6話「感情の空白」
この人なら、理解してくれるかもしれない。
俺は数日で書き上げた紙の束をヴァルム先生に渡した。
「ちょっと見せて」
「はい」
先生は眼鏡を直して紙に軽く目を通した。
「魔力のコントロール方法か。面白い着眼点だ」
先生は顔をあげて、口の端を上げる。
「後でじっくり見させてもらうね」
そう言って紙をカバンに入れた。
「じゃあ、前回の復習をしようか」
手のひらにこぶし大の火球を作った。
「先週より少し早く灯ったね。火も安定している。かなり努力したね?」
「少し、頑張りました」
「ヒカルはなんのために魔法を覚えてるんだ?」
心臓が跳ねた。前世の事を話すべきか。
「コーシー、なんと答えるべきだ?」
『計算します』
ヴァルムが静寂を切る。
「強くなりたいなら覚えておきなさい。魔法は誰かのために使うときに、本当の力を発揮する」
「はい」
誰かのため。
その言葉だけで胸の奥がざらつく。
俺にはそんな相手はいない。
遅れてコーシーが答えを出す。
『「あなたには関係ない」と答えるべきでしょう』
「黙れ、もういい」
先生は右手を出し、手のひらに火を灯した。
二つの炎を見比べる。
先生の炎は青い。俺の炎は赤い。
炎色反応の違い。それだけならいい。
枝を拾って自分の炎に近づけると、枝は黒く焦げ、煙が上がった。
二本目を先生の炎に近づける。
何も起きなかった。
何度見ても不思議な現象だが、先生は顔色を変えない。
手を近づけるが、熱はない。
「コーシー、これは燃焼反応とは別の現象かもしれない」
『その場合、炎ではありません』
「そうだよな。でも炎にしか見えないぞ」
『炎の可能性があります』
「どっちなんだ」
『現在、計算中です』
ゆっくり指先を近づける。
青い炎に触れた瞬間、焼けるような痛みが走った。
「熱っ」
反射的に手を引く。
だが指先に変化はない。
『熱いのであれば炎です』
「そうだよな」
しかし先生の炎は水をかけても消えない。
なんなら水の中でも燃える。
もちろん俺の炎は消える。
「コーシー、炎って水で消えるよな」
『一般的にはそうです』
「消えないぞ」
『では炎ではありません』
「でも熱いぞ」
『では炎です』
「どっちなんだ」
『現在、判定が揺れています』
俺は再び青い炎を見た。
まるで炎の形をした別の何かだ。
そのとき、一匹の虫が青い炎の中に入る。
虫は燃えなかった。
そのまま地面に落ちたのは死だった。
先生は一秒だけそれを見た。
そして視線を戻した。
その夜。
俺は青い炎の観察結果を記録帳に整理していた。
燃焼しない。
水で消えない。
生物を焼かない。
だが熱を持つ。
そして、俺の知る物理法則では説明できない。
「面白い」
俺は紙の端に書き加える。
(欠損要素候補:魔力)
その文字を見つめる。
もし仮説が正しいなら、埋まらなかった最後の空白に届くかもしれない。
視線を落とす。
記録帳の表紙には、一つの名前が記されていた。
【ルミナスコア】
仮説を書き足し、否定し、また書き直す。
理論はまだ完成せず、時間だけが確実に流れていた。
「わたしもやる!」
リラが勢いよく外へ飛び出した。
小さな靴が土を蹴り、ぱたぱたと俺たちの方へ駆け寄ってくる。
最近までよちよち歩きだったとは思えない勢いだ。
先生の口元がふっと緩んだ。
「お兄ちゃんに似て、頑張り屋だな」
「うん!」
リラは胸を張った。
褒められたのが嬉しいのか、得意げに鼻まで高くなっている。
広場の隅では、鬼の子供達が木剣を振り合っている。
先生は腕を組んで、言った。
「リラ、まずは復習からだ」
「うん!」
リラは得意げな顔のまま手のひらを差し出した。
乾いた打ち合いの音が、絶え間なく響いていた。
リラは目を閉じ、教わった通りに魔力を練った。
だが、何も起きない。
数秒。
さらに数秒。
やがて肩が落ちた。
「はぁ〜……だめだ〜」
その場にぺたりと座り込む。
「大丈夫。すぐ出来るようになるさ」
「もっかい」
間髪入れずに立ち上がる。
リラはもう一度、手のひらを前に出した。
結果は同じだった。
それでも先生の視線は離れない。
失敗したことではない。
その手のひらを。
魔力の流れを。
何かを確かめるように見つめている。
リラには才能がない。
それはヴァルムほどの術者なら、最初の三秒で分かることだった。
その夜。
夕食の片付けも終わり、家の中が静かになった頃。
リラは台所の隅にしゃがみ込んでいた。
「ひかるに〜にぃ……」
リラは膝を抱えたまま俯いている。
「見てろ」
俺は手のひらを開く。
淡い蛍火がふわりと浮かび上がった。
「に〜にぃの蛍火だ」
曇っていた瞳が、その光を映して少しずつ色を取り戻していく。
「……お前が見たいなら、俺が何度でも出してやる」
「ほんと?」
「ああ」
そして、今にも消えそうだった笑顔を、そっと咲かせた。
「ずっと?」
「……ああ」
「おばあちゃんになっても?」
「その頃には俺が先に死ぬ」
「じゃあだめ」
リラはぷくっと頬を膨らませた。
次の日。
『光一郎様。昨夜の蛍火の光量が通常比一・三倍を記録しました』
コーシーの報告を聞きながら、俺は記録帳に書き込まれた数値へ目を落とした。
「測定誤差は」
『許容範囲内です』
指先で机を軽く叩く。
原因となる数値が見当たらない。
昨夜と普段の記録を見比べる。
どれも大きな差はない。
だというのに、蛍火だけが一・三倍の光量を示していた。
先生の言葉を思い出す。
「誰かのために……」
あり得ない。
昨夜と普段の数値を、もう一度すべて並べた。
気温。湿度。天気。睡眠。食事。
どれも差はない。測定できる変数は出尽くしている。
それでも蛍火だけが一・三倍を示した。
残った可能性が一つ、頭の隅をよぎる。
昨夜は、リラのために灯した。
変数ではない。
測定出来ない。記録出来ない。再現出来ない。
そんなものを原因に据えるのは、論理の敗北だ。
俺は記録帳を閉じた。
原因が存在しないわけではない。
まだ見つけられていないだけだ。
必ず、何か変数がある。
そう結論づけた。
その日の夜からだった。
「に〜にぃ」
寝台の上から声がした。
「なんだ」
「蛍火」
またか。
俺は記録帳から顔を上げず、指先に魔力を集めた。
淡い光がふわりと浮かび、部屋の隅へ流れていく。
「おやすみ」
「……ああ」
紙をめくる音だけが残る。
しばらくして振り返ると、リラはもう眠っていた。
小さな胸が規則正しく上下している。
俺は再び記録へ目を戻した。
それからしばらくして。
「に〜にぃ」
「なんだ」
「蛍火」
「自分で出せ」
「むり」
「そうか」
蛍火を灯す。
「に〜にぃ」
「なんだ」
「蛍火」
「……」
蛍火を灯す。
「に〜にぃ」
「なんだ」
「蛍火」
「分かった」
いつからか、
夜になると決まって呼ばれるようになった。
理由は聞いていない。静かにしてくれればそれで良かった。
ある夜。
記録帳へ式を書き込みながら、指先に魔力を流す。
淡い光が浮かんだ。
数秒遅れて手が止まる。
静かだった。
振り返る。
リラは既に眠っている。
毛布から小さな手だけが出ていた。
俺はしばらくその光を見た。
それから記録帳へ視線を戻す。
式の途中だった。
だが何を書こうとしていたのか、一瞬だけ思い出せなかった。
そんな日々が続き、記録帳は何冊も増えた。
仮説は積もっては崩れ、崩れてはまた積もった。その繰り返しのうちに季節は巡り、気付けば、この世界に来てから三度目の夏を迎えていた。
この三年で積み上がった理論は増えた。それなのに新しい謎が古い仮説の裾を引き、完成図は霞んでいった。
魔法は感情や気分で、性質も出力も変化する。
つまり数値化できない。脳波が測定出来れば少しは答えに近づくが…。
今日も俺は村の広場へ向かった。
二十冊目の記録帳の束を脇に置き、両手の上に火球を灯す。
「何それ」
声がして、視線を上げた。
木剣を持った鬼の子供が三人立っていた。一人が身を乗り出し、ページを覗き込む。
「うわっ、気持ちわる」
「文字、こんなにあるぞ」
「字、ちっこいし」
俺は紙束へ目を戻した。
「またそんなのやって、強くなれんのか」
「お前、そんなちっこい体で、飯食ってるか」
「毎日魔法ばっか触って、何になる。戦って強くなれ」
火球の揺れだけを見ていた。
「やっぱり変なやつだ」
子供が笑う。
その言葉だけは、妙に聞き慣れていた。
当たり前だろ、俺はお前たちとは違う。
剣を振り回して強さを競うだけの連中と、一緒にされても困る。
そう思った瞬間だった。
手のひらの炎が、ぼっ、と膨らんだ。
子供たちの足が揃って半歩退く。
俺は黙って炎を見つめた。
直径は、いつもの倍を超えていた。
「おい、お前ら」
声がした。
ヴァルムが広場の端に立っていた。
「三人でいじめて。恥ずかしくないのか」
いつもより低い声だった。
子供たちは顔を見合わせると、そのまま散っていった。
「大丈夫か」
「はい。いつものことです」
ヴァルムはしばらく俺を見ていた。何も言わない。
やがて視線を空へ向けた。雲が流れている。ただそれだけの空だった。
「僕も昔は、戦士になりたかった」
一拍置いて続ける。
「魔法なんて使えて当たり前の便利な現象だと思ってた。でも、一冊の本に出会って、変わった」
「体の小さい主人公が、魔法を使い世界を救う伝記だ」
そう言って、ヴァルムは膝の埃を払った。
立ち上がり、こちらへ少しだけ目を向ける。
「僕たちみたいだろ」
その言葉の意味を、本当に理解するにはまだ少し時間が必要だった。
そして季節がひと巡りした頃。
「ひかるに〜にぃ、蛍火教えて」
「……やるのか」
「やる!」
二人で見つけた秘密の場所へ向かう。
広場を見下ろす高台。円を描くように並んだ家々が村を囲んでいる。この景色だけは、いつまでも眺めていられた。
「リラ、魔力が流れている感覚は分かるか?」
「分からない」
俺も最初はそうだった。
魔法なんて信じられなかった。
だが、一度火が灯れば、その感覚は呼吸みたいに当たり前になる。
教えようとしても言葉にならない。
ヴァルムが俺にしたように、魔力を流してみる。
俺の手のひらに、リラの手のひらを重ねた。
ゆっくりと魔力を渡す。
「何か感じるか?」
「……なんか、ぽかぽかする」
「そのまま。火が燃えるところを思い浮かべろ」
リラが目を閉じる。
次の瞬間、金色の炎が弾けた。
爆風に押し流される。
半歩後ろで土が崩れ、ぱらぱらと下へ消えていった。
背中にじわりと汗が滲む。
すぐに体勢を立て直し、リラのもとへ駆け寄る。
「リラ!」
小さな肩が震えていた。
俯いたまま、ぽたりと雫が落ちる。
「……こわかった」
「悪かった」
リラは首を振り、それでも袖を強く握りしめた。
てっきり爆発に怯えたのだと思っていた。
だが観察結果は一致しない。
リラの瞳孔。爆発の瞬間、確かに散大した。恐怖の反応だ。だがそれは三秒で戻った。涙が落ちたのは、その後だ。俺が崖際でよろめき、土が崩れ、半歩、宙へ近づいたあの瞬間。
時系列が合わない。爆発が原因なら、涙は爆発の直後に出るはずだ。
俺は崖を振り返った。崩れた縁。落ちていった土。
リラの視線は、ずっとそこへ向いていた。爆発のあった手のひらではなく、俺が消えかけた縁へ。
「に〜にぃが死んだかと思った」
死んでいない。ここにいる。両手も足もある。事実として、俺は生きている。
それなのに、なぜ。
起きなかった出来事を、なぜ、現実みたいに怖がる。
『光一郎様』
「分かってる。データが足りない」
コーシーは、それきり黙った。
結局、今日のことはエルダには黙っておくことになった。
リラが蛍火を覚える頃には、記録帳が百冊を超えていた。
机の脇に積み上がった束は、もう小さな棚のようになっている。
半年ぶりに訪ねてきた先生は、その一番上を手に取った。
眼鏡の位置を直し、ページをめくる。
紙の擦れる音だけが続いた。
「……これを、全部一人で?」
「はい」
返事のあとも、ページをめくる音は止まらない。
二冊目。
三冊目。
途中で先生の指が止まった。
そのまましばらく黙り込む。
「先生?」
「いや……」
先生は記録帳を閉じた。
「僕がここで教えられることは、もうない」
そう言って束の上へ戻した。
「王都に学校がある」
先生の指先が、机の木目を一本、ゆっくりとなぞった。
「いきません」
指が止まる。
「……最後まで聞いてほしいんだけどな」
責めるふうでもなく、先生は少しだけ笑った。
「研究はここでもできます」
窓の外で、誰かが薪を割っている。乾いた音が、一定の間隔で続いていた。
「君ほどの才能を埋もれさせるのは惜しい」
返事をしなかった。
「王都には、君より優れた研究者もいる」
先生は窓の方へ目をやる。遠くの稜線に、霞んだ街の影。
「ただ、入るのは簡単じゃない。王都へ向かう者には試練が課される。毎年、半数が死ぬ。それでも皆そこを目指す。この村の子供たちもだ」
薪の音が、一度途切れた。
「俺は鬼じゃない」
「そうだね」
先生の声に、ほんのわずか、力がこもった。
「君は特別だ。鬼の村で育った人間。鬼でもなく、ただの人間でもない。どちらの常識にも縛られていない」
膝の上で、指がひとりでに丸まっていた。
「正直に言う。君の研究の半分は、僕にも理解できる。でも半分は、分からない」
先生はそこで言葉を切り、こちらの顔を覗き込んだ。
「王都なら、君の研究を理解してくれる人がいるかもしれない」
理解。
その一語が、喉のどこかに引っかかった。
放課後の、物理準備室。
西日が床に長く伸びて、宙に埃が浮いていた。窓際の席。机の上に置かれたレポート。
誰も、理解できなかった。
部屋は、静かだった。あまりに静かだった。
まばたきを一つ。準備室は消え、目の前には先生がいる。
「僕はね」
先生はまっすぐにこちらを見た。
「君が、世界を変えると思っている」
その声には、隠しきれない熱があった。
「王都で、正しく魔法を学ぶんだ。そして世界を、正しい方向へ導いてほしい」
唇の端が、やわらかく持ち上がる。
「僕と、一緒に」
先生が、なお何か続けようと口を開いた。
その前に、声が出ていた。
「あなたには関係ない!!」
自分の声とは思えないほど、鋭く部屋を裂いた。先生の表情が、止まる。
正しく学ぶ。正しい方向へ導く。
膝の上の拳が、震えていた。誰かのための魔法も、誰かが決めた正しさも、要らない。
世界がどう転ぼうと、知ったことではなかった。
あの理論の、最後の一行。そこに辿り着くことだけが、この胸を灼いていた。
理解されたいわけじゃ、なかった。




