13話「魔人」
俺たちは魔人へ向かって走っていく。
魔人は、首だけをこちらへ向けたまま、俺たちから視線を離さない。
そのまま、片手だけがゆっくりと地面へ伸び、巨大な岩を掴んだ。
魔人は、赤子が飽きた玩具を放り捨てるように、岩を無造作に投げた。
岩は凄まじい速度で飛ぶ。その先には、逃げ回る鬼がいる。
「避けろ!」
ゼルガの叫びが響いた。
鬼が振り返るが、避ける暇などない。
岩が鬼の身体を捉え、宙へ舞う。
そのまま地面へ叩きつけられ、転がる。二度、三度、四度。身体を地面に打ちつけながら、ようやく止まる。
「ぐ……ぁ……」
鬼が腕を動かし、起き上がろうとする。
だが、腕は持ち上がらない。折れた骨が、皮膚の下で力なく揺れている。
足も、ありえない方向へ折れ曲がっていた。
それでも鬼は、何度も身体を起こそうとする。
あれだけの一撃を受けても、まだ生きている。
その異常なしぶとさに、吐き気がした。
だが今は、その鬼の頑丈ささえ頼りなく見えた。 目の前の魔人にとって、鬼は敵ですらない。ただの玩具だった。
その時だった。
魔人の、真後ろを向いている首が、みしり、と鳴る。胴体が、軋みながらねじれ、俺たちの方へ向き直っていく。壊れた我楽多など、もう眼中にない。
新しい玩具は、こっちだ。そう言われた気がした。
怖い。
背中を、冷たい汗が伝った。 足が、勝手に後ろへ下がろうとする。
俺の手を握ったリグの細い手も、震えている。
リグも怖いんだ。
それでも、俺たちは魔人へ向かって行った。
魔人の黒い瞳は、まっすぐ俺たちだけを見ていた。
裂けた口が、また、頬まで吊り上がる。
その、笑みに向かって。
ゼルガが、飛び出した。
さっきまで震えていたはずの足が、迷いを振り切るように地を蹴る。喉から出たのは、雄叫びというより、胸の奥にこびりついた恐怖を吐き出す声だった。
魔人の腕が、持ち上がる。
丸太みたいな右腕が、ゼルガめがけて振り下ろされる。
拳が、床を砕いた。
腹の底まで響く音がして、砕けた石が四方へ飛び散る。少し遅れて砂埃が舞い上がり、視界を白くぼやけさせた。
当たった。
喉元まで、そう言葉が出かかった。
でも、違った。
埃の向こうで、ゼルガは生きていた。拳が床へ落ちる、その寸前に身体をひねり、砕けた石の隙間を縫うようにして拳の通り道へ滑り込む。怖がって竦むどころか、その怖さを踏み台にして、ゼルガは魔人の懐へ飛び込んでいた。
がら空きの、腹へ、ゼルガの拳が吸い込まれる。
体重を、全部乗せた一撃だった。踏み込んだ足から、腰の捻り、肩の回転、拳の先まで、全身の力が一本の線となって繋がっている。技として、完璧なタイミングだった。
鈍い音がした。
硬くて乾いた、岩の塊でも殴ったような、手応えのない音。
ゼルガの拳は、魔人の腹で止まっていた。
「……嘘、だろ」
掠れた声と一緒に、ゼルガの顔が引き攣る。
魔人は、ぴくりとも動かなかった。顔色ひとつ変えない。ただ、裂けた口の端を吊り上げて、ゼルガを見下ろしている。
次の瞬間、魔人の左脚が鞭のようにしなり、横薙ぎにゼルガの脇腹を捉える。
ゼルガの身体が、宙へ舞い上がった。
「ゼルガ!!」
叫びが、喉を突いて飛び出した。
弾き飛ばされた身体が、壁に叩きつけられる寸前で翻る。両足が壁を捉え、膝を深く折った。
衝撃を殺し、そのまま音もなく着地する。
だが、着地した瞬間、膝が崩れた。
ゼルガは片手で脇腹を押さえている。
――ギャアアアアアアッ!!
魔人が、叫んだ。
迷宮の壁を伝って、ねじれた声が響き渡る。苦しんでいるんじゃない。楽しんでいるんだ。新しい玩具が、思ったより長く動いてくれる。それが、嬉しくてたまらないとでも言うように。
裂けた口を吊り上げたまま、魔人が、地を蹴った。
脇腹を押さえて、まだ立ち上がりきれないゼルガへ。まっすぐ、突っ込んでいく。
俺の身体は考えるより先に動いていた。
繋がれていたリグの手を、振り解く。
俺は、恐怖を無理やり押し込んだまま駆けた。目指すのは、魔人の背中。
あいつの目は今、ゼルガしか見ていない。
なら、当たる。全力で。
掌に、ぎゅっと熱を集めていく。
「燃えろ!」
放った。
炎は、魔人の背中に直撃した。
だが、焦げ跡ひとつつかない。
黒く硬質な肌の上を、俺の炎はただ舐めて消えた。熱を感じてすらいないのか、魔人は振り向きもしない。まっすぐ、ゼルガへ突進していく。
「くそっ、なら……!」
掌に、今度は青白い光を集める。バチバチと弾ける魔力を、指先で束ねる。
「弾けろ!」
雷を放った。空気を裂いて、閃光が魔人の背に叩き込まれる。
魔人は、ぽりぽりと背中を掻いた。
まるで、虫が止まったのを払うみたいに。
「……嘘、だろ」
愕然とする俺の横を、リグが駆け抜けた。地を蹴り、鋭い爪を魔人の脇腹へ叩きつける。
ガリッ、と嫌な音がした。
削れたのは、リグの爪だけだった。
魔人の足は、止まらない。一歩、また一歩。
「ゼルガっ!」
このままじゃ、間に合わない。あいつがやられる。
何としても、助ける。
その時だった。
左手に握りしめた魔石が、脈打った。
腕を、熱が這い上がってくる。肩、胸、喉。焼けた鉄を流し込まれたみたいだった。俺の意思とは関係なく、魔力が勝手に溢れ出す。
『光一郎様、魔力の流れが暴走しています。これ以上は危険です』
分かってる。だが、今はこの力に縋るしかない。
「うぉおおおおっ!!」
右手を、突き上げる。
空中に、岩が組み上がっていく。ゴリゴリと質量が集まり、膨れ上がる。今まで作ったどの岩よりもでかい。魔人を丸ごと呑み込める、山のような塊。
「潰れろッ!!」
落とした。
凄まじい衝撃が地を揺らす。土煙が舞い上がり、魔人の姿は巨岩の下に消えた。
……静寂。
途端に、握っていた左手から力が抜けた。掌が、じんと痺れている。見ると、指の付け根が火傷みたいに赤い。口の中に、うっすら血の味が広がっていた。
たった一発。それだけで、指先が言うことをきかない。
『……身体組織に、損傷を確認。光一郎様、その力はもう使わないでください』
肩で息をしながら、俺は岩を見つめる。やった、のか?
ドンッ。
ドンッ。
ドンッ。
岩に、亀裂が走った。内側から、拳の音が響いてくる。
ひび割れが広がり、砕けた。
魔人が、瓦礫を突き破って現れる。
「うそだろ?」
傷ひとつ、ない。
「囲むぞ!」
立ち上がったゼルガが叫んだ。三方向から、俺たちは同時に飛びかかる。三つの拳が、魔人の体を絶え間なく打ち据える。
だが。
まったく、手応えがない。
殴っても蹴っても、地面を叩いているような感覚。ただ、俺たちの攻撃だけが虚しく散っていく。
やがて、魔人の動きが変わり始めた。
ぎこちなかった動作が、次第に荒々しくなっていく。それに応じて体から、黒い炎が滲み出てくる。あの骸骨の炎に似ていた。
闇が燃え上がるほど、魔人の動きは速く、乱暴になっていく。もう追いきれない。
そして魔人は、俺たちの攻撃など、まるで受けていないかのように、ゆっくりと腕を上げた。
拳に黒炎が纏われていく。
その黒い拳が、俺めがけて振り下ろされる。
咄嗟に魔力壁を張ろうとした。
その瞬間。
横からゼルガに突き飛ばされた。
視界が回る。次の刹那、凄まじい轟音と爆風。
俺は展開した魔力壁で、かろうじて衝撃を受け止める。だが、壁の表面にヒビが走った。放射状に広がったヒビが、中央で一つに繋がる。
パリンッ。
魔力壁が割れ、俺は吹き飛ばされた。
ゼルガとリグは、衝撃をまともに喰らって、壁まで叩きつけられていた。
ゼルガが助けてくれなければ、死んでいた。
攻撃は何ひとつ効かない。ゼルガもリグも、壁際でようやく身を起こしたところだ。膝が笑って、立ち上がるのがやっとの状態。
そして、魔人の興味が、俺一人に向けられた。
闇を纏った巨体が、笑っていた。ぐにゃりと歪んだ口の端を吊り上げて、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
目の前まで来た。
見上げるほどの高さで、魔人が拳を振り上げる。
魔力がもう無い。
空っぽの身体の奥を探っても、何も出てこない。指先が震える。喉が引きつる。
俺は、魔石を握りしめる。 痺れた指が軋む。あの一発で、これだ。
『危険です。光一郎様、次に使えば……今度こそ、あなたが壊れます』
コーシーが、鋭く制した。
俺は、答えなかった。
ただ、魔石を握る手に力を込める。
考えるより先に、あふれる魔力を掴んだ。頼む。 この身体がどうなろうと、構わない。
その瞬間、魔石が爆ぜるように脈打った。
溢れ出した魔力が、体中で暴れ回る。抑え込む余裕なんてない。皮膚の下を、焼けた鉄が這い回る。骨まで焦げる感覚がした。
『魔力暴走率、五十パーセント』
コーシーの声が響く。
『光一郎様、もう限界です!』
魔力がさらに膨れ上がる。
腕が震え、指の感覚が消えていく。
『暴、走率、八十パーセント』
声が、初めて乱れた。
『危険で、す……これ以上は――』
止め方が、分からない。
それでも、やるしかない。
『暴、走率――百パー、セン、ト』
「うああああああッ!!」
魔力を放った瞬間、空間が白く灼けた。
視界が、音が、すべて白に呑まれる。衝撃が壁のように押し寄せ、俺の身体は後ろへ吹き飛んだ。
壁に叩きつけられる、寸前。
ゼルガとリグが、受け止めてくれた。
衝撃で息が止まりそうになる。肺が潰れたみたいに、酸素が入ってこない。
だが、生きていた。
白がゆっくり晴れていく。
魔人は、後ろへ吹き飛んでいた。向こうの壁に激突し、めり込んでいる。膨れ上がっていた身体が、縮んで見えた。黒い炎も、もう滲んでいない。
動く気配は、ない。
「……今のうちに、行くぞ」
ゼルガが、掠れた声で言った。
俺たちは、床に倒れていた鬼二人を抱え上げる。重い。腕が震える。それでも、引きずるようにして、出口へと向かった。
長い通路を、無言で歩く。誰も口をきかなかった。ただ、荒い息だけが石壁に反響していた。
やがて、光が見えた。
迷宮の出口を、抜ける。
外の空気が、肺に流れ込んできた。生きて帰ってきたのだと、ようやく実感が湧いてくる。
「失格だ」
その声が、氷柱のように浴びせられた。
顔を上げる。クレイヴンが、腕を組んで立っていた。俺たちを見下ろすその目には、労いも、驚きもない。ただ、冷たい光だけが宿っていた。




