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領地改革、始動

いつもお読みいただき、ありがとうございます。

第八話、村人という心強い味方を得たイザベラが、本格的な領地改革計画に着手します。

しかし、その壮大な計画には、あまりにも大きな壁が立ちはだかっていました。

 あの奇跡のような芽生えから数日。ヴェルテンベルク領の空気は、まるで長い冬の終わりを告げる春のように、確かな熱を帯び始めていた。広場のプランターで日ごとに力強く葉を広げるラディッシュの苗は、村人たちにとって何よりの希望の象徴となっていた。もはや、私のことを「追放されてきた悪女」と呼ぶ者はいない。彼らは敬意と、そしてわずかな畏怖を込めて、私のことを「令嬢様」と呼んだ。


 その日の昼下がり、私は村人たちを再び教会に集めていた。私の研究室(ラボ)と化したこの場所は、今や村の臨時議会場でもある。祭壇の上には、私が夜なべして書き上げた数枚の羊皮紙が広げられていた。

「皆さん、先日お見せした緑の芽生えは、ほんの始まりに過ぎません。私たちの目標は、あの小さな木箱の中だけでなく、このヴェルテンベルク領の全ての畑を、再び緑で満たすことです」

 集まった村人たちの顔に、緊張と期待が浮かぶ。私は、一枚の羊皮紙を掲げた。そこには、ヴェルテンベルク領のおおまかな地図と、いくつかの区画分けが記されている。

「これは、私が『|領地カルテ』と名付けたものです。人間の体を診察するように、土地の状態を正確に把握し、それぞれに合った治療法を施すための、いわば『診療録』ですわ」

 私は、地図上の区画を指し示しながら説明を続ける。

「私が採取した土壌サンプルを分析した結果、この領地の土は、場所によって汚染の度合いや残存する栄養素が大きく異なることがわかりました。例えば、川沿いの土地は比較的汚染が軽く、腐植土を投入すればすぐにでも作付けが可能でしょう。逆に、森に近い丘陵地帯は魔法機械(グレイ・ダスト)の密度が高く、まずは徹底的な土壌浄化から始めなければなりません」

 私の言葉に、村人たちは驚きの表情を浮かべる。彼らにとって、土地とはただ「良い土地」か「悪い土地」かの二種類でしかなかった。それを科学的に分類し、それぞれに違うアプローチが必要なのだという考えは、まさに青天の霹靂だっただろう。


「私たちの計画は、三つの段階に分かれます」

 私は指を一本ずつ折りながら、計画の全貌を明らかにする。

「第一段階、『土壌再生』。村の総出で、複数の巨大な堆肥枠を設置します。エリックの協力のおかげで、製造方法は確立できました。これを大規模に行い、領地全体を甦らせるための『黒い土』を量産します」

 エリックが、誇らしげに胸を張る。彼は今や、村の若者たちのリーダー格となっていた。

「第二段階、『作物の多様化』。この国の経済は『マナ・ウィート』の単一栽培に依存しすぎた結果、非常に脆くなっています。私たちは、マナ・ウィートだけでなく、寒さに強い麦や芋、栄養価の高い豆類、そして保存の効く野菜など、複数の作物を計画的に栽培します。これを『輪作(りんさく)』と言い、土地の栄養が偏るのを防ぎ、病害にも強い、持続可能な農業の基本です」

「そして、第三段階、『新産業の創出』。再生した土地で収穫した作物に、私の持つ『発酵』の技術を組み合わせます。皆さんがこれまで食べたこともないような、美味しいパンや、長期保存が可能なチーズ、そしていずれは、王都の貴族たちが競って買い求めるような、芳醇な『ワイン』さえも、この土地で生み出すことができるのです」

 私の言葉に、村人たちの間に熱狂的などよめきが広がった。飢えることしか知らなかった彼らが、自分たちの手で、王都の人間をあっと言わせるような産物を作り出す。それは、あまりにも甘美で、力強い夢だった。


 だが、その熱狂に冷や水を浴びせたのは、村長だった。彼は、静かに手を挙げると、重い口を開いた。

「……令嬢様。そのご計画が、どれほど素晴らしいものであるか、このワシにもようく分かります。ですが、そのためには、あまりにも多くのものが足りておりません」

 村長は、節くれだった指を一本ずつ折っていく。

「まず、種です。我らが持っているのは、痩せた土地でかろうじて収穫できた、質の悪いマナ・ウィートの種だけ。令嬢様の仰る、麦や芋や豆の種など、どこにもありはしません。次に、道具。村にある鍬や鋤は、もう何年も使い古したボロばかり。大規模な開墾に耐えられるものではございません。そして、何よりも……」

 彼は、深くため息をついた。

「……()()、ありません。種を買い、道具を揃えるための資金が、この村には一銭たりとも残っておりません。夢を語るのはたやすい。ですが、我々には、その夢を実現するための力が、あまりにも無さすぎるのでございます」

 村長の言葉は、厳しい現実だった。熱狂に包まれていた教会は、水を打ったように静まり返る。村人たちの顔から、希望の色が再び消え、いつもの諦観が戻ってきていた。

 私にも、わかっていた。科学的な計画は立てられても、それを実行するためのリソースがなければ、全ては絵に描いた餅だ。ヴェルテンベルク公爵家は、叔父によって財産のほとんどを食い潰されており、私の手元に残された資金も、当座の生活費で消えてしまうだろう。

(どうすれば……。何か、方法はないの……?)

 私が唇を噛みしめ、打開策を必死に探していた、その時だった。


 教会の古びた扉が、重々しい音を立てて開かれた。

 そこに立っていたのは、村の者ではなかった。陽の光を背に受け、逆光でその表情は窺えない。だが、その人物が纏う、冷たく、しかし圧倒的な存在感を放つ鎧は、見間違えようもなかった。

「……辺境伯様……!」

 村の誰かが、かすれた声で呟いた。

 ゆっくりと教会の中へ足を踏み入れてきたのは、このヴェルテンベルク領の隣を治める、氷鉄(・・)()辺境伯(・・・)、レオンハルト・フォン・シュヴァルツェンベルク。その人だった。

 彼の後ろには、一糸乱れぬ動きで二人の騎士が控えている。彼らの装備は、エリックのような元兵士から見れば、まさに雲の上の存在だろう。村人たちは、まるで蛇に睨まれた蛙のように、その場で凍り付いてしまった。

 レオンハルトは、村人たちには一瞥もくれず、まっすぐに私の方へと歩いてくる。彼の氷を思わせる銀灰色の瞳が、私を射抜いた。

「……騒がしいな。貴様が、追放されてきたという公爵令嬢か」

 その声は、彼の異名通り、低く、感情の温度を感じさせない、冷ややかなものだった。

「先日、私の配下の者が、この村で奇妙な噂を耳にした。『追放された悪女が、黒い土と緑の芽で、村人を惑わしている』、と。馬鹿げた話だと思ったが、念のため、私の目で確かめに来た」

 彼は、祭壇の上に広げられた私の『領地カルテ』に目を落とす。その瞳が、わずかに細められた。

「……これは、なんだ? 領地の地図……いや、それだけではないな。この区画分けと、記号のような書き込みは……」

「私の研究ノートですわ、辺境伯様。この土地の病状を記した、診療録ですの」

 私は、彼の圧倒的な威圧感に臆することなく、毅然として答えた。

「ほう、診療録、か。では、お嬢様は医者だとでも言うのかね?」

「ええ、その通りですわ。そして、すでに病の原因を特定し、治療法も確立いたしました。あとは、治療に必要な『薬』と『道具』が足りていないだけですの」

 私の言葉に、レオンハルトは初めて、その無表情な顔に、興味とも嘲笑ともつかない、微かな変化を見せた。

「……面白いことを言う。では、その『薬』とやらを、この私に提供しろとでも言うつもりか?」

「いいえ、違いますわ」

 私は、きっぱりと首を横に振った。

「私は、あなた様に施しを乞うているのではありません。取引(・・)()提案(・・)して(・・)いる(・・)のですわ(・・・・)

 私は、羊皮紙の中から、一枚のレポートを取り出し、彼に差し出した。それは、私がこの数日で書き上げた、ヴェルテンベルク領の土壌再生計画と、それによってもたらされる未来の食料生産量の予測データだった。

「あなた様の領地は、冬が長く、常に兵たちの食料――兵站(・・)()問題(・・)()悩まされて(・・・・・)いる(・・)と伺っております。私がこの土地を再生させれば、冬を越すための保存食を、安定して供給することが可能となります。それは、あなた様の軍にとって、何にも代えがたい戦略的優位性をもたらすはずです」

 私は、彼の目を見据えて、最後の切り札を切った。

「私に必要なのは、種と、農具。そして、最初の収穫までの間、私の民が飢えないための、わずかな食料支援。それは、あなた様にとって、慈善事業などではないはずです。未来への、最も確実な『投資(とうし)』ですわ」


 教会は、水を打ったように静まり返っていた。村人たちも、アルフレッドも、そしてレオンハルトの騎士たちさえも、息を殺して私たちのやり取りを見守っている。

 レオンハルトは、しばらく黙って私を見つめていたが、やがて、ふ、と息を漏らすように、その口元に初めて笑みの形を浮かべた。

「……クク……投資、か。王都の令嬢たちが着飾る宝石やドレスではなく、泥と種に投資しろ、と。貴様は、やはり、面白い女だ」

 彼は、私が差し出したレポートを受け取った。

「よかろう。その『投資』、乗ってやろう。必要なもののリストを寄越せ。三日後には、私の部隊が物資を届ける」

 その言葉は、この絶望の土地に差し込んだ、最初の、そして最も力強い光だった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

ついに、ヒーローであるレオンハルト辺境伯が本格的に登場しました。イザベラの科学は、彼の心を動かすことができるのか。二人の関係が、ここから始まります。


次回は、今晩に更新予定です。

次回「氷鉄の辺境伯の『投資』」。レオンハルトから届けられる物資。それは、イザベラの想像を遥かに超えるものでした。


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