5話「蛍火」
リラが生まれた日、俺には何の感慨もなかった。世界に赤ん坊が一人増えただけの話だ。
だが、その出来事は、思っていた以上に家の景色を変えた。
あの日から、家は急に音を増やした。
壁の向こうで泣き、笑い、誰かがあやす。床板はひっきりなしに軋み、その振動が、寝かされた俺の背中まで伝わってくる。静かだった家に、生まれたての心臓がもう一つ加わったのだと、音だけで分かった。
俺が拾われた数日間と同じように、村の鬼が代わる代わるリラを見に来る。獣の匂いが扉を開けるたびに流れ込み、その都度、毛色の違う恐ろしい顔が天井からこちらを覗き込んだ。
どれも醜悪で、どれも違う醜さだった。そのどれもが、ついでのように俺を愛でていく。指で頬を突き、よく分からない事で笑い、満足げに帰っていく。
不快だった。
ならば、と俺は思う。愛でられる側でいるのをやめればいい。観察する側に回ればいい。
世界中の生物の醜い遺伝子を下水管で発酵させ、無理やり人の形に押し固めたような化物どもでも、研究対象としてなら正面から見ていられる。そう決めた瞬間から、奴らの顔は少しだけ我慢できるものになった。
「魔法、見せて」
祝いに来た鬼にそうねだると、奴らは例外なく喜んだ。
青い炎。掌で転がる水の玉。土が勝手に立ち上がってこしらえる人形。宙に浮く器。室内を撫でていく風。鬼たちは得意げに、子供だましのつもりで、貴重なサンプルを次々と俺の前に並べていった。俺はそれを、一つも逃さず脳とコーシーに刻み、分析した。
「コーシー。この数日の観察結果から何かわかったことはあるか」
『複数あります。最も顕著なのは、この村の鬼たちが光一郎様を家族として認識していることです』
「そんなことは聞いていない」
『重要度は高いと判断しました』
「感情論だ」
『客観的事実です』
「魔法について聞いている」
『魔法に関して有意な法則は発見できませんでした』
魔法についての謎は、深まるばかりだった。
火が出る。理屈が分からない。水が湧く。出どころが分からない。詠唱があるわけでもなく、道具を使うわけでもなく、奴らはただ「やる」と火を出す。観察すればするほど、手がかりが指の間からこぼれていく。
やがて客足が途絶え、退屈が部屋を満たした。
この数日で分かったことがある。リラは揺れるものを目で追う。木彫りの人形には無反応だが、窓の外で揺れる葉にはよく笑う。
俺の指を握る力も日に日に強くなっていた。
観察対象としては興味深い。だが、頭の片隅で魔法の分析は止まらない。
あの日以来、書斎の扉は固く閉ざされたままで、文字から情報を得る道は塞がれている。
残された手段は一つきりだった。
あの野郎に、頭を下げて、教えを請う。
想像しただけで反吐が出た。あんな下等な化物に「教育される」のだ。一週間、俺はその屈辱と退屈を天秤にかけて悩み続け……退屈が、わずかに勝った。
「ガルド、魔法、教えて」
皺だらけの顔が、にっと裂ける。
「任せろ」
その笑みは、人間を馬鹿にするためだけに進化を遂げた巨大な肛門のようで、品性のかけらもない。俺は嫌な予感しかしなかった。
ガルドに抱えられ、庭へ運ばれる。直径三メートルはある切り株の上に、ちょこんと座らされた。
家中に染みついた、牛の腸の奥にいるような臭気から解放され、思いきり息を吸うと、削れた木の匂いが肺の隅々を洗った。新鮮だった。世界はこんなに澄んだ空気を用意していたのかと、少しだけ機嫌が直る。
「火、魔法、教える」
「うん」
「魔力、ここ、集める」
「どこに」
「ここ」
なぜそれで伝わると思っているのか。この怪物は「ここ」と「こっち」の二語で魔法の授業が成立すると本気で信じている。その口は、もはや排泄以上の機能を放棄しているらしい。異世界に教育委員会があれば、即刻通報案件だ。
「次、こっち、流す」
「どこに」
「こっち」
眉間に皺が寄った。いつも緩んでいるガルドの顔が、今は真剣に、自分の掌を睨んでいる。
仕方なく、俺も右手を前へ出した。掌の真ん中に、見えない何かを集める、つもりで目を閉じる。集中する。指先の感覚が遠のき、世界の輪郭がほどけていく。
『……い……さ……』
『こ……い……ろう様』
『伏せて!!』
コーシーの声で、意識が引き戻された。考えるより先に、体が頭を抱えて伏せていた。
次の瞬間、ガルドの掌を中心に世界が膨らんだ。
地面が跳ね、空気が壁になって全身を叩き伏せる。耳の奥で音が割れる。コーシーの警告が半拍遅ければ、俺はあの爆風に首を持っていかれていた。
「ありがとう、コーシー」
『ご無事で何よりです』
顔を上げる。草も木も黒く焦げ、白い煙がゆらゆらと立ちのぼっていた。その中心で、煤まみれのガルドが大の字に倒れている。
家の奥でリラの泣き声が上がった。その声に呼ばれたように、ガルドが薄目を開けた。
「ヒカル、大丈夫?」
俺が答えるより早く、爆発音より大きな怒声が、空気そのものを引っぱたいた。
「ガルド――――ッ!!」
台所の窓から、般若の形相でこちらを睨んでいるのはエルダだった。
ガルドが弾かれたように跳ね起き、俺を小脇に抱えて家へ駆け戻る。
玄関に、エルダが立っていた。
その立ち姿は、開院以来ただの一度も手術を失敗したことのない伝説の外科医のようだった。その目は既に患部を特定し終えていた。ガルドという名の、この異世界で最も治療困難な慢性疾患を。
「魔法、使うな。何回、言った」
「ヒカル、魔法、教える」
「ガルド。魔法、使うな。何回、言った」
「おう」
「おう、じゃない。何回、言った」
「……ごめん」
「ヒカルを巻き込んだ。何回目」
ガルドの巨体が、言葉のひと突きごとに少しずつ縮んでいく。
そこから先、エルダの叱責は超高圧の言葉となって、腐った肛門顔へ無慈悲に押し込まれ続けた。回避は不可能だった。糞尿で満ちた脳内を強制洗浄するように、容赦なく注ぎ込まれていく。ガルドはついに白目を剥き、泡を吹き、盛大な断末魔の痙攣を残して、玄関先に沈んだ。
エルダは一度だけ、それを見下ろした。まだ洗い足りない、とでも言いたげな目だった。
それから、こちらへ向き直る。膝をつき、俺と視線の高さを合わせた。
「ガルドに魔法、使わせちゃダメ」
優しい声だった。
怒りは、すべてガルドに向けられていたらしい。確かに、ガルドが魔法を使うと碌なことにならない。対してエルダは、料理にも洗濯にも、家事のあらゆる場面で当たり前のように魔法を操る。リラの世話に追われて忙しそうだったが——考えてみれば、最初からこの女に聞けばよかったのだ。
「エルダ、魔法、教えて」
「魔法はね、体が覚えるの」
「体、覚える。分からない」
エルダが、ほんの少しだけ笑った。
「ヒカルは賢いから。すぐ、分かるようになる」
答えになっていない。理屈の欠片もない。
なのに、なぜか、胸の奥がすっと軽くなった。
それから数日が過ぎた頃、家を訪ねてきたのは、眼鏡をかけたあの鬼だった。
ガルドが、しっぽを振らんばかりに出迎える。
「ヴァルム、調子、どうだ」
「今のところ、順調だよ」
「そうか。座るか?」
「いや、いい。今日はヒカルくんを借りてもいいかな。魔法を教える約束をしててね」
「おう」
ガルドは親指を立てて応えた。
俺は覚えたてのハイハイで畳を這い、ヴァルムの足にこつんと頭をぶつけた。
「もうハイハイできるのか! 成長が早いな!」
嬉しそうにヴァルムが俺を抱え上げ、外へ出る。
この男は、村の他の鬼とは匂いが違った。獣臭が薄く、抱かれていても、まともに息ができる。それだけのことが、ひどく貴重に思えた。
家から少し離れた木陰に腰を下ろし、ヴァルムが膝に俺を乗せて聞く。
「最初の魔法は、何がいい?」
答えは、とうに決めていた。最初に使うなら、これしかないと。
「蛍火」
返事までに、間があった。
「……ガルドの魔法を、見たのか」
「うん」
ヴァルムが、膝をついた。俺と、目の高さを揃える。
「あれは、失敗魔法だ」
風が、足元の草を撫でて通り過ぎた。
俺はその言葉の意味が掴めず、黙り込んだ。失敗。あの、空に散った光が。
「……まあ、本来は一つに灯るはずの炎魔法が、制御を失って、散り散りになったものだ。普通の魔法より、ずっと難しい」
失敗。そう言われても……それでも。
「蛍火、やりたい」
眼鏡の奥で、目が、少しだけ動いた。
「……まあ。最初なら、できるか。制御が甘いほうが、かえって蛍火に近い。上達すると逆に、できなくなる」
ヴァルムは掌を、こちらへ開いてみせた。
「まずは、見てて」
その掌から、小さな光が生まれた。
ガルドのときほど多くはない。けれどそのぶん、一つひとつが宙をたゆたい、点滅し、ふっと消えていく。夜を先取りしたような、静かな光だった。
「手を、出してみて」
言われるまま、俺はその掌に自分の手を重ねた。
温泉に浸かったような温かさが、指先から染み込んでくる。蛍火が掌を温めながら、皮膚を通り抜けていく——そんな、不思議な感触だった。
「手を離すから。このまま、自分を信じて」
ヴァルムが、そっと手を引いていく。
離れるにつれ、温度が引いていく。蛍火が、一つ、また一つと消えていく。
このままでは、消える。
嫌だ。
その瞬間、俺は目を閉じた。
生まれてはじめて、このままでいたいと、思った。
観察でも、研究でもなく。ただ、これを失いたくないと。
静寂の中で、さっきの温度を、必死に手繰り寄せる。掌に残った余熱の輪郭を、一滴も逃さないように。
「すごいじゃないか! 初めてでできるなんて、思ってなかったよ!」
静寂を破って、ヴァルムが手を叩いた。
目を開ける。
一つの光が、目の前を、ふわり、ふわりと漂っていた。
「できた」
顔が、手が、じわりと熱を持つ。
『光一郎様、おめでとうございます。蛍火魔法、習得です』
「ああ」
俺の初めての魔法は、小さく、儚く宙を漂い、ぱっ、と一度だけ強く輝いて、消えた。
隣でヴァルムが、まだ褒めている。すごい、すごいと、何度も。
その声を聞きながら、俺の頭は、珍しく、凪いでいた。
夜が来た。
部屋の隅で、今日もリラが泣いていた。
理由は分からない。腹が減ったのでも、どこかが痛いのでもなさそうだった。ただ、泣いていた。誰にも届かないものを、暗がりに向かって、ひとりで訴えるように。
俺は、しばらくその小さな体を見ていた。
目を閉じて掌を、開く。
あの昼の温度を思い出す。優しい温かさ。それから、ガルドの掌。宙を泳ぐ、あの不格好な光。
目を開けて、手放した。
光の粒が、暗い部屋に、ぱらぱらと散らばった。
リラが、振り返った。
涙で濡れた顔が、止まる。漂う光を映して、まんまるの目が、いっぱいに見開かれる。
とびきりの笑顔だった。
泣いていたことなど、もう忘れていた。世界にこんなに嬉しいものがあったのかと、はじめて知ったみたいに。
俺は、その顔から、目が離せなかった。
胸の奥が、よく分からない熱で詰まって、言葉にする方法を、俺はまだ知らなかった。
『……記録しておきますか』
コーシーの声が、静かに尋ねる。
「いい」
あの笑顔と胸の熱さは記憶にしっかり刻まれ、世界に赤ん坊が一人増えた話は、いつの間にか妹が一人増えた話に変わり始めていた。




