3話「リラ」
光一郎は、理解できないものを信じない。
神も、魔法も、鬼も、そして——家族という概念も。
この世界は、嫌いなもので溢れていた。
転生してから、およそ半年。
最初は雑音にしか聞こえなかった言葉が、いまでは断片的に意味を結ぶようになってきた。完全ではない。だが、少なくとも「意思」は読み取れる。
最初に理解したのは、自分の名前だった。
「ヒカル」
顔のすぐそばで、唾を飛ばしながら何度も呼ばれた。ガルドはヒカルを拾い、その名を与えた鬼だ。言葉のたびに散る飛沫、鼻をつく悪臭、鼓膜を叩く怒声、すべてが不快だった。その隣で呆れた顔をしているのが妻のエルダで、ヒカルにとっては義母にあたる。
どちらも鬼だ。家族だと言われても、実感はない。
そして、この世界で何より衝撃だったこと。
魔法が存在する。
それは比喩でも誇張でもない。火が何もない空間から生まれ、水が宙に浮き、重い荷物が触れずに運ばれていく。
村の鬼たちは、それを当たり前のように使っていた。呼吸するのと同じくらい自然に、何の疑問も抱かずに。
(非科学的、なんて言葉で片付けられる現象じゃない)
光一郎——いや、ヒカルは内心でそう呟いた。
ある晩、ガルドが覗き込んできた。寝付けずにいるヒカルを見て、何かを企んでいる顔をした。眉が上がり、牙が覗き、目がぎらぎらしている。ヒカルの経験上、この顔のあとにはろくなことが起きない。
ガルドが分厚い掌を開いた。
ふわ、と。
青白い火の粒が、一つ、浮かんだ。蛍のように小さく、不安定に明滅しながら宙を泳ぐ。一つが二つになり、三つになり、やがて十を超えた。ガルドの掌から次々と零れ落ちるように生まれた光が、薄暗い部屋の中をゆっくりと漂っていく。
壁に当たって跳ね返る。天井に昇って降りてくる。一つが消えかけると、別の一つが明るく灯る。規則性のない、自由な光だった。
ヒカルは黙って見ていた。
魔法は好きではない。理解できないものは信じない。それは変わらない。
だが、この光だけは不思議と、目が離せなかった。
理由は分からない。分析する気にもならなかった。ただ、光の粒が漂うのを追いかけているうちに、口元が緩んでいた。自分でも気づかないほど、わずかに。
ガルドが気づいた。
目が大きく開いて、口が横に裂けるように広がって、牙の奥まで見えた。嬉しいのだと思う。たぶん。
次の瞬間、漂っていた火の粉が膨れた。
ぼっ、と音がした。
ヒカルを寝かせていた藁の端が、赤く灯った。
ガルドの顔が凍った。
「わー」と情けなく叫びながら慌てて両手で叩き消す。叩くたびに火の粉が散り、散った火の粉がまた別の藁に飛び、それをまた叩く。消火なのか延焼なのか分からない動きが三往復ほど続いて、ようやく鎮火した。
部屋の中に焦げた匂いが充満していた。ガルドの顔が黒い。ヒカルの顔も黒い。藁は半分なくなっていた。
(……何がしたかったんだ)
足音が近づいてきた。重い。速い。怒っている足音だった。
戸が開く前に、声が届いた。
「ガルド」
低かった。エルダの声には抑揚がある方だが、今は平坦だった。平坦なのに、空気が震えていた。
「家の中、火、使うな、言った。何回、言った」
単語だけを並べたような叱責は、一つ一つが石のように飛んでくる。
ガルドが何か言おうとした。口を開けて、閉じて、また開けた。弁明を探しているらしいが、見つかる気配はなかった。
エルダの目がヒカルに移った。黒い顔を見て、藁の残骸を見て、ガルドの黒い顔を見た。眉間の皺が深くなった。
「ヒカル、寝かす。今すぐ」
ガルドが、あの巨体をすくめた。あの厳つい鬼は、もうどこにもいなかった。
新しい藁が敷かれた頃には、焦げの匂いは消えていた。だが、あの青白い光の残像だけは、まぶたの裏からまだ消えなかった。
(……あの火は、どこから来た)
原理があるはずだ。仕組みがあるはずだ。だが、その"仕組み"に触れるには、自分の体はあまりにも未熟だった。寝たきりでは、調査も研究も、すべてが中途半端に終わる。
歯がゆさが胸の奥でくすぶる。
同時に、別の感情もあった。
(……もし、この魔法を応用できたら)
思考は自然と、あの未完成の理論へと向かう。
――ルミナスコア。
前世で完成に至らなかった、あの構想。もし、この世界の"魔法"という未知のエネルギー体系を組み込めば、あるいはあの夢を。
鼓動がわずかに早まる。
だが、現実は冷酷だ。
子供の体では、何もできない。
焦燥と好奇心が、出口を失って胸の中で渦を巻いていた。
その状況を変えたのは、エルダだ。
エルダは毎晩、絵本を読み聞かせてくれた。決まった時間に。決まった場所で。
繰り返される音と絵の組み合わせを、コーシーが静かに照合していく。単語から始まり、文の構造へ。一週間で語彙の骨格が見えた。三週間で読み聞かせの内容を先読みできるようになった。
(子供向けの絵本だ。勇者が怨霊を斬り伏せるか、人間の英雄が悪しき鬼神を封印するか、そういう話ばかりだ)
(……鬼の子供に聞かせる話で、鬼が悪役なのか)
教材としては素直すぎる。だが文法の習得には十分だった。
鬼の言語には、特徴がある。
「〜が」「〜は」「〜の」——助詞がほとんど存在しない。単語を並べることで意味を伝える。文の意味は、文脈と表情と声の大きさで決まる。
(エラーが多すぎる言語体系だ。情報理論的に欠陥品だ)
しかし鬼族の間では問題なく通じている。補っているのは、顔だ。
エルダに比べてガルドは言葉が少ない。極端に少ない。一文に三語あれば多い方で、感情の大半は表情で補われる。眉が下がり、口角が上がり、牙が覗く。そのバリエーションが異常に豊富で、おそらく一日で五十種類は超えていた。
(よくあんな気持ち悪い顔のバリエーションを増やせるものだ)
(呪われた面の展示会でもここまで酷くない。人類への嫌がらせだけを煮詰めた顔だ)
だが、顔を読めようが言葉を覚えようが、それだけでは足りない。知りたいのは魔法の原理だ。読めるようになった以上、次にやることは決まっている。 情報を取りに行く。
ガルドの書斎に、書物があることは分かっていた。何度か運ばれるときに見えた。分厚い革装丁。文字が並ぶ背表紙。あの中に、この世界の魔法に関する記述があるはずだ。
そして、その日が来た。
「コーシー」
小さな声で呼びかける。
脳内に直接響く、機械的な応答。
『はい』
「今日のミッションは高難度だ」
わざと低く、重々しく言う。
『……その言い方は必要ですか』
「必要だ。場の空気を引き締める」
沈黙があった。コーシーなりの呆れ方だと、ヒカルは理解していた。
ガルドは居間にいた。客人と話し込んでいる。声は低く、内容は聞き取れない。書斎は今、空だ。
(一分以内に移動し、目標物を確認し、戻る。難しい作戦ではない)
難しくない、という前提は、通常の身体能力を持つ人間の話だ。
這う。
絨毯の繊維が顔の高さにある。床の埃が鼻腔に迫る。一メートルの移動に、これほどの労力が必要だとは。成人男性の感覚で距離を見積もっていた過去の自分を恥じた。
(……廊下が長い)
長いのではなく、自分が小さいのだ。
分かっている。分かっているが、目の前に横たわっている廊下の長さは、現時点のヒカルの体感で三十メートルを超えていた。
膝が痛い。手のひらが痛い。
一歩ずつ進む。
途中、廊下の柱に頭をぶつけた。痛みより先に屈辱が来た。
『現在地点、書斎まで推定三メートル』
「……分かってる」
息が上がっていた。赤子の体に有酸素運動の概念は存在しないと思っていたが、認識を改めた。
書斎の戸は半分開いていた。
体をねじ込んで入る。幅は十分だ。
床から見上げると、机は山のようにそびえていた。
(……登る必要がある)
脚がある。引き出しが出っ張っている。足がかりにはなる。理論上は可能だ。
実践は別の話だった。
三回試みた。三回とも途中で落ちた。落ちるたびに床が鈍く痛み、コーシーが淡々と報告した。
『一回目:高さ十二センチから落下。二回目:高さ十五センチから落下。三回目:』
「言わなくていい」
ヒカルは転がったまま天井を見た。
(……問題は重心だ)
脚にしがみつく力は十分ある。問題は上半身を引き上げる段階で腹筋が機能しないことだ。
(策を変える)
引き出しを引き出し、段差を作る。それを踏み台にして一段ずつ上がる。
五分かかった。
机の上に到達したとき、体力の大半が尽きていた。
(……これが冒険というやつか)
『冒険の定義としては疑問が残りますが』
「黙れ」
息を整えながら、視線を巡らせる。
机の上には革装丁の書物が広げられていた。文字が並んでいる。読める。エルダの絵本よりはるかに難しいが、単語の輪郭は追えた。
視線が止まった。
一行。
「漆黒の輪廻——、襲撃。—、破壊。封印術、——特定」
(……)
意味が、すぐには飲み込めない。「漆黒の輪廻」「封印術」「破壊」——一つずつは読める。だが組み合わさると、全体の意味が靄の向こうに霞む。絵本に出てきた「封印」という言葉が、ここにもある。
(コーシー、記録できるか)
『文字列を保存しました。後で解析します』
(意味は分かるか)
『現時点では不明瞭です。ただ——』
間があった。
『良い言葉では、ないと思います』
珍しい言い方だった。コーシーが「不明」と言うのは計算が足りないとき、「思います」と言うのはもっと稀だ。
ヒカルは書物の上に両手をついたまま、動かなかった。
(……ガルドが、これを読んでいた?)
あの間抜け面で、唾を飛ばしながら笑っていた男が。
腹の底に、小さな違和感が落ちた。不安とは違う。疑問とも違う。名前のつけようがない、ざらついた感覚だった。
(……保留だ。今はデータが足りない)
意識して思考を閉じた。だが違和感だけは、胸の奥に沈んだまま消えなかった。
その瞬間——
背後で、床が鳴った。
戸が、静かに開いた。
ガルドではない。背丈はガルドの三分の二ほど。鬼の中では細身で、動きが静かだった。その人物は机の前に立っているヒカルを見て、目を細めた。
怒っていない。
少し驚いた表情で。
ただ、ゆっくりと口の端を上げた。
「何が見たかった?」
穏やかな声だった。ガルドの声とは違う。言葉が多い。理解はできないが、助詞の様な発音がある。
ヒカルは一拍おいた。
「……魔法、本」
男は軽く眉を上げた。
「ガルドの書斎は面白くないぞ。難しい字ばかりで、読める鬼が少ない」
歩み寄ってきた。机の脇に手をついて、ヒカルと目線を合わせる。
「知りたいことがあるなら、俺に聞け」
ヒカルは男を見た。
「魔法、使う、したい」
男は一瞬、何かを考えるような顔をした。それから、穏やかに笑った。
「じゃあ、今度教えてあげるから待ってなさい」
「……うん」
男は机の上からヒカルを軽々と抱え上げて書斎の外に出した。廊下に下ろされたとき、来た道の長さを思い出して少しだけうんざりした。
ヴァルムという名だと、あとで知った。ガルドの古い友人で、たまに村を訪れるらしい。
それからしばらく、ヒカルの日常は元に戻った。エルダの絵本。ガルドの唾。庭の土の匂い。退屈で、不快で、平穏だった。
数日後の夜、家の奥でエルダの声が変わった。
いつもの声ではない。押し殺したような、しかし抑えきれない種類の声。
次の瞬間、ガルドが立ち上がる音がした。椅子が倒れる。走る音。
「エルダ!エルダ!エルダ!大丈夫!大丈夫!大丈夫か!」
次の瞬間にはガルドが飛び出してきた。ヒカルを見た。顔が赤い。目が据わっている。口が半開きのまま動いている。
「……産まれ、る」
村に鐘が鳴った。カラン、カラン。
(……また、あの音だ)
相変わらず気持ち悪い音だった。
壁の向こうから足音が増殖していく。廊下が揺れるほどの振動。汗と獣脂の混じった臭気が、戸の隙間から這い込んでくる。
ヒカルはその全てを無視して、廊下の一点だけを見ていた。
ガルドは廊下にいた。棒立ちだった。壁に手をついて、身動きが取れなくなっている。奥からエルダの声が聞こえるたびに、体が跳ねた。何かしようとして、腕が途中で止まる。行こうとして、足が止まる。三歩進んで二歩下がり、それを何度も繰り返していた。
あるとき、奥から特に大きな声が聞こえた。
ガルドの膝が折れた。
廊下の真ん中に座り込んで、両手で顔を覆った。指の隙間から目だけが覗いている。あの巨体が、信じられないくらい小さく見えた。
(……鬼の癖に、このざまか)
呆れた。
呆れたはずだが、目を逸らせなかった。
あの顔は、怖がっているのとは違った。ただ、どうにもできない自分に耐えられない——そういう顔だった。
自分ではなく、誰かのために崩れる。そういう感情があることを、ヒカルは知識としては知っていた。
だが、理解はできない。
(……なぜそこまで)
答えは出なかった。出す気もなかった。
ヒカルは壁際に目を戻した。
夜が深くなった頃。
産声が、聞こえた。
広場に火が焚かれた。
地面から湧くような赤い炎が、空へ向けて伸びていく。その周囲を鬼たちが取り囲み——踊る。
「オッ、オッ、オッ、オッ……!」
聞いたことのあるリズムだった。
(……俺のときと、同じだ)
気づいた。
あの夜と同じ炎。同じ動き。同じ声。ヒカルは鬼の腕に抱かれたまま、広場の中心へ運ばれていく赤子を見ていた。
小さい。赤い。声が大きい。
ふわりと浮かび、中央の台にそっと置かれた。
鬼たちの声が一際高くなった。牙を剥いて。目を細めて。よだれを垂らしながら。
今回はその意味が分かる。
(……これは、歓迎だ)
喜んでいる。
怖いほど大きな鬼たちが、本気で喜んでいる。
ガルドが空を仰いで吼えた。声が夜空に溶けていく。その顔は恐ろしく、その目だけは——信じられないくらい柔らかかった。
その女の子はリラと名付けられた。
ガルドが告げた一言だ。説明はない。理由もない。それで確定らしかった。
ヒカルは壁際に座っていた。
ガルドがゆっくりと近づいてくる。腕の中に、小さいものを抱えている。
「……ヒカル」
「ん」
「リラ、隣」
言葉はそこで終わった。
ガルドが、リラをヒカルの横に寝かせた。慎重に。あの大きな手が、驚くほど丁寧に動いた。
(……そんな顔があるんだ)
いつも豊かな表情をしているくせに、今はほとんど動いていなかった。ただ——静かだった。静かに笑っていた。
リラが動いた。
小さな腕が、ランダムに宙を泳ぐ。意思のない動きが、たまたまヒカルの方向へ伸びて。
指が触れた。
小さな手が、ヒカルの指を掴んだ。
(……)
分析が、止まった。
何秒か経った。
「温かい」
思考ではなく、感覚だけが残った。それ以上の言葉が、出てこない。
『……光一郎様?』
コーシーが、静かに呼んだ。
「……なんでもない」
ヒカルが少し指を動かすと、小さな手がきゅっと追いかけた。逃がさないように。
そのまま、どれくらい経っただろう。
エルダは眠っている。ガルドはいつの間にか座ったまま寝ていた。リラの寝息が、規則正しく聞こえる。
ヒカルは一人、起きていた。
リラが寝返りを打ち、小さな体がヒカルの腕に寄りかかる。じわりと、熱が伝わってくる。
相変わらず、この世界は嫌いなもので溢れている。
だが、隣から伝わるこの小さな熱だけは、遠ざけようと思わなかった。




