4話「ヴァルム」
誰にも理解されない道を歩くことには慣れていた。
窓の外を流れる木々を、ヴァルムは一瞥してから目を戻した。
(次はガルドの村か)
馬車の揺れに合わせて眼鏡のズレを直し、ヴァルムは膝の上の手帳に視線を落とした。ページをめくる。そこには数字や図、書きかけの考察が隙間なく並んでいる。
指先で紙に刻まれた計算式をなぞりながら、ヴァルムの目がふと止まった。
細い手。
幼い頃、その細さが何よりも嫌いだった。
鬼族の英雄を夢見て誰よりも訓練したが、仲間たちがたくましく成長していく中、自分だけは取り残されていく。
そんな絶望の中で出会ったのが、一冊の本だった。
【神に成りし鬼】
半分に裂かれて、結末は破り取られている。残された前半だけを、夜が明けるまで読んだ。
生まれつき体に恵まれない主人公が、魔法だけを武器に運命へ抗う伝記。
その日からヴァルムは魔法研究の道へ進んだ。
不意に馬車が大きく揺れた。
手帳が膝から滑り落ちそうになり、ヴァルムは慌てて押さえる。
その拍子で視界に入ったのは、人工魔石の構造図と計算式が並んだページだった。
十年以上追い続けている研究だが、未だに天然魔石を超えるものは作れない。
だからヴァルムは今も旅を続ける。
山を越え、川を渡り、各地の鉱脈を巡る。
鬼族の未来のために。
馬車が木陰を抜けて、光の中へ出た。
ヴァルムは荷物を肩にかけて、扉を押した。
外の空気が入ってくる。土と草の匂い。山に近い村特有の、少し湿った冷たさだった。
三年ぶりだ。
村の入り口に、大きな影が二つあった。
一つは遠くからでも分かる。ガルドは村の誰よりも頭ひとつ大きく、腕を組んで立っていた。ヴァルムの顔を認めるなり顔をほころばせ、大股で近づいてきた。
「来た。よかった」
「久しぶりだ。元気そうだな」
「お前、細くなった」
「研究者はみんなこんなものだ」
ヴァルムは笑った。ガルドも笑う。三年分の時間が、ひとことずつ溶けていくような、そういう再会だった。
もう一つの影は、ガルドの少し後ろに立っていた。ガルドが体ごと感情を出す男なら、クレイヴンはその逆だ。頬から顎にかけて走る傷跡も、まるで最初からそこにあったかのように、静かに収まっている。 目が合うが、クレイヴンは何も言わない。
だがその目には、はっきりとした問いがあった。歓迎ではない。警戒だ。
ヴァルムはクレイヴンに軽く頷いたが、クレイヴンは何も返さなかった。
「早速だがガルド、魔石を見せてもらえるか」
ヴァルムが言うと、ガルドが目を輝かせた。
「おう。来い」
村の外れへと歩きながら、ヴァルムは周囲を眺めた。村の住人の多くは元戦士。老いた鬼が、槍の柄を磨きながら日向ぼっこをしている。
蔵は木々の向こうにあり、ガルドが扉を開けると、油と金属の匂いがした。
壁沿いに、武器が並ぶ。槍、剣、斧、盾、鎧、兜。それぞれが、まだ持ち主の記憶を帯びているように置かれている。
その中で、ひときわ目を引くのがガルドの鎧だ。ガルドの鎧は傷だらけで、まるで戦場そのものを着込んでいるようだった。
その隣にはクレイヴンの鎧。不自然なほど傷がない。
戦い方の違いがそのまま残っている。
かつて、この二人は顔を合わせれば衝突していたと聞くが、今は静かに隣り合っている。
ヴァルムはしばらく、それを眺めた。
この二人は、知っている。
村のことだけではない。何か、もっと深いものを。
ガルドが蔵の奥へ進み、ポケットから鍵を取り出した。
鍵穴に差し込もうとして、合わない。少し角度を変えるが、また合わない。
「……あれ?」
力を込める。ぐにゃっと鍵が曲がった。
「あっ」
ガルドは曲がった鍵を持ったまま、しばらくそれを見下ろした。
クレイヴンが舌打ちをして、魔法を発動すると、曲がった鍵がガルドの手からふわりと浮き、クレイヴンの元へ引き寄せられる。そして音もなく元に戻った。まるで最初からそうだったように。
クレイヴンは魔法で鍵を鍵穴に差し込み回し、鍵を魔法でガルドに飛ばしながら低い声で言う。
「何十回折れば気が済む」
ガルドの手に、鍵がふわりと降りた。本人は気にした様子もなく、鍵を見て目を輝かせている。
「お〜〜。すごい」
クレイヴンが呆れ顔で扉を押し開けた。
ヴァルムはこのやり取りを三度は見ていた。
(……相変わらず馬鹿力というか、馬鹿というか)
口には出さずに部屋に入る。中は狭く、木製の机がひとつ。その上に、鍵のかかった木箱がある。
「魔石、ここ、全部」
ガルドが鍵を取り出した瞬間、クレイヴンが魔法で奪い、鍵を開ける。ガルドが何かを言いかけて、やめた。
一つを手に取る。重さを確かめる。これはかなりの魔力が蓄積されたものだ。それがこれだけの量、一箇所に……。
「最近、魔石、多い」
ガルドが眉間に皺を寄せて言った。
「それは良いことじゃないか!」
「魔石、そんなに、大事か?」
ヴァルムは石を持ち上げた。
「魔石がどれだけ貴重か分かっているか? 高濃度の魔力環境で何十年、何百年とかけて形成されるんだ。武具に組み込めば性能は跳ね上がるし、術式を刻めば魔力を持たない者でも魔法が扱える。古代文明は運搬も建築も通信も、生活のほとんどを魔石で支えていたんだ」
ヴァルムの声が徐々に速くなる。
「もし安定供給できれば鬼族全体に恩恵を広げられる。強い者だけが力を独占する時代を終わらせられるかもしれない。私はそのために十年以上かけて人工魔石を研究したんだ。完成はしたが天然品には遠く及ばなかった。だから今でも天然の魔石は最重要資源で……」
「ヴァルム」
クレイヴンが遮った。
ヴァルムが顔を上げる。
クレイヴンの視線の先で、ガルドが目を回していた。
「……おい、大丈夫か」
「分からん」
ガルドは紫色の顔で答えた。
「魔石の基礎解説が始まったばかりだぞ?」
クレイヴンがため息混じりに言う。
「こいつに理論を教えるのは槍に読書をさせるようなものだ。」
ヴァルムは咳払いをして、手の中の石を箱に戻して聞いた。
「魔石が増えた原因は、分かっているか」
「不明だ。詳しい話は村に戻りながらする」
クレイヴンの話によると異常が現れたのは半年前から。強力な魔物が増え、生態系が変わり、この村を中心に怨霊が現れるようになった。魔石が増えたのも、その一連の現象のひとつだという。
ヴァルムが古い記録と照らし合わせている間に、ガルドの家に着いていた。
卓を囲んで座ると、クレイヴンが話を促すように目を向けた。
ヴァルムは眼鏡のズレを直し、しばらく考え込んでから口を開いた。
「まず、結論から言う。この異常事態は、数百年前に起きた大厄災の前兆と酷似している」
ガルドとクレイヴンが顔を見合わせる。
「大厄災?」
ガルドが眉をひそめた。
「ああ。古い文献に記録が残っている。特定の地点に魔力が収束し、生態系が乱れ、怨霊が増加する。この村で起きてる異変は、その記述とほぼ符合する。
もちろん、現時点では確証は無い。だが、もし文献通りならば、今回の件にも大厄災の原因となった存在が関わっている可能性が高い」
ヴァルムが顔を上げると、ガルドが紫色になっていた。
「さっきので、壊れやすくなってるな」
クレイヴンが真顔でガルドの頭を数回叩く。ガルドはまだ紫色だった。
次は頭に数秒手をかざす。ガルドの顔色が、すっと戻った。
「頭が良くなる魔法をかけた。黙って聞いてろ」
「おう」
ヴァルムはこのやり取りを五度は見ていた。
(筋肉に栄養を回しすぎて、脳が慢性的な飢餓状態なのかもしれない)
ヴァルムは指を三本立てた。
「仮説は3つだ。
ひとつ、大厄災を起こした者の転生体が、この地に生まれた。
ふたつ、大厄災を起こした者が、何らかの形で蘇った。
みっつ、大厄災を起こした者が、この地のどこかに封印されていて、封印が消えかけている」
しばらくの沈黙。
ガルドが、ゆっくりと卓の上で手を組んだ。
大きな手が、静かに重なった。
クレイヴンはヴァルムを見ていなかった。
視線は卓の一点に落ち、見つめている。
ヴァルムは二人の顔を交互に見た。何かを確かめているのではなく、すでに知っている者の沈黙だった。
「協力して、原因を突き止める必要がある。鬼族と世界を守るために」
「おう」
ガルドが答えたが、目が笑っていなかった。
話がひと段落すると、部屋に静かな空気が落ちた。
ヴァルムは椅子にもたれたまま、何気ない口調を装って尋ねた。
「トイレはどこだ」
ガルドは手元のグラスを置き、顔も上げずに短く答えた。
「右だ」
ヴァルムは軽く頷き、ゆっくりと席を立つ。何事もないように扉へ向かい、部屋を出る。
扉が閉まる音が背後で小さく響いた瞬間、ヴァルムの表情が変わった。
彼は右ではなく、迷いなく左へ足を向ける。薄暗い廊下には古びた木材の匂いが漂っていた。窓から差し込む夕暮れの光が床を細長く照らす。
間取りは変わっていない。
以前この家を訪れた時の記憶が脳裏によみがえる。客間から出て左奥に書斎。そして右手に台所とトイレ。
ヴァルムは足音を殺しながら歩いた。
ガルドという男は用心深い。表向きは何も隠していないように振る舞うが、その瞳の奥には常に何かを秘めている。あの男の秘密があるとすれば、最も可能性が高いのは書斎だ。
廊下の奥にある扉が見えてくる。
ヴァルムは慎重に歩みを緩め、扉へとゆっくり近づき、そっと押し開けた。
書斎に足を踏み入れたヴァルムは、思わず立ち止まった。
天井まで届く本棚に囲まれた机の上に、赤子が座っていたからだ。
窓から差し込む淡い光が、その小さな姿を照らしている。
人間の赤子。
月齢は、おそらく六か月前後。
半年前。
異変の始まり。
ヴァルムの思考が、一つの結論へ収束した。
転生体が、この地に生まれた。
ヴァルムの中に、最悪の選択肢が静かに浮かぶ。
今ここで始末すれば、取り返しのつかない事態は防げるかもしれない。
その発想に躊躇はなかった。感傷で救える命などない。迷い一つが、後に何千もの死を招くこともある。
魔法を発動することなど容易かった。
指先がわずかに動く。
赤子は気づいていない。窓から差し込む光の中で、何もしていなかった。ただ、そこに座っていた。
ヴァルムは動きを止める。
自分の呼吸の音が、妙に大きく聞こえた。
あとは解き放つだけだ。終わるまでに一秒もかからない。それは分かっている。鬼族を救うためなら安い犠牲だという論理も、頭の中では完成していた。
だが、根拠がない。
推測だけで命を奪う者を、ヴァルムは最も嫌っていた。確証なき殺しは、ただの虐殺だ。
それに。
仮に転生者だとしても、世界に干渉するほどの力を得るには時間が必要だ。
少なくとも今すぐ脅威になることはない。
だが、疑問は残る。
この赤子は、どうしてここにいる。
ガルドの書斎。子供が好んで近づくような場所でもなければ、遊べるものなど何一つない。あるのは分厚い魔導書の束と、羊皮紙と、埃の匂いだけだ。
偶然、と片づけるには、あまりにも都合が良すぎる。
ヴァルムはしゃがみ、赤子と視線の高さを合わせた。試すつもりで、声をかけた。意味は届かないと分かっていても、この静けさの中では問わずにいられなかった。
「何が見たかった」
静寂。
それから、赤子の唇が動いた。
魔法が使いたいという意思のこもった言葉。
脳がその音を受け取り、処理し、解釈するまでに、普段では考えられない時間がかかった。この歳で言語を獲得することは、通常あり得ない。単語を話すのは早くとも一歳前後。文脈を持った意思表示となれば、さらに後だ。にもかかわらずこの子は、問いに対して、望みを答えた。
だが、思考が止まったのは、その驚きのためだけではなかった。
この目を、ヴァルムは知っていた。
宿舎の棚の奥に、忘れられた一冊を見つけたあの夜。読み終えた後も、興奮は収まらなかった。もっと知りたい。もっと深く知りたい。理屈ではなく、体ごと引き寄せられていくような渇き。
この子の目に、あの夜と同じ飢えがあった。
あの渇きを、誰も理解しなかった。本ばかり読んで強くなれるか、と笑われ続けた道だ。
感情と判断は、分けて持て。長年の研究で骨身に刻んできた原則が、頭の隅で鳴る。
この子が厄災の転生者であるなら、いずれ世界を揺るがす災いの芽になる。
だがもし、違うなら。
ヴァルムの脳裏に、古い文献の記述がよぎった。大厄災を起こしたのは一人で、終わらせたのもまた一人の存在だったという。記録は断片的で、名も生まれも定かではない。文献によって語り口は異なるが、ただ一点だけ、どの記述にも共通して刻まれた言葉があった。
厄災は必ず繰り返す。
この子が関係するのかも、まだ判断できない。厄災の再来か。
あるいは、それを終わらせる存在か。
だからこそ、遠ざけるわけにはいかなかった。
遠ざければ見えなくなる。見えなくなれば、手遅れになる。この子が何者であれ、傍に置いて見続けるしかない。そしてもし魔法を望むなら、自分が教えればいい。教えながら、測る。近くにいるからこそ、誰より早く見極められる。
もし、この子がいつか敵になるなら。
その時は自分が殺す。
たとえ鬼族の誰にも理解されなくとも、その先に鬼族を救う道があるのなら進む。




