11話「第一の試練」
目を閉じても、眠りは訪れなかった。
瞼の裏で白い影が揺れ、心臓の音ばかりが耳に響く。そうしているうちに、窓の隙間が灰色から薄青へと変わり、夜が明けた。
台所に降りると、もうエルダが火を起こしていた。
エルダとガルド、そしてリラと、最後になるかもしれない食事を取る。湯気の立つ椀を前にしても、誰も口を開こうとしなかった。匙の触れる音だけが、狭い部屋にこだまする。
食べ終えると、皆で家の中央に立つ飾り柱に、手を合わせた。
「絶対に生きて帰ってきなさい」
エルダの声は震えていた。俺は頷くことしかできない。
続けて、ガルドが太い腕を組んだまま言った。
「自分、信じろ」
短い言葉だった。けれど、この不器用な鬼がひねり出した精一杯の激励だと、俺には分かった。
リラは、無言だった。俯いたまま、俺の袖をぎゅっと握って、それきり離さない。俺はその手にそっと自分の手を重ね、ゆっくりと解いた。
「行ってくる」と告げて、俺は家を出た。
試練参加者が、村の広場に集まっていた。
広場の中央には、普段は置かれていないはずの石像が据えられている。近づいて見上げ、俺は思わず眉を寄せた。
(なぜ鬼の村に、人間の像が……)
胸当てと外套を身につけた、冒険者を思わせる人の石像だった。鬼のものではない。誰が、何のために――問いは胸の内で渦を巻いたが、答えを探す間もなく、周囲の気配に気圧される。
広場には、初めて見る鬼の子が大勢いた。
潰れたような鼻。ぎょろりと丸い濁った目。ガタガタの尖った牙。
よくもまあ、これだけ醜い顔が揃ったものだ。
気持ち悪い。
視界に入るだけで、胃の奥がざらつく。
ほとんどが、ボロボロの服を着ている。剥き出しの腕や首筋には無数の傷跡が刻まれていた。
傷を誇るように立つ者もいる。
馬鹿らしい。傷の数を競って、強くなったつもりか。
この中の半分が死ぬ。
それなのに、笑っている鬼までいる。
死ぬかもしれない場所で、よくそんな顔ができるものだ。
鬼は、やはり理解できない。
人間は、俺だけだった。
視線が集まる。
肌を、無数の針で刺されているようだった。
「なんで人間がいるんだ」
「あいつ、死ぬ気か?」
様々な声が、あちこちから聞こえてくる。
――こっちが聞きたい。
そんな連中と同じ場所に立っていることすら、吐き気がした。
それでも、顔には出さない。
俺はただ前を見て、拳を握った。
そのときだった。
広場の奥で、白い影がゆっくりと天へ昇った。
地平からようやく姿を現した朝日を、その背が静かに覆う。
次の瞬間、背後から溢れた朝の光が白い影の輪郭を黄金に染めた。
その姿は、人ではなく、神が天へ帰っていく瞬間のように見えた。
だが、光が和らぐにつれ、その正体が浮かび上がる。
白いマントを羽織り、腰には白い剣を携えた、人間の男だった。傷ひとつない精悍な顔立ち。全身から圧倒的な気配が立ち上り、ざわついていた広場は、水を打ったように静まり返る。
この世界に来て、初めて見る人間だった。
同郷ではないと分かっていても、その姿に、胸の奥がわずかに疼く。
(人間が……鬼の村に、なぜ?)
遅れて、もう一つの影が浮かび上がった。クレイヴンだ。
黒いローブを纏い、顔には恐ろしい傷が幾筋も走っている。彼が隣へ並ぶと、白マントの男が静かに口を開いた。
「初めまして、鬼の子達。私はロラン。人と鬼の協定により、試練の見届け人として参った。試練終了まで、皆の健闘を祈る」
穏やかな声が、不自然なほど大きく広場の隅々まで届く。
続けて、クレイヴンが話す。
「試練の監督は俺が務める。第一の試練は、魔石の採取だ。付いてこい」
クレイヴンとロランに連れられ、俺たちは村の外へ出た。
森の中を、草を踏みしめながら、しばらく歩く。
「本当に、死に来たのか。ヒカル」
横合いから嘲るような声がかかった。ゼルガだ。
「黙れ。試練の前に殺すぞ」
「死ぬのはお前だ――」
言い終えるより早く、ゼルガが飛びかかってきた。
その瞬間。
「止まれ」
クレイヴンの声が響き、足を止めた。
ゼルガは渋々、拳を引く。
目の前には、広場にあったのと同じ、人間の像が立っていた。森の奥深く、こんな場所にまで。
クレイヴンは像の台座に手を着き、なにか呟いた。その瞬間、地面が紫色の幾何学模様を描いて光り出す。石畳が割れ、地の底へと続く階段が、ぽっかりと口を開けた。
「試練は、この中で行う。無作為に選ばれた三人一組で地下迷宮に潜り、魔石を手に入れてこい。魔石の採り方は、組で考えろ」
(鬼とチーム戦なんて、最悪だ)
せめて、あいつとだけは、別の組にしてくれと願った。
クレイヴンが指を鳴らすと、地面に、黒炎の輪が次々と描かれていく。
俺が囲まれた輪の中には、ボロボロの服を着た細身の鬼と、そして、ゼルガがいた。
「ぼっ、ぼくリグ。よろしくね」
細身の鬼が、おどおどと名乗った。
「ああ」
俺は短く返す。
「お前ら、足手纏いになるなよ」
ゼルガが吐き捨てた。
こいつと同じ組なんて、本当に、最悪だ。
「正午までに、魔石を持って出てくる。それが条件だ。一人でも欠けたり、少しでも遅れたら失格。例外は無い。それが鬼の掟だ」
クレイヴンがそう言い、ロランが片手を挙げて合図した。
「第一の試練、開始」
鬼達が、一斉に階段を駆け降りていく。
俺は、ゼルガに置いていかれないよう必死に走った。
『光一郎様。日の出から逆算して、正午まで――およそ六時間です』
コーシーの淡々とした声が、かえって焦りを煽った。
ゼルガの脚は速い。かなりのペースだ。息を切らして食らいついていくうちに、俺とゼルガは、参加者の先頭を走っていた。
いくつもの分かれ道を曲がりながら、二人で奥へ、奥へと進む。
最初に襲いかかってきたのは、三体の骸骨だった。
全身を、青黒い炎が蛇のように這っている。骸骨どもが両腕を高く掲げると、その炎が人の顔へと歪み、口を大きく裂いた。
――ギャアアアアアアアッ!!
悲鳴とも笑い声ともつかない奇声を上げて、燃える顔だけが宙を飛んでくる。
俺は身を捻って躱した。
炎は、背後の鬼へ直撃した。
その鬼は突然、自分の頭を抱えて叫び始める。
「やめろ……! 来るな! 来るなぁぁ!」
何もない空間を殴りつけ、あろうことか、自分の仲間へ襲いかかった。
ゼルガは振り返らず進み、炎を涼しい顔で避け、亡者の頭蓋を殴り砕いた。俺も骸骨に接近し、一体を壁へ叩きつけた。砕けた頭から這い出そうとした青黒い炎が、行き場を失って霧散した。
背後では、炎に憑かれた鬼がまだ仲間を殴りつけている。
ゼルガは駆け抜け、俺も後を追った。
分かれ道を、右へ、左へ。ゼルガが速度を緩めないまま魔物を薙ぎ払い、俺がその残りを倒す。妙に、呼吸が合っていた。合いすぎたのかもしれない。前へ、前へと打ち込むことに夢中で、後ろを確かめる余裕がなかった。
ふと、背後が静かすぎることに気づいた。
足を止め、振り返る。リグどころか、他の鬼の姿も、どこにもない。呼吸を合わせているつもりで、いつの間にか、置き去りにしていたらしい。
「ゼルガ、待て」「もう限界か?」「リグがいない」
ゼルガが舌打ちをして、足を止めた。
「くそっ。戻るぞ」
来た道を、ゼルガが引き返し始める。
だが――十度目の曲がり角で、ゼルガが右へ折れようとした。
「ゼルガ、逆だ」「……覚えているのか?」「当たり前だ。付いてこい」
ゼルガの勘は鋭い。だが、俺は来た道を一つ残らず覚えている。今度は俺が先導する番だった。
◆ ◆ ◆
――その頃、リグは。
ヒカルとゼルガの背中は、とうに見えなくなっていた。 闇雲に進んだところで、合流できる見込みは薄い。かといって、追いつくのに必死で、出口までの道すら覚えていない。前も後ろも、どちらへ進めばいいのかわからなかった。 リグは壁を背に座り込み、一歩も動けずにいた。
自分が他の鬼より弱いことは、とうにわかっていた。 それでも今朝、人間を見たとき、ほんの少しだけ希望が湧いたのだ。小柄な自分より、さらに体の小さい人間が試練に参加している。あれになら、少なくともあの人間になら、負ける気がしなかった。
だが、試練が始まってすぐ、その希望は砕けた。 人間にすら追いつけず、迷宮に一人取り残されている。膝を抱え、リグはうつむいた。喉の奥から、絶望がせり上がってくる。
その時だった。 地の底を這うような音とともに、目の前に魔物が現れた。 鋼鉄の鎧に覆われた、巨大な蟻。一体ではない。大群だった。無数の脚が石畳を叩き、金属めいた顎が擦れ合う。
走り疲れた体に、これを倒す力はもう残っていない。 それでも、リグはゆっくりと立ち上がった。諦める気はなかった。 どうしても、王都へ行かなければならない理由があったから。
先頭の一体が、リグめがけて突進してくる。 リグは震える足を踏ん張り、拳を構えた瞬間――
横合いから吹き込んだ二つの影が、蟻の大群をまとめて薙ぎ払う。 ゼルガの拳と、ヒカルの蹴りだった。
「ありがとう……」
「勘違いするな」ゼルガが吐き捨てた。
「一人欠けたら、俺も失格になる。それだけだ」
今度は、リグのペースに合わせて奥へ進む。二度と逸れないよう、歩幅を緩めた。 戻ったぶん、確実に時間を食った。焦りが胸の底で燻る。
目の前に、また下りの階段。ふと、引っかかった。
この階段、あの方向を向いているんじゃないか?
階層が下がるほど、魔物は強くなる。それは進みながら肌で感じていた。だが、気になるのはそこじゃない。
俺は足を止めた。頭の中で、ここまで通ってきた道のりを巻き戻す。分かれ道、曲がった向き、下りの傾斜を、一つずつ思い返して、迷宮の地図を組み立てていく。
「コーシー。潜ってからの階層と、進んだ方角。記録してるか」
『はい。すべて』
「照らし合わせてくれ。深くなった地点は、どっちを向いていた」
わずかな間があった。
『……村のある方角へ進むほど、階層が深くなっています』
やっぱりか。
(村へ向かうほど、深くなる……)
そこまで来て、ヴァルム先生の言葉が蘇った。魔石は、魔力の濃い場所に生じやすい。
魔力が濃ければ、湧く魔物は強くなり、階層は深くなる。
だとすれば、答えは一つしかない。
最も魔力が濃い場所……村の、真下。そこに、魔石はあるはずだ。
『同意します。最深部が最も魔力濃度が高く、魔石の生成条件を満たす。理屈は通っています』
バラバラだった手がかりが、頭の中で一つの像を結んだ。迷宮の仕組みが、見えた。
村へ、まっすぐ。それが、最短距離だ。
「こっちだ」
『リグさんの捜索と往復で、二時間近くを消費しました。残り、およそ四時間です』
コーシーの報告が、焦りに火を点ける。
魔石を持って帰るには、ギリギリの計算だ。
迷宮を進むにつれ、先頭で魔物を狩るゼルガに、疲れが見え始めた。
「俺が代わる」
「大丈夫だ。休んでろ」
「お前に助けられるのはごめんだ」
「言っておくが、お前を助けてるわけじゃない。俺が前に進むのに、お前が邪魔なだけだ」
「隣ならいいだろ」
「勝手にしろ」
俺はゼルガの横に並び、押し寄せる魔物の、半分を引き受けて進んだ。
村の真下に近づいた途端、空気が分厚くなり、見えない手で押さえつけられているような感覚に襲われた。全身の毛が逆立つ。
間違いなく、この奥に、何かがいる。
さらに進むと、奥から巨大な魔獣が現れた。
狼のような姿。毛は真っ白で、迷宮の天井に届かんばかりの高さ。
その姿に、俺の記憶が、否応なく引きずり出された。
あの時の。
リラのために薬草を採りに行った、あの日。崖際で俺を追い詰めた、白い狼の群れ。何度撃っても、毛皮の上を滑り落ちていった炎。崖の縁で嗅いだ、死の匂いが、鮮やかに蘇る。
足が、震えていた。
ゼルガが、横目で俺を見た。
「足が震えてるぞ、人間」
そう言って、白狼へ駆け出す。
『光一郎様、逃げてください』
震える心を見透かすように、コーシーの声が響いた。
『炎は、あの毛皮に弾かれます。……忘れたんですか、あの日を』
うなじから背骨へ、冷たいものが伝い落ちる。あの日の敗北が、膝を軋ませる。
だが、前を見れば、ゼルガが一人、白狼へ向かっている。退くことなど、微塵も考えていない背中だった。
「……悪いな、コーシー」
俺は、震える足を無理やり前へ踏み出した。
『光一郎様!?』
あの日、ガルドの拳は、届いた。
魔法が弾かれても、物理は通る。ならば、魔法を物理攻撃に変えて殴ればいい。この一手のために、俺は稽古を積んできた。
ゼルガが白狼の正面へ躍り出て、牙を、爪を、躱しながら何度も攻撃を叩き込む。
俺は、白狼へ向かいながら、右手を床すれすれに滑らせる。魔力を這わせると、砕けた石が手のひらへ集まり、膨れ、固まった。
顎めがけて岩の拳を、渾身の力で振り抜く。
鈍い衝突音が響き、巨体がわずかに傾いた。
恐怖が消えたわけじゃない。ただ、「効いた」という感覚だけが、震える身体に残った。
だが、安堵する間もなく、闇の奥から、白い影が次々と湧き出してくる。
群れだった。
ゼルガが一匹を殴り飛ばす。
リグは叫びながら、群れへ飛び込む。
俺は、隙を見て拳を叩き込む。
最初は、それぞれが目の前の敵と戦っていた。
それが、いつしか変わっていった。
ゼルガが踏み込めば、俺が横へ回る。
リグが敵を押し返せば、俺が追い打つ。
俺の拳が白狼を弾けば、そこへゼルガが入る。
言葉はなかった。
ただ、互いの動きに身体がついていった。
石が砕ければ、また纏う。踏ん張れなくなっても浮遊で飛ぶ。
そして、最後の一匹。
これまでの白狼より一回り大きかった。
顔の中央には黒い毛が集まり、その額に、黒紫色の小さな石が埋め込まれている。
(……あれは)
魔石。
間違いない。
だが、考えている暇はなかった。
狼は牙を剥き出し飛びかかって来る。
俺は、魔力壁で牙を防ぎ、岩を纏って蹴り上げる。
ゼルガが横から拳を叩き込み、白狼の身体が少し流れた。
リグが、その先で白狼にしがみついて叫んだ。
「やれ!ヒカル!」
俺は飛んだ。右手に、ありったけの魔力を注ぎ込む。岩を固め、ガルドのような巨大な腕を生み出した。
そのまま体を回転させる。
一回、二回、三回――回るたびに勢いを増し、巨大な拳が白狼へ迫る。
そして、四度目の回転で、拳が白狼の頭を捉えた。
鈍い衝撃が響く。
その反動が、岩の腕から肩へ、背骨へと突き抜けた。
白い巨体が、ゆっくりと崩れ落ちる。
――静寂。
あとには、三人の荒い呼吸だけが残った。
俺は、倒れた白狼へ近づいた。
額には、まだ魔石が埋まっている。
俺は白狼の額に埋まった魔石へ手を伸ばした。
「待って」
リグが声をかけた。
「僕がやる」
「お前が?」
「うん。僕の爪なら、傷付けずに取れる」
リグが白狼の頭へ近づく。
鋭い爪を魔石の縁へ差し込み、周囲の肉を傷つけないよう、慎重に動かしていく。
ぎち、と音がした。
魔石を覆っていた組織が少しずつ剥がれていく。
リグは焦らなかった。
爪を深く差し込み、てこのように傾ける。
やがて――
ころり。
黒紫色の魔石が、白狼の額から抜け落ちた。
リグはそれを両手で受け止める。
「取れた」
血にまみれた爪とは対照的に、魔石は傷ひとつなく、鈍い光を放っていた。
掌に収まった魔石が、かすかに脈打つ。
「……これが、魔石」
俺は、それを握りしめた。
足は、まだ震えていた。




