも「いる」という気配そのものなのか。四歳の世界では、言葉にならないものほど、いちばん確かな輪郭を持つらしい。


「これはなに?」


「もわもわ」


「これが、見えてるのか?」


「わかんな〜い」


「何色?」


「見たことない色」


 それ以上の言葉は、出てこなかった。

 リラには、俺に見えない何かが見えているのか。


「コーシー、記録だ」


『記録しました』


 リラの熱が引いて数日後、エルダと二人きりになった。


「リラに魔法使わせちゃダメ」


「なんで?」


「魔力の流れが、不安定になるの」


「不安定。下手ってこと?」


「上手く言えないけど」


 エルダは、言葉を選ぶように間を置いた。


「リラの、これからに関わることなの」


「……分かった」


 魔力が不安定、という説明に、俺はひとまず納得した。リラはまだ、魔法を上手く扱えない。ある程度大きくならなければ、魔力の制御は難しいのだろう。


「コーシー、記録だ」


 ある日、リラがまた風邪をひいた。


 エルダが、真っ先に聞いてくる。


「ヒカル、魔法、使わせた?」


「使わせてない」


「あの子……」


「魔法使うと、風邪引くのか?」


 エルダは、すぐには答えなかった。


「……そう」


「また薬草、取りに行く」


「もうガルドが行った」


「じゃあ、大丈夫か」


「大丈夫じゃない!!」


 声を荒げた自分に、エルダ自身が驚いていた。


「あっ。ごめんなさい。ヒカル。わたし。こんな……」


 言葉が、途中でほどけていく。


 エルダは、泣いていた。

 それきり、俺は何も聞けなくなった。


 なぜ泣くのか、分からない。誰が死んだわけでもない。悲しむような、筋の通った理由は、どこにもないはずだった。


 ガルドが帰ってくるまで、エルダの涙は止まらなかった。持ち帰った薬草をリラが飲み、翌朝、熱はあっさり引いた。


 リラは、外出禁止になった。魔法も禁止。

 それでも何度も、あの高台までこっそりついてきては、見つかって叱られていた。


 その日は、リラがエルダと、久しぶりの散歩に出かけていた。家には、ヴァルムとガルドの声があった。


 俺は、足音を殺して扉まで近づく。


 前の失敗は活かしていた。乾くと固まって薄い膜を張る乾性油(エゴマやアマニに似た、この土地の植物油)を、ただの潤滑剤としてだけでなく、軋む隙間を埋めるパテとして塗り込んである。床は、もう鳴らない。


「長くて十年。それ以上は生きられない」


 ヴァルムの声だった。


「発症を繰り返せば、もっと縮む。治すには、王都へ行くしかない。それでも、完治するかどうか。——もし彼女が、厄災の生まれ変わりだというのなら、いっそ早めに処分——」


 その先は、轟音にかき消された。


 ガルドが、机を叩き壊していた。何度も、何度も、拳を打ちつける。


「ガルド、ガルド、落ち着け」


 ヴァルムの聞いたこともない切迫した声。


 そして、行き場をなくした拳が、今度は飾り柱を殴りつける光景が目に焼き付いた。


『光一郎様、おそらくリ——』


「黙れ!!」


 声に、出ていた。


 ヴァルムが、部屋から出てくる。


「ヒカル。いたのか」


「話、聞こえた」


 ヴァルムは少しの間、俺を見つめた。


「ガルド。ヒカルに話しても、いいんじゃないか」


「……おう」


「知っての通り、リラは魔力操作が不安定だ。本来その体が持つべき魔力とは、違うものが、内側から生まれている。そのせいで、あの子は——あと十年しか、生きられない」


「嘘だ」


「嘘じゃない。現状、この病の致死率は、百だ。万が一は、ない」


「嘘だ……っ」


 息が、うまく吸えなかった。


「ガルド。リラは。リラは、大丈夫、だよな?」


 ガルドは、答えなかった。


 沈黙が、部屋の隅々まで満ちていく。


 リラが、死ぬ。あり得ない。あんなに元気で。俺より、ずっと力も強くて。ずっと一緒だと、おばあちゃんになっても、そう約束したのに。


 リラがいなくなったら、俺は。俺は……


 気づいたときには、涙と鼻水で、顔がぐしゃぐしゃになっていた。


 誰も、何も言えない。壊れた机の脚の影だけが、ゆっくり傾いていく。


「王都へ行けば、助かるのか」


 俺は、濡れた声で聞いた。


「助かる可能性がある、というだけだ」


「行く」


「分かっているのか。王都への試練は、半分が死ぬんだぞ」


「分かってる」


 喉の奥を、無理やり押し開けた。


「行かなきゃ、リラは確実に死ぬ。一パーセントでも助かるなら、俺は行く」


 その時、扉の外で、軽い足音がした。

 散歩から帰ってきたリラとエルダだった。


「に〜にぃ、なんで泣いてるの?」


 首を倒して覗き込んでくる。


「先生、いじめちゃメ!」


 先生に指を向けて頬を膨らませている。


 俺は、急いで顔をこすった。


「ごめん、ごめん。おじさん達は、もう帰るよ」


 先生は帰っていく。


 ガルドは、机を壊したこと、飾り柱を傷つけたことを、気を失うまでエルダに叱られていた。


 その夜、リラが寝静まってから。


 囲炉裏の火は落とされ、飾り柱の青い火だけが、部屋を静かに照らしていた。


「俺、王都へ行く」


「ダメ」


 エルダの返事は、一息も置かなかった。


「絶対にダメ」


「絶対、行く」


 短い沈黙。


 ガルドが口を開く。


「大丈夫。ヒカル、強い」


「あなたは黙って」


 エルダは振り返りもしなかった。


「ヒカル、強い」


「強くても死ぬの!」


 声が震えた。


「ヒカル、死なない」


「死ぬわよ!」


 エルダは立ち上がる。


「鬼ですら半分は帰ってこないの!」


 震える声で続ける。


「ヒカルは、人間なのよ!」


 唇を噛む。


「お願いだから、行かないで」


 その声は、小さかった。


「ヒカルまでいなくなったら……」


 静まり返る部屋。


 ガルドは口をつぐんだ。


 重い沈黙が落ちる。


 俺は拳を握る。


「俺は」


 喉が詰まる。


「リラを助ける可能性が、少しでもあるなら行く」


 エルダは首を振る。


「その優しさは嬉しい」


 涙が頬を伝う。


「でも……」


 声が震える。


「死ぬと分かっている場所へ、送り出せるわけないじゃない」


 俺は青い炎を見つめた。


 揺れる火が、ぼやける。


「リラが助からなくて」


 一度、言葉が止まる。


「俺だけ生き残っても」


 拳を強く握る。


「それを、生きてるって言える気がしない」


 エルダがゆっくり目を閉じた。


「わたしもよ」


 ぽつりと落ちた言葉。


「リラがいない世界なんて……」


 それ以上は続かなかった。


 ガルドが、ゆっくり立ち上がる。


 大きな手を、自分の胸にドンと当てた。


「俺、鍛える」


 低く、力強い声だった。


「俺、最強」


 その手を、今度は俺の胸へ当てる。


 温かく、大きな手。


「ヒカル」


 照れくさそうに笑う。


「最強の、息子」


 思わず笑ってしまう。


 俺はドンと胸を叩いた。


「俺、最強の息子」


 ガルドが嬉しそうに頷いた。


「大丈夫!」


 その一言だけだった。


 エルダは二人を見つめる。


 怒ることもできない。


 泣くこともやめられない。


 長い、長い沈黙。


 やがて、小さく息を吐いた。


 怒りでもない。


 諦めでもない。


 行き場を失った想いが、ようやく降りる場所を見つけたような、長い息だった。


「……止めても、行くのでしょう」


 俺は黙って頷く。


「本当に頑固ね」


 涙を拭いながら笑う。


「誰に似たのかしら」


 ガルドが胸を張る。


「俺」


 エルダは困ったように笑う。


「そういうところよ」


 笑いながら、また涙が零れる。


 エルダは俺の前まで歩いてきた。


 そっと頭に手を乗せる。


 子どもの頃と同じように。


 その手は、少し震えていた。


「必ず帰ってきて」


 俺は頷く。


「うん」


「約束よ」


 その手を、そっと握る。


「約束する」


 エルダは静かに目を閉じた。


「……リラには、秘密よ」


 飾り柱の青い火だけが、誰の言葉も急かさず、三人を静かに照らしていた。


家族の前では、命の計算なんて誰もしない。

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