15話「帰る場所」
昨日まで村を揺らしていた太鼓の音が、嘘みたいに消えていた。
あんなに賑やかだった夜が、まるで最初からなかったみたいに、村は静かだった。火の粉を空へ撒いて踊っていた鬼たちも、今はどこかでぐっすり眠っているのだろう。祭りの熱はひと晩で引いて、あとには白い朝だけが残っている。
夢も見ないほど、深く眠っていた。
ぼんやりとした意識に、炊けたお粥と焼き魚の匂いが届く。それが鼻をくすぐり、重いまぶたを持ち上げた。
体が、重い。指を一本動かすだけで、あちこちの筋が痛む。とくに右の手のひらが、じんじんと熱を持っていた。目を落とすと、そこには赤黒い火傷の痕がある。炎に、雷に、岩に――この手で、たしかに触れた証だった。
(生きて、朝を迎えた)
その実感だけが、重い体の真ん中に、ぽつんと灯っていた。試練を越えた。骸骨たちの黒い影も、魔獣の牙も、そして魔人も。全部、越えて、ここにいる。
ふと、思う。
前の人生では、目が覚めても、こんな匂いはしなかった。冷たい部屋。灰色の天井。起こしてくれる声も、待っていてくれる食卓もない朝。
その記憶を胸にぎゅっと押し込めて、俺は体を起こした。
食卓に、家族四人が揃った。
地味な朝ごはんだ。お粥に焼いた川魚、山菜の和え物。それでも湯気の立つそれは、お腹よりも心に沁みるごちそうだった。
食卓は丸く、角のない飴色のテーブル。俺の右にはガルド、左にはエルダが座り、そのエルダの隣にリラがいる。
昔は、こうじゃなかった。
(にぃに〜、あーん)
まだ小さかったリラが、当たり前みたいに隣に並んで、口を開けて甘えてきた。あのぬくもりを、俺の手はまだ覚えている。
「――で」
沈黙を破ったのは、ガルドだった。一人だけ地べたに座り、大きな目で俺を見てくる。
「試練、どうだった」
聞かれて、俺はかいつまんで話した。地の底に広がる迷宮。灯りに浮かぶ、骸骨の黒炎。ヴェイルハウンド。額に眠っていた魔石を、奪い取ったこと。
家族は静かに聞いていた。エルダが時々うなずき、リラは俯いたまま、それでも箸を止めていた。
「……最後に、魔人が出た」
その一言で、三人の箸が、同時に止まった。
湯気だけが、静かに昇っていく。
「――迷宮、魔人、いない」
ガルドが、低く言った。言葉をつなぐのが苦手なこの父にしては、はっきりとした否定だった。
「本当に、いた」
俺は食い下がる。
「迷宮、魔物、魔獣と、骸骨だけ。魔人、いない」
「でも、いたんだよ。俺は戦った」
「ヒカル」
ガルドの声が、少し震えた。大きな手が、テーブルの縁を握りしめている。
「魔人……強い。……俺……勝てない」
その一言に、俺は息を呑んだ。
この鬼が、勝てないと言った。
沈黙が落ちた。
それをそっとすくい上げたのは、エルダだった。彼女はお椀を置いて、静かに、けれど流れるように言った。
「ヒカル。迷宮の奥には、古い怨霊が棲むっていう言い伝えがあるの。深く潜った人の心を読んで、いちばん怖いものを見せる。声を聞かせて、悪い夢を見せる。……あなたが見たのは、そういう幻だったんじゃないかしら」
「幻なんかじゃない」
俺は即座に否定した。
「炎を当てた。雷も。岩も。全部、手応えがあった」
右の手のひらを、テーブルの上に開いてみせる。赤黒く引きつったた、火傷の痕。
「幻で、火傷はしないよ」
エルダは、何も言わなかった。ただ、その手のひらをじっと見て――やがて、そっと目をそらした。
食卓が、しんと静まったときだった。
「漆黒の……輪廻……」
ガルドが、ぽつりとこぼした。
誰に言うでもない、口の中でつぶやくような声。でも、その言葉が耳に触れた瞬間、俺の記憶が、ぐらりと揺れた。
昔、こっそり忍び込んだ書斎。埃とかびの匂い。棚の奥に押し込まれていた、古い本。その表紙に、書かれていた、五つの文字。
(漆黒の輪廻)
「ガルド、それ……なに?」
聞いた瞬間、ガルドの顔から、表情がすっと消えた。
「……何でも、ない」
突き放すような声。
「さあ、冷めちゃうわ。食べてしまいなさい」
エルダが流すように言った。
俺は、それ以上、聞けなかった。
「次の試練は、二日後よ」
やがて、エルダが言った。
「ヒカル。油断、するな」
ガルドが、大きな体を揺らして、真剣な目を向ける。
「次、もっと危ない」
「無事に、帰ってくること」
エルダの声は、静かだった。
「お母さんは、それだけを願ってる」
俺は、うなずいた。
試練を越えれば、王都へ続く道がひらける。王都には、リラの病を治す可能性がある。
その一心で、ここまで来た。
ふと、正面のリラを見ると、俯いていた妹がちょうど顔を上げた。目が合うと、リラはぷいっと顔をそむけた。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
◆ ◆ ◆
昼になると、俺はエルダの治癒魔法を受けていた。
差し出した右の手のひらに、エルダの手がそっと重なる。やわらかな光が滲み出して、赤黒い火傷の痕を包んでいく。じんじんとした熱が、少しずつ引いていくのがわかった。
「……治癒魔法は、疲れるわね」
エルダが、ふっと息をついてつぶやいた。額にうっすらと汗がにじんでいる。
「無理しなくていいよ」
「いいの。あなたの傷を、このままにはしておけないもの」
その手のひらの光を、俺はじっと見つめていた。
と、そのときだった。
「ヒカル、リラ、来い」
ガルドが、ぬっと顔を出した。
「ちょっとガルド。まだ治療中よ」
「もう、いい。だいたい、治った」
エルダの制止も聞かず、ガルドは俺の腕をつかんで、ぐいぐいと庭のほうへ引っ張っていく。
「こら、ガルドっ」
エルダの静止も届かず、半ば無理やり庭に連れ出されると、ガルドは得意げに胸を張った。
「新しい、魔法、覚えた」
嫌な予感がした。
ガルドが、太い指をそっと立てる。
「見てろ。ほら」
指先に、淡い光がともる。
その小さな光を、あやつろうとした。
「……ん」
「……む」
光が、ふくらんだ。
次の瞬間。
ボンッ!
光が弾けて、庭に灰色の煙が広がった。
「ゴホッ……ゴホッ……」
俺も、リラも、ガルドも一斉に咳き込んだ。
「ガルドッ!!」
家から出てきたエルダの声が、飛んだ。
「何をしている」
「新しい、魔法、難しい」
「難しいじゃないでしょ!」
「光、出た」
「出ればいいという問題じゃない!」
「でも、成功した」
「どこが!」
張り手のような一喝。大きな身体が、言葉を重ねるたびに小さくなっていく。
「うまく扱えもしない魔法を、どうしてわざわざ!この子たちが怪我したら、どうするつもりなの!」
「……ちょっと、失敗した」
半泣きで言い訳する大鬼。
「ちょっとじゃないでしょ!」
「でも、光った」
怒られて、しょんぼりして、それでも嬉しそうに「光った」と言い張る。
その姿を見て、リラの肩が小さく震えた。
「……ふふっ」
堪えきれず、リラが笑う。
なんだか、その光景が妙に可笑しくて。とうとう俺も吹き出した。
――こういう時間も、悪くない。
そう思った時、リラと目が合った。
視線に気づいた途端、リラの顔からすっと笑いが引いた。
「……もう、いい」
ぽつりと言って、リラは家のほうへ歩いていった。まだ小さくなって言い訳を続けるガルドを置いて、一度も振り返らずに。
◆ ◆ ◆
夜が来た。
窓の外は真っ暗で、村はまた深い眠りの底に沈んでいる。
俺は、眠れなかった。
『光一郎様』
闇の中で、コーシーの静かな声がした。
『リラさんのこと……このままで、いいのですか』
俺は、天井を見上げたまま、答えなかった。
迷宮で、あの魔人と向き合ったとき。炎が迫って、死を覚悟したあの一瞬。頭をよぎったのは、村のことでも、王都のことでもなかった。
リラの、泣きそうな顔だった。
喧嘩をしたまま。「嫌いだ」って、思ってもいないことを言ったまま。あの顔を、最後に見る顔にして、俺は試練へ向かおうとしていた。
(前世の俺は、独りだった)
誰のことも信じられなかった。傷つく前に、独りになる。信じられる相手が、どこにもいなかった。だから、コーシーを作った。人じゃない、裏切らない相棒を。
でも、この世界で目を覚まして、隣にいつもリラがいた。
ごはんのとき。夜ふかしして魔法研究をするとき。稽古で泥まみれになった昼下がり。「にぃに〜、にぃに〜」って、影みたいについてきて。
うるさいなって思ったこともあった。でも、あの小さな声が、いつのまにか独りだった俺の心の隙間を、すっかり埋めていた。
そのことに、あの子と喧嘩をしてはじめて気づいた。
「……喧嘩したまま、王都へは行けない」
声に出して、俺はつぶやいた。
「次の試練で死ぬかもしれない。そうしたら『嘘つき』が、あいつに言う最後の言葉になる」
それだけは嫌だった。
許してもらえなくてもいい。ただ、謝りたい。
◆ ◆ ◆
次の朝。
村はずれの高台で、リラは一人で稽古をしていた。
朝の光は白かった。その光が木剣を振る妹の輪郭を、そっと縁取っていた。
近づく足音に、リラの手が止まる。
「……なに」
振り向きもせず、突き放すような声。
「リラ」
「用がないなら、あっち行って」
「用がある」
俺は、妹の背中に向かって、まっすぐ言った。
「この前の……『鬼が嫌いだ』ってやつ。あれは、嘘だ」
リラの肩が、びくっと跳ねた。
「『気持ち悪い』も、『臭い』も、全部、嘘だ。腹が立って、お前を遠ざけたくて――口から出まかせを言った。本当は、そんなこと、これっぽっちも思ってない」
木剣が、リラの手から、こつん、と地面に落ちた。
「お前を嫌いなわけ、ないだろ」
振り向いた妹の目が、揺れていた。
「……なんで」
震える声。
「なんで、嘘をついたの。あんな、ひどいこと言ったの。……なんで」
リラの瞳に、みるみる涙があふれてくる。
「なんで……行っちゃうの」
その問いに、俺は、答えられなかった。
お前の病を治すためだ、とは。言えなかった。
「……どうしても、王都へ行かなきゃいけないんだ」
しぼり出すように、言う。
「理由はある。でも、今は言えない」
「ずるいよ」
涙が、あふれ出した。
「そんなの、ずるいよ!嘘ついて、勝手に怒って、勝手にごめんって言って、それで、理由は言えないって……!にぃに〜だけ、いつも勝手だよ!」
久しぶりに聞くその呼び名に、俺の胸が詰まった。
「必ず、帰ってくる」
俺は、リラの前に膝をついて、その濡れた目をまっすぐ見た。
「今度は、本当だ。嘘じゃない。必ず帰ってくる。帰ってきたら、ずっと一緒だ。どこにも行かない」
リラの涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちた。
「……っ、にぃに〜の、ばか」
力の入らない小さな拳が、俺の胸をぽか、ぽかと叩く。
「ばか、ばか……にぃに〜の、ばか……」
俺は、その頭を、そっと抱き寄せた。
◆ ◆ ◆
試練の朝が、来た。
食卓に、変化があった。
リラが、俺の隣に座っている。肩が触れそうな、近さで。
「にぃに〜」
リラが、自分の焼き魚を、そっと俺の皿に乗せた。
「これ、にぃに〜にあげる」
「俺に?」
「うん」
「なんで?」
「いっぱい食べて、強くなるの」
ガルドとエルダが、顔を見合わせて微笑んだ。
「ヒカル、強い、大丈夫」
ガルドが、深くうなずく。
「これ、持っていきなさい」
エルダから、布に包んだおにぎりを受け取る。まだあたたかかった。
家を出ると、四人で朝の道を歩いた。
白い光が、村に満ちている。
リラは俺の隣を離れずに歩いた。俺は、隣を歩く妹の横顔を、そっと盗み見た。無邪気に、うれしそうに笑っている横顔を。
(必ず、帰ってくる)
白い光の中で、俺は、静かに誓う。
(もう、嘘つきには、ならない)




