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『追放悪役令嬢の発酵無双 〜腐敗した王国を、前世の知識(バイオテクノロジー)で美味しく改革します〜』  作者: 杜陽月
番外編

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被験者Aの経過観察——365日後

被験者Aの経過観察。


 一年が過ぎた。


 離宮の壁に、私は爪で日数を刻んでいた。最初は几帳面に一本ずつ。やがて面倒になり、七日ごとの束になり、今ではその束すら数えるのをやめた。


 変わったのは、壁の傷だけではなかった。


 監視の騎士が、四名に増えていた。


 理由は簡単だ。離宮の外で、世界が動いている。新しい摂政——レオンハルト・フォン・シュヴァルツェンベルクの統治下で、王国は急速に変貌しているらしい。

 そして、その変貌の中心にいるのは。


「……また、あの女の名前か」


 騎士たちの会話を盗み聞くのが、日課になっていた。情けない。かつて玉座に座っていた男が、壁に耳を押し当てて、他人の噂話を貪っている。


「イザベラ・フォン・ヴェルテンベルクの発酵ギルドが、ついに王都にも支部を開いたらしい」


「それどころか、麦の手形が事実上の国際通貨になりつつある。隣国のグラーツ帝国まで、正式に取引通貨として認めたと」


「あの腐った土地の令嬢が、帝国をも動かしたのか」


「レオンハルト摂政殿下も、ヴェルテンベルクに足繁く通っているそうだ」


 最後の一言が、特に、刺さった。


 レオンハルト。


 あの男だ。あの断罪の日、広間の隅で冷めた目をして立っていた、父の弟の息子。私が「陰気な従兄弟」と呼んで見下していた男が、今、摂政として王国を治めている。


 そして、あの女のもとに通っている。


(……なぜだ。なぜ、こうなった)


 この問いを、何百回繰り返しただろう。


 答えは、いつも同じだった。分からない。


 いや、分かっている。分かりたくないだけだ。


 リリアナの奇跡は、偽物だった。あの美しい聖女の力は、教皇庁のシステムに依存した見せかけの魔法に過ぎなかった。

 私はそれを知らずに——いや、薄々気づきながら、目を逸らした。


 一方で、あの女の科学は本物だった。


 地味で、退屈で、宴の席で誰も聞きたがらない微生物の話。あれが、本物の力だった。


 最近、離宮に届く食事が、少しだけ変わっていた。


 パンが、柔らかくなっている。


 世話係の老婆に聞いた。


「ああ、あれですか。ヴェルテンベルクの小麦粉が、このあたりの市場にも出回るようになりましてね。安いのに質がいいもんで、うちの村のパン屋も切り替えたんですよ」


 あの女の小麦粉が、離宮にまで届いている。


 私を幽閉するためのこの場所に。あの女が豊かにした土地の恵みが。


 笑うしかなかった。


 声にならない、乾いた笑いが喉の奥で鳴った。


 午後になると、書記官が来た。


 今回は、書類だけではなかった。父上——いや、元国王陛下からの直筆書状。


「元王太子アラン・フォン・エーデルシュタインへ。レオンハルト摂政の提案により、離宮の処遇を緩和する。外出は許可しないが、書物の差し入れと庭での散歩を認める」


 処遇の緩和。


 レオンハルトの提案。


 あの男は、私を憐れんでいるのか。それとも、もはや脅威とすら見なしていないから、鎖を緩めても構わないと判断したのか。


 おそらく後者だ。


 翌日、約束通り、書物が届いた。三冊。


 そのうちの一冊に、手が止まった。


『ヴェルテンベルク領の農業革命——科学的土壌改良の記録』


 著者は、イザベラ・フォン・ヴェルテンベルク。


 書記官の嫌がらせか。レオンハルトの教育的配慮か。それとも、ただの偶然か。


 分からない。だが、私はその本を開いた。


 読まなければよかった。


 そこには、あの女が何をしたかが、克明に記されていた。土壌菌の分析。魔瘴の正体の解明。バイオレメディエーションによる段階的浄化。そして、最適な発酵条件の発見。


 どの頁も、緻密なデータと実験記録に裏打ちされていた。感情の入り込む余地のない、純粋な知性の結晶。


 あの女は、こういう人間だったのだ。


 宴の席で誰にも聞いてもらえなかった微生物の話。あれは、退屈な雑学ではなく——この本に書かれているような、途方もない知識の、ほんの一端だったのだ。


 私は、あの時、何を見ていたのだろう。


 美しい聖女の銀髪に見惚れ、隣に立っていた地味な婚約者の言葉を、一度も聞かなかった。


 本を閉じた。


 指先が、震えていた。


 その夜、眠れなかった。


 天井の染みを見つめながら、あの断罪の日を何度も何度も反芻した。あの広間で、あの女は何と言っていただろう。


 確か——微笑んでいた。静かに、穏やかに、まるで全てを予見していたかのように。


 「ええ、最高にお似合い(・・・・・・・)でしたわ」


 あの言葉の意味を、私はようやく理解し始めていた。


 あの女は、怒ってなどいなかった。嘆いてもいなかった。


 あの女は——あの瞬間から、もう、前を向いていたのだ。腐った土地を渡された瞬間に、その土地で何ができるかを考え始めていた。


 一方、私は。


 一年経った今でも、あの広間から一歩も動けていない。


「リリアナ」


 彼女は、離宮の隅で膝を抱えていた。かつての可憐な聖女の面影はない。痩せ、やつれ、目の下に深い隈を刻んでいた。


「……はい」


「お前の奇跡は、なぜ起こらなくなった」


「……分かりません。ある日を境に、光が、応えてくれなくなったのです」


 ある日。


 それがいつなのか、今の私は知っていた。騎士たちの雑談によれば、教皇庁で何か大きな変動があったらしい。

 聖女セラフィナが「真の聖女」として全権を掌握し、リリアナのような「地方聖女」への力の供給を止めた、と。


 つまり、リリアナは、最初から捨て駒だったのだ。


 私が王位をかけて守ろうとした聖女は、上位の権力者にとっては、使い捨ての道具に過ぎなかった。


 そして、その道具のために、私は本物を手放した。


 あの書物をもう一度開いた。巻末に、著者略歴があった。


「イザベラ・フォン・ヴェルテンベルク。放線菌研究の第一人者。バイオレメディエーション技術の開発者。ヴェルテンベルク王立発酵ギルド創設者。現在、惑星規模の環境浄化プロジェクトを主導」


 惑星規模。


 あの女の視野は、もう、一つの領地に収まっていない。王国すら超えて、世界全体を見据えている。


 一方の私は、離宮の窓から見える範囲すら把握できていない。


(……笑えるな。道化だ。俺は、最初から最後まで、道化だった)


 離宮の窓から、遠くの街道が見えた。


 商人の馬車が行き交っている。以前よりも、明らかに数が増えていた。荷馬車の荷台には、見慣れない紋章が描かれた樽が積まれている。


 あの紋章を、私は知っている。


 白い放線菌を中心に、麦の穂が交差し、歯車が囲む意匠。ヴェルテンベルク王立発酵ギルドの紋章だ。


 あの女が作った紋章が、今、この国の経済を動かしている。


 私が与えた「罰」が、あの女にとっては最高の贈り物になったのだ。


「……アラン様」


 リリアナが、涙声で言った。


「……私のせいです。私があなたを、こんな場所に——」


「違う」


自分でも驚くほど、静かな声。


「お前のせいじゃない。俺が——俺が愚かだっただけだ」


 一年前、私は玉座の上から世界を見下ろしていた。全てが手の中にあると思っていた。


 今、窓越しに見上げる空は、あの日と同じ青さだ。


 だが、その空の下で動いているのは、私の知らない世界だった。あの女が——イザベラが作り替えた、新しい世界。


 私の手は、もう何にも届かない。


 窓の外を、発酵ギルドの荷馬車が、また一台、通り過ぎていった。

被験者Aの経過観察、365日目——記録終了。

本編は第46話へ続きます。

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