被験者Aの経過観察——120日後
被験者Aの経過観察。
窓の外は、灰色。
空も、壁も、庭の枯れ木も。この離宮の全てが、色を失っている。
俺は——いや、私は、かつてこの国の次期国王だった。アラン・フォン・エーデルシュタイン。今はただの、囚人だ。
四ヶ月。
あの断罪の日から、百二十日が過ぎた。
離宮と呼ぶには粗末すぎるこの石造りの屋敷には、監視の騎士が二名。世話係の老婆が一名。そして、リリアナ。
リリアナは、もう奇跡を起こさなくなっていた。
「……アラン様。お食事を」
彼女が持ってくるのは、硬いパンと薄い粥。かつて宮廷で食していた七皿のコースとは、比べるまでもない。
「……ああ」
私はそれを受け取り、窓辺で齧った。パンは不味かった。小麦粉の質が悪い。発酵も不十分で、中心が生焼けだ。
発酵。
その言葉が、不意に、胸の奥を刺した。
(……あの女の領地では、今頃、どんなパンを焼いているのだろうか)
噂は、監視の騎士の雑談から聞こえてきた。彼らは私に聞かせるつもりはなかったのだろう。だが、この離宮は狭い。壁が薄い。声は、否応なく耳に入ってくる。
「ヴェルテンベルク領が、すごいことになっているらしいぞ」
「ああ。あの腐った土地が、今や王国一の穀倉地帯だと。信じられるか?」
「何でも、追放された令嬢が、科学とかいう怪しげな術で土を蘇らせたとか」
「パンがうまいらしい。商人たちが競って取引したがっている」
私は、パンを噛む手を止めた。
腐った土地。私があの女に押し付けた、呪われた領地。魔瘴に汚染され、作物も育たない、王国で最も価値のない土地。
それが——穀倉地帯?
馬鹿な。
ありえない。聖女リリアナの奇跡でさえ浄化できなかった土地を、あの女が? 科学などという、神の御業に背く邪法で?
手の中の硬いパンを見下ろした。
この離宮に届くパンは、王都の下級市民が食べるのと同じ——いや、それ以下のものだ。小麦は古く、酸味が混じり、顎が痛くなるほど固い。
あの女の領地のパンは、商人が競って買いたがるほどうまいのか。
(……くだらない。パンの味がどうだというのだ。俺は王太子だぞ)
だが、王太子の称号はもう剥奪されている。
それすら、騎士たちの雑談で知った。父上が正式な勅令を出したのだと。王位継承権の剥奪。爵位の降格。実質的な、追放。
皮肉。
俺があの女にしたことを、今度は父が、俺にしたのだ。
朝と夕方に、騎士たちが交代する。その度に、外の世界の断片が運ばれてくる。
「ヴェルテンベルクの発酵食品が、王都の市場に出回り始めたらしい。チーズだの味噌だの、聞いたこともないものばかりだが、味は確かだと」
「発酵ギルドの設立準備が進んでいるとか。クラウス・フォン・ホーフェンハイムが取りまとめ役だそうだ」
クラウス。あの名前を聞いた時、不意に、記憶が甦った。
断罪の日。広間の隅に立っていた、穏やかな顔の辺境騎士。あの女の傍らに、当たり前のように立っていた男。
あの男は最初から、あの女の側だった。俺の婚約者を見守る目で。俺には一度も向けられなかった、温かな目で。
(……あの時、なぜ気づかなかった。あの男があの女を見る目の意味に)
いや、気づいていたのかもしれない。
気づいた上で、どうでもいいと思っていたのだ。
あの女のことなど。
思い返せば、婚約時代のあの女は、いつも何かの本を抱えていた。分厚い、革表紙の本。表紙に菌糸の図解が刺繍されていたのを覚えている。
一度だけ、あの女が話しかけてきたことがあった。
「アラン様、土壌微生物のことなのですが——この菌株の組み合わせが、魔瘴汚染地域の浄化に有効かもしれません。お時間をいただけたら——」
私は手を振って遮った。舞踏会の最中だ。リリアナが待っている。微生物の話を聞いている暇などなかった。
あの時、三分だけ耳を傾けていたら。
何かが、変わっていただろうか。
変わっていたはずだ。
少なくとも、あの女を「退屈な人間」と決めつけることはなかったはずだ。
だが、覆水は盆に返らない。
「リリアナ」
「はい、アラン様」
「……お前の奇跡で、あの土地を浄化することは、できなかったな」
リリアナの目が、一瞬、揺れた。
「……はい。あの土地の汚染は、私の力では……」
「あの女は、それをやったそうだ。お前にできなかったことを」
沈黙。
リリアナが俯いた。その銀髪が、暗い影を落としている。かつて後光のように輝いていた銀髪が、今は色褪せて見える。
自分の声が、思ったよりも冷たく石壁に響いた。
リリアナに罪はない。彼女は聖女として生まれ、聖女として生きることしか教わらなかった。奇跡が消えた今、彼女には何もない。
私と同じだ。
玉座を失った王子と、奇跡を失った聖女。この石造りの離宮にいるのは、肩書きを剥がされた抜け殻が二つ。
午後、窓辺に腰掛けて外を見ていると、珍しく来客があった。
書記官だ。王都から、月に一度の状況通達を持ってくる。建前上は「元王太子殿下の処遇確認」だが、実態は監視報告の手続きに過ぎない。
書記官は淡々と書類を読み上げた。
「ヴェルテンベルク領の穀物生産量は前季比三十二パーセント増。発酵ギルドの正式認可手続きが進行中。また、同領からの技術供与により、周辺三領でも土壌改良事業が開始された模様」
周辺三領にまで。
あの女の影響が、もう、ヴェルテンベルクの外に広がっている。
「加えて、ヴェルテンベルク領の識字率向上政策が注目を集めており、視察団の派遣を検討する声が——」
「もう十分だ」
識字率。あの女は、パンだけでなく、教育にまで手を伸ばしているのか。
俺が王太子だった時代、識字率の向上など一度も議題に上がらなかった。貴族は学問をし、平民は畑を耕す。それが当たり前だった。
あの女は、その「当たり前」すら変えようとしているのか。
「……もういい」
書記官の口を止めた。
聞きたくない。あの女の成功を、事務的な数字で聞かされるのは——
いや、違う。聞きたくないのは、数字ではない。
あの女が正しかったという事実だ。
私が「邪法」と呼んだ科学が、奇跡を超えた。私が「腐った土地」と嘲った場所が、王国で最も豊かな領地になろうとしている。
そして私は、灰色の離宮で、生焼けのパンを齧っている。
窓の外を見た。灰色の空。灰色の庭。灰色の人生。
(……まさか。ありえない。あの、地味で、退屈で、酒宴の席で微生物の話しかしなかった、あの女が——)
窓の外で、冷たい風が枯れ枝を揺らした。
灰色の空に、わずかに、雲の切れ間が見えた。だがそこから差す光は、この離宮には届かない。
「……アラン様」
リリアナが、背後で小さく言った。
「……私たちは、いつ、ここから出られるのでしょう」
私は答えなかった。
答えられなかった。
四ヶ月前、私はこの国の王太子だった。あの断罪の舞台で、私は勝者だったはずだ。あの女を追い出し、リリアナの奇跡で国を導く——そのはずだった。
いつの間に、全てが逆転したのだろう。
パンの匂いが、どこかから風に乗って漂ってきた気がした。
気のせいだ。この離宮の周りには、畑すらない。
被験者Aの経過観察、120日目——記録終了。
本編は第二部「発酵と侵蝕」へ続きます。




