12話「馬鹿な鬼」
魔石は、俺の掌の中にあった。
黒紫色の、小石。かすかに脈打っている。
握ると掌から、暖かいものが染み込んできた。空っぽだった体の奥に、わずかに熱が灯る。
これを持って、正午までに迷宮を出る。それが、条件だった。
崩れた白狼の骸を背に、三人とも、まだ息が上がっていた。
『光一郎様。正午まで、残り一時間です』
コーシーの声で、我に返る。
一時間。全力で戻って、ギリギリ。
俺は、頭の中に迷宮の地図を広げた。潜ってからの分かれ道、曲がった向き、下りの階段。ここまでの道のりを、一つ残らず覚えている。記憶を重ね、最短の帰路を組み立てた。
「こっちだ。最短で戻る」
ゼルガもリグも、何も言わずに続いた。
三人で、来た道を駆け上がる。階層を、一つ、また一つと上がるたび、あの、押し潰されるような空気が薄れていく。魔物は減っていた。倒しながらではなく、避けながら進む。
順調だった。
出口へ近づいてきた、その時。
――ギャアアアアアアッ!!
恐ろしい叫び声が、迷宮を這って響いた。
骸骨の奇声とも、獣の咆哮とも違う。もっと、ねじれた声。三人が、思わず耳を塞ぐ。
「なんだ、今の」ゼルガが呻く。
「叫び声……なのか」リグの声が震えた。
声は、尾を引いて消えた。俺は、声の方向を探った。
(……帰り道の方向だ)
よりによって。最短で戻るには、そっちへ向かうしかない。
『あと十分です』
コーシーが、淡々と言った。迷っている時間はない。
三人は走った。
進むほど、音は増えた。叫び。衝撃音。何かが壁に叩きつけられる音。何か、恐ろしい魔物が、暴れている様だった。
その声の主に出会わず、出口まで辿り着きたい。
このペースなら、間に合う。
そう思いながら、角を曲がった、その瞬間。
行く手の通路が、塞がっていく。
地面から岩がせり上がり、みるみる天井まで壁を築いていく。来た時には、確かに通れた道だ。
閉じかけた隙間の奥に、影が見えた。
黒いローブ。腕を上げ、魔法で岩を操っている。顔の中央に、幾筋もの傷。頬から顎まで、深く走った傷跡。
クレイヴンだった。
その目が、こちらを一瞬だけ捉え、壁は完全に閉じた。
(なぜだ?試練はまだ終わっていないはず)
俺は壁に手を当てた。冷たい。魔力で岩を操作し、崩そうとするが、びくともしない。
「くそっ!」
ゼルガが拳を叩きつける。
ドンッ!
「……駄目だ」
リグも爪を立てる。だが、傷ひとつつかない。
「硬すぎる……」
二人の声に、焦りが滲んだ。
壁自体に特殊な魔法がかけられているようだ。
出口は、この壁の向こうなのに。試練を見張る鬼が、なぜ、道を塞ぐ。答えは、出ない。
余計な事を考えるのは、時間の無駄だ。
コーシーと共に別の道のりを組み立てた。
「回るぞ。他のルートだ」
俺は、別の分かれ道へ足を向けた。遠回りになる。だが、それしかない。
あの鬼が、リラを救う道を、遠ざけた。
胸の奥で、何かが、ちりっと焦げた。
迂回路を、走る。
迷宮の石を伝って響く叫びが、また追ってきた。
『残り三分』
コーシーの秒読みだけが、正確だった。
道が、上りに変わる。空気に、外の匂いが混じり始める。
『残り三十秒』
前方に、光。
出口だ。あと少し。あと少しで、外へ出られる。魔石は、この手にある。
光の向こうに、リラの顔が重なった。あいつが、助かる。その、道が。
『残り十秒』
コーシーがそう言った、瞬間、迷宮が下から突き上げるように揺れた。天井から砂が落ちる。
「助けてくれ!!」
声が背中に刺さったが、俺は振り向かずに、光だけを見て出口を目指した。
あの声は、俺たちの組じゃない。戻れば、間に合わない。それだけの話だ。もう少しで出られる。
だが。
隣で、足音が一つ消えた。ゼルガが立ち止まっている。
俺と、リグを見る。それから、光とは逆の、闇の奥へ顔を向けた。
「先に行け」
それだけ言って、ゼルガは踵を返した。
「待て!」
俺の声は、揺れる轟音に飲まれた。お前がいなければ、失格だ。出口の直前で足を止めた。光は、目の前にある。あと数歩で外へ出られる。
『残り五秒』
迷宮の外に、鬼たちが見えた。試練を終えた者。見守る者。皆が、こっちを見ている。
『四秒』
「助けて!」
もう一度、叫びと、轟音が響く。
『三秒』
人垣の中に、ヴァルム先生の顔があった。目を見開いて、こちらを見ている。
「ヒカル!」
先生の声が、光の向こうから届いた。「出てこい」と。
『二秒』
クレイヴンの言葉が、耳の奥で立ち上がる。
「一人でも欠けたり、少しでも遅れたら失格。例外は無い」
三人が揃わなければ、どのみち終わりだ。欠けた者は、戻らない。
だが――正午。誰が、その正午を計っている。日時計の影か、鬼の腹時計か。きっかり、ではないはずだ。数分の遅れなら、まだ“正午”のうちに数えられる。
一人でも欠ければ、失格は覆せない。だが時間は、まだ曖昧だ。ならば、ゼルガの襟首を掴んででも、引きずり出す。
『一秒』
俺は光に背を向けた。暗がりへ向かって、ゼルガを追う。
一拍遅れて、リグの足音が続いた。
三人分の足音が、外へ上がる階段ではなく、迷宮の底へと降りていった。
光が、背中で遠ざかる。
残ったのは、闇と、揺れと、轟音だけだった。
俺は、ゼルガの背を追った。角を一つ曲がったところで、その背が、止まっていた。
ゼルガが、立ち尽くしている。
足が小刻みに震えていた。
「足が震えてるぞ。鬼」
ゼルガは、答えない。視線も、動かさない。
俺は、その視線の先を追った。
通路が、途切れていた。
いや。
途切れたんじゃない。
壊されていた。
壁が内側から抉り取られ、天井には巨大な亀裂が走っている。床には砕けた岩が散らばり、何かに何度も殴りつけられたような跡が、奥へ続いていた。
その先で。
何かが、動いた。
――ズン。
地面が沈む。
もう一度。
――ズン。
そのたびに、足元の小石が跳ねた。
暗闇の奥から、ゆっくりと影が立ち上がる。
最初に見えたのは、腕だった。
太い。
鬼の腕などではない。丸太のような腕が、岩壁を掴んでいる。指が食い込むだけで、硬い岩が音を立てて砕けた。
次に、肩。
そして、首。
最後に、頭が持ち上がった。
人の形をしている。
――そう思ったのは、最初だけだった。
身体は、ガルドより遥かに大きかった。
筋肉なのか、骨なのかも分からない肉の塊が、歪に盛り上がっている。皮膚は黒ずみ、ところどころが裂け、そこから赤黒い肉が覗いていた。
腕が、二本。
脚も、二本。
なのに、鬼とは決定的に違っていた。
立っているだけで、周囲の空気が押し潰されている。
足元には、試練の始まりに見かけた鬼が、一体、倒れていた。ぴくりとも動かない。
怪物が腕を振った。
ドゴォン!!
岩壁が吹き飛び、砕けた石が雨のように降り注ぐ。
その向こうを、一体の鬼が転がるように逃げていた。
怪物は追わない。
ただ、逃げる鬼を見つめている。
そして、口が頬まで届くほど大きく裂けた。その口の中に不揃いな牙が、何本も並んでいた。
笑っている。
そう理解した瞬間、背中を冷たいものが這った。
片手で、大岩を一つ掴んだ。
まるで小石でも拾うように。
そして、逃げる鬼へ投げた。
ゴォン!!
岩が壁にめり込み、鬼が悲鳴を上げる。
怪物は、それを見て笑った。
遊んでいる。
殺す気なら、一瞬で殺せるはずなのに。
わざと逃がして、追い詰めている。
その時、逃げる鬼が、こちらを見て叫んだ。
「助けて!!」
その瞬間、怪物の首が、真後ろまでぐりっと回った。
人間なら、絶対に曲がらない角度まで。
目が合った。
黒く底のない瞳で、新しい玩具を見つけた、とでも言うように、恐ろしい笑みが浮かぶ。
今まで感じたことのない恐怖が、背骨を貫いた。白狼の比じゃない。心臓を、直接、氷の手で掴まれたようだった。
息ができない。
手足から、一気に血が引いていく。
逃げろ。
頭の中で、何度も警報が鳴っている。
逃げろ。
こいつは、駄目だ。
戦ってはいけない。
勝てない。
そんな判断をするより先に、身体が理解していた。
『……光一郎様』
コーシーの声が、初めて震えていた。
『勝算は、ありません』
言われなくても、分かっていた。
「なんで、魔人が……」
ゼルガが、引き攣った顔で呟いた。
魔人。
名前だけは知っていた。
エルダに読み聞かせてもらった、遠い昔の絵本。勇者に封印された、昔話の化け物。
子供を怖がらせるための、作り話。
そう思っていたが、違った。
目の前にいる。
絵本に描かれていた怪物よりも、ずっと、恐ろしい。
魔人が、一歩踏み出した。
その足音だけで、身体が震えた。
「ゼルガ! 逃げよう!」
声が、裏返っていた。
「鬼は、逃げねえ」
ゼルガが、自分に言い聞かせるように言った。声が震えていた。
無理だ。絶対。殺される。死んだら、なんの意味も無い。リラも、救えない。
俺は、ゼルガの腕を掴んで、引き戻そうとした。
だが、ゼルガが飛び出す方が、早かった。
「ゼルガ!」
同じだ。
白狼に囲まれて、ガルドに「逃げよう」と言った、あの時と。
逃げなければ、死ぬのに。鬼は、なぜ逃げない。
本当に、馬鹿だ。
足が、動かなかった。冷たい手が、まだ心臓を握っている。
その横を、遅れて追いついたリグが、すり抜けた。
細い手が、俺の手を、取る。
そして、魔人の方へ、走りながら言った。
「魔人は、逃げる者から狙うんだ。逃げたら、真っ先に死ぬよ」




