7話「大丈夫」
命ですら、計算できるものだと思っていた。
病気もそのひとつだ。
リラの風邪も例外ではなかった。
この村には薬はない。それでも風邪を早く治す方法は、たった三つだ。体に良いものを食べ、よく寝て、体を温める。それだけでいい。
俺はリラにも、その通りのことをした。
「……に〜にぃ」
寝言だった。何かを探すように、布団のふちから小さな手が伸びてくる。指先が空をかいている。
そこへ自分の手をそっと近づけると、リラは迷いなく俺の人差し指を握った。
数時間後、トイレに立とうとして手をほどきかけた。眠ったまま、握る力がぐっと増す。指の骨がミシ、と鳴った。
鬼の子だ。
熱で赤くなった頬を見ながら、その当たり前のことを、もう一度だけ思い出した。
その日の夜、ガルドの書斎で、低い声が二つもつれ合っている。
「あの子は普通じゃない」
エルダの声だ。いつもの張りがない。糸の切れかけた弦みたいに、語尾が震えている。
「……大丈夫だ」
「……死ぬのよ」
死ぬ。
廊下の暗がりで、その二文字だけが妙にくっきりと耳に残った。誰が。何の話だ。ここからでは、細かい言葉は拾えない。
もう一歩。
踏み込んだ足の下で、床板が裏切るように軋んだ。
「ヒカル?」
エルダの足音が、まっすぐこちらへ来る。逃げる間もない。扉が開く。考えるより先に、俺は浮遊魔法を放っていた。
「気のせいね」
そう呟いて、エルダは扉を閉めた。
天井に背を貼りつけたまま、肺の底に溜めていた息をゆっくり吐く。魔力の糸が細る感覚があって、体が少しずつ重くなり、やがて音もなく床へ降りた。膝が、わずかに笑っていた。
「明日、ヴァルム、聞く」
扉の向こうで、ガルドが言う。
「そうね。今日は寝ましょう」
俺は足音を殺して、自分の布団へ戻った。リラの寝息だけが、規則正しく闇を満たしていた。
翌日。
ヴァルムが帰った後、ガルドが土間で何かをまとめていた。
「どっか行くの?」
「リラの、薬草、取る」
「どこで」
「村の、外」
外、という言葉に、胸の奥で小さく火が点いた。この村の柵の向こうを、俺はまだ知らない。
「俺も行く」
エルダの声が、刃のように飛んでくる。
「ダメ!!」
「大丈夫」
ガルドが胸をドンと叩く。
「俺、強い」
「ヒカルはまだ子供よ!」
「ヒカル、強い」
二人の視線が、同時に俺へ集まった。俺は頷く。
「俺も行く」
エルダは天井を仰ぎ、長く息を吐いた。降参の合図だった。
「絶対離れちゃダメよ」
「おう」
「あんたじゃ、ない」
「うん」
エルダは家の中央に立つ飾り柱へ歩み寄り、青い火を灯して、手を合わせた。揺れる炎が、彼女の横顔に薄い影を落とす。
「行ってらっしゃい」
ガルドは、自分の背丈ほどもある鞄を担いで出ようとした。
「あんた、どこまで、行く気」
「薬草、取りに」
「村の、近く。荷物、いらない」
「おう」
出発は、いったん取りやめになった。
鞄を下ろし、中身をひっくり返す。果物。着替え。紐。丸い石。何に使うのか見当もつかない木の枝が三本。よくもまあ、と呆れるほどのがらくたが、土間に山を成した。
「遊びじゃないのよ」
その山を見つめるエルダの手は、もう燃えていた。
「ヒカル、いる、言った」
ガルドが、しれっと嘘をつく。
俺は、がらくたの山だけを選んで、灰にした。
エルダが魔法でそれを巻き上げ、窓の外へ吹き飛ばす。
土間に、灰の匂いだけが残った。
ガルドの目に、じわりと水が浮かぶ。
「一番、良い、枝……」
「さぁ、行ってらっしゃい」
エルダは、笑顔で見送った。
見たこともない色の花が風に揺れ、背丈ほどもある草が波のようにうねっている。
幹の白い木、葉が青銀に輝く木。村では見かけない木々が、山肌を彩っていた。
ふと影が横切る。
見上げると、大きな鳥が翼をいっぱいに広げ、風に乗って悠々と空を滑っていた。
あまりの高さに、羽ばたいているようには見えない。
空そのものが、鳥を運んでいるようだった。
村の外には、こんな景色があるのか。
胸の奥が、少しだけ熱くなった。
薬草を採り終えた帰り道のことだ。
木立を抜けた瞬間、空気が変わった。鳥の声が、ふっと止んでいる。
白い影が、音もなく俺たちを囲んでいた。狼に似ていた。ただし、ガルドより大きい。
俺は咄嗟に火を放つ。
効かない。
炎は毛皮の上を滑り、湯気にもならずに消えた。焦りが指先を熱くする。
撃つ。撃つ。撃つ。
当たっているのに、何ひとつ届かない。
俺は、魔獣のいない方へ、走った。
息が喉を焼く。背後で、地を蹴る重い足音が増えていく。木の根を飛び越え、藪を裂き、気づけば、目の前に空があった。
崖。
跳ねた一匹に向かって、残った魔力をありったけ叩きつける。世界が、一瞬だけ白く灼けた。
目がくらむ。瞬きの後にひらいた視界の中で、白い影は、減るどころか増えていた。
牙が、迫る。
横から、影が割って入った。
ガルドだ。
彼の腕に、魔獣が食らいついた。太い腕に、赤い線が一本、すっと走る。
傷ひとつ見たことのなかった大きな背中が、今は、ひどく小さく見えた。
ガルドは、牙の食い込んだ腕を地面へ叩きつけ、獣を引き剥がした。
数えれば、もう十匹を超えている。
「ガルド、逃げよう!」
声が、勝手に裏返った。
「鬼は逃げねえ」
短く、それだけ言って、ガルドは群れへ突っ込んでいった。飛びかかる影の一つひとつへ、拳が吸い込まれていく。狂いのない、正確な暴力だった。
十を超えた頃、白い影は潮が引くように散り、森の奥へ消えた。
静けさが戻る。
俺は、ズボンが冷たく濡れていることに、そのとき初めて気づいた。水魔法で、何も言わずに全身を流す。
『記録し——』
「黙れ」
帰り道、ガルドの隣を歩きながら聞いた。
「なんで助けた?」
「家族、救う、当たり前」
前を向いたまま、ガルドはそう言った。
「一緒に死ぬかもしれなかった」
「大丈夫。俺、頑丈」
噛まれたばかりの腕で、胸をドンと叩く。
「いてっ」
そして、その腕を、そっと抱え直した。
俺は、笑っていいのか分からなかった。
なぜ、俺を助けた。あの魔獣を前に、自分も無事で済む保証なんて、どこにもなかったはずだ。
それでもガルドは、一歩も迷わなかった。
家に着くなり、エルダは怒った。
「嫌な、予感、した。あなたが、張り切る、良いこと、ない」
ガルドは、顔じゅうの皺を寄せて言う。
「ヒカル、無事」
「あなた、大怪我。ヒカル、濡れてる」
「大丈夫。俺たち、頑丈」
ガルドが胸を張る。
俺も、つられて胸を張り、頷いてみせた。
エルダは、糸が切れたように肩を落とし、「はぁ」と長い息を吐いた。怒りの行き場が、どこにもないという顔だった。
そのとき、奥の部屋から、こもった咳が聞こえた。
「に〜にぃ、どこ〜」
俺はリラの枕元へ行く。
「ここにいる」
「どこにも行かないで」
「ああ」
人差し指を、一本立てる。
リラの小さな手が、それを握る。これをすると、リラは落ち着くらしい。理由は、俺にも分からない。
エルダが、湯気の立つお椀を運んできた。薬草を煮出したものらしい。
「げ〜」
顔をしかめながらも、リラはそれを飲み干した。
蛍火を一つ、宙に放つ。淡い光がゆっくり漂い、リラの瞼が、その光を追ううちに、静かに落ちた。
翌朝、ばたばたと軽い足音がして、リラが部屋に飛び込んできた。
「に〜にぃ、昨日ありがと!」
「何が」
「薬草、取って来てくれた」
「ああ」
「わたしもカキカキする」
「いい」
「かして」
リラが記録帳をひったくり、何かを描きはじめる。
「やめろ」
奪い返したそこに、俺がいた。
丸い顔に、棒の手足。それだけなのに、不思議と誰が描かれているのか分かった。
体のまわりを、名前のないもやもやが囲んでいた。
風なのか、光なのか、それとも「いる」という気配そのものなのか。四歳の世界では、言葉にならないものほど、いちばん確かな輪郭を持つらしい。
「これはなに?」
「もわもわ」
「これが、見えてるのか?」
「わかんな〜い」
「何色?」
「見たことない色」
それ以上の言葉は、出てこなかった。
リラには、俺に見えない何かが見えているのか。
「コーシー、記録だ」
『記録しました』
リラの熱が引いて数日後、エルダと二人きりになった。
「リラに魔法使わせちゃダメ」
「なんで?」
「魔力の流れが、不安定になるの」
「不安定。下手ってこと?」
「上手く言えないけど」
エルダは、言葉を選ぶように間を置いた。
「リラの、これからに関わることなの」
「……分かった」
魔力が不安定、という説明に、俺はひとまず納得した。リラはまだ、魔法を上手く扱えない。ある程度大きくならなければ、魔力の制御は難しいのだろう。
「コーシー、記録だ」
ある日、リラがまた風邪をひいた。
エルダが、真っ先に聞いてくる。
「ヒカル、魔法、使わせた?」
「使わせてない」
「あの子……」
「魔法使うと、風邪引くのか?」
エルダは、すぐには答えなかった。
「……そう」
「また薬草、取りに行く」
「もうガルドが行った」
「じゃあ、大丈夫か」
「大丈夫じゃない!!」
声を荒げた自分に、エルダ自身が驚いていた。
「あっ。ごめんなさい。ヒカル。わたし。こんな……」
言葉が、途中でほどけていく。
エルダは、泣いていた。
それきり、俺は何も聞けなくなった。
なぜ泣くのか、分からない。誰が死んだわけでもない。悲しむような、筋の通った理由は、どこにもないはずだった。
ガルドが帰ってくるまで、エルダの涙は止まらなかった。持ち帰った薬草をリラが飲み、翌朝、熱はあっさり引いた。
リラは、外出禁止になった。魔法も禁止。
それでも何度も、あの高台までこっそりついてきては、見つかって叱られていた。
その日は、リラがエルダと、久しぶりの散歩に出かけていた。家には、ヴァルムとガルドの声があった。
俺は、足音を殺して扉まで近づく。
前の失敗は活かしていた。乾くと固まって薄い膜を張る乾性油(エゴマやアマニに似た、この土地の植物油)を、ただの潤滑剤としてだけでなく、軋む隙間を埋めるパテとして塗り込んである。床は、もう鳴らない。
「長くて十年。それ以上は生きられない」
ヴァルムの声だった。
「発症を繰り返せば、もっと縮む。治すには、王都へ行くしかない。それでも、完治するかどうか。——もし彼女が、厄災の生まれ変わりだというのなら、いっそ早めに処分——」
その先は、轟音にかき消された。
ガルドが、机を叩き壊していた。何度も、何度も、拳を打ちつける。
「ガルド、ガルド、落ち着け」
ヴァルムの聞いたこともない切迫した声。
そして、行き場をなくした拳が、今度は飾り柱を殴りつける光景が目に焼き付いた。
『光一郎様、おそらくリ——』
「黙れ!!」
声に、出ていた。
ヴァルムが、部屋から出てくる。
「ヒカル。いたのか」
「話、聞こえた」
ヴァルムは少しの間、俺を見つめた。
「ガルド。ヒカルに話しても、いいんじゃないか」
「……おう」
「知っての通り、リラは魔力操作が不安定だ。本来その体が持つべき魔力とは、違うものが、内側から生まれている。そのせいで、あの子は——あと十年しか、生きられない」
「嘘だ」
「嘘じゃない。現状、この病の致死率は、百だ。万が一は、ない」
「嘘だ……っ」
息が、うまく吸えなかった。
「ガルド。リラは。リラは、大丈夫、だよな?」
ガルドは、答えなかった。
沈黙が、部屋の隅々まで満ちていく。
リラが、死ぬ。あり得ない。あんなに元気で。俺より、ずっと力も強くて。ずっと一緒だと、おばあちゃんになっても、そう約束したのに。
リラがいなくなったら、俺は。俺は……
気づいたときには、涙と鼻水で、顔がぐしゃぐしゃになっていた。
誰も、何も言えない。壊れた机の脚の影だけが、ゆっくり傾いていく。
「王都へ行けば、助かるのか」
俺は、濡れた声で聞いた。
「助かる可能性がある、というだけだ」
「行く」
「分かっているのか。王都への試練は、半分が死ぬんだぞ」
「分かってる」
喉の奥を、無理やり押し開けた。
「行かなきゃ、リラは確実に死ぬ。一パーセントでも助かるなら、俺は行く」
その時、扉の外で、軽い足音がした。
散歩から帰ってきたリラとエルダだった。
「に〜にぃ、なんで泣いてるの?」
首を倒して覗き込んでくる。
「先生、いじめちゃメ!」
先生に指を向けて頬を膨らませている。
俺は、急いで顔をこすった。
「ごめん、ごめん。おじさん達は、もう帰るよ」
先生は帰っていく。
ガルドは、机を壊したこと、飾り柱を傷つけたことを、気を失うまでエルダに叱られていた。
その夜、リラが寝静まってから。
囲炉裏の火は落とされ、飾り柱の青い火だけが、部屋を静かに照らしていた。
「俺、王都へ行く」
「ダメ」
エルダの返事は、一息も置かなかった。
「絶対にダメ」
「絶対、行く」
短い沈黙。
ガルドが口を開く。
「大丈夫。ヒカル、強い」
「あなたは黙って」
エルダは振り返りもしなかった。
「ヒカル、強い」
「強くても死ぬの!」
声が震えた。
「ヒカル、死なない」
「死ぬわよ!」
エルダは立ち上がる。
「鬼ですら半分は帰ってこないの!」
震える声で続ける。
「ヒカルは、人間なのよ!」
唇を噛む。
「お願いだから、行かないで」
その声は、小さかった。
「ヒカルまでいなくなったら……」
静まり返る部屋。
ガルドは口をつぐんだ。
重い沈黙が落ちる。
俺は拳を握る。
「俺は」
喉が詰まる。
「リラを助ける可能性が、少しでもあるなら行く」
エルダは首を振る。
「その優しさは嬉しい」
涙が頬を伝う。
「でも……」
声が震える。
「死ぬと分かっている場所へ、送り出せるわけないじゃない」
俺は青い炎を見つめた。
揺れる火が、ぼやける。
「リラが助からなくて」
一度、言葉が止まる。
「俺だけ生き残っても」
拳を強く握る。
「それを、生きてるって言える気がしない」
エルダがゆっくり目を閉じた。
「わたしもよ」
ぽつりと落ちた言葉。
「リラがいない世界なんて……」
それ以上は続かなかった。
ガルドが、ゆっくり立ち上がる。
大きな手を、自分の胸にドンと当てた。
「俺、鍛える」
低く、力強い声だった。
「俺、最強」
その手を、今度は俺の胸へ当てる。
温かく、大きな手。
「ヒカル」
照れくさそうに笑う。
「最強の、息子」
思わず笑ってしまう。
俺はドンと胸を叩いた。
「俺、最強の息子」
ガルドが嬉しそうに頷いた。
「大丈夫!」
その一言だけだった。
エルダは二人を見つめる。
怒ることもできない。
泣くこともやめられない。
長い、長い沈黙。
やがて、小さく息を吐いた。
怒りでもない。
諦めでもない。
行き場を失った想いが、ようやく降りる場所を見つけたような、長い息だった。
「……止めても、行くのでしょう」
俺は黙って頷く。
「本当に頑固ね」
涙を拭いながら笑う。
「誰に似たのかしら」
ガルドが胸を張る。
「俺」
エルダは困ったように笑う。
「そういうところよ」
笑いながら、また涙が零れる。
エルダは俺の前まで歩いてきた。
そっと頭に手を乗せる。
子どもの頃と同じように。
その手は、少し震えていた。
「必ず帰ってきて」
俺は頷く。
「うん」
「約束よ」
その手を、そっと握る。
「約束する」
エルダは静かに目を閉じた。
「……リラには、秘密よ」
飾り柱の青い火だけが、誰の言葉も急かさず、三人を静かに照らしていた。
家族の前では、命の計算なんて誰もしない。




