被験者Aの最終観察——世界が終わる日
被験者Aの最終観察。
◇
空が、赤い。
離宮の窓から見上げた月は、もはや月ではなかった。巨大な赤い瞳。この世界を睥睨する、神の目。
最初の光柱が大地を貫いた時、離宮の壁に亀裂が走った。
「アラン様! 危ない!」
リリアナが私の腕を引いた。天井から石片が降り注ぐ。監視の騎士たちは、任務を放棄してとうに逃げ出していた。
当然だ。世界が終わるかもしれないのに、罪人の監視などしている場合ではない。
私たちは離宮の地下室に逃げ込んだ。
暗闇の中で、リリアナが震えている。私も、震えていた。
認めよう。怖い。
かつて玉座に座り、国を治める器だと信じていた男が、地下室の隅で、膝を抱えて震えている。
地鳴りが断続的に続いていた。遠くで何かが崩れる轟音。悲鳴。そしてまた轟音。
リリアナが、暗闇の中で手を組んだ。
「聖なる光よ……どうか、この世界を……」
祈り。
もう奇跡は起きないと分かっているのに、それでも祈ることしかできない。
彼女の祈りを聞きながら、私は別のことを考えていた。
(……あの女は、今、何をしているのだろう)
科学。あの女が信じたもの。神の御業に背くと、私が嘲ったもの。
この光柱は、古代文明の兵器だと、騎士たちが話していた。衛星。粒子線。この世界を滅ぼすために作られた、前の文明の遺物。
奇跡では——リリアナの祈りでは——止められない。
では、科学なら?
あの女の、あの退屈な、微生物の話の延長線上にある知識なら?
馬鹿な。一介の令嬢に、古代兵器を止める力などあるはずがない。
だが、そう断じた瞬間、胸の奥で別の声が囁いた。
(お前は、前にも同じことを言ったな。腐った土地を蘇らせることなど、あの女にできるはずがないと。そう言って、間違えたのではなかったか)
二度目だ。二度目の、同じ過ち。
あの女を侮り、不可能だと決めつけ——そして裏切られる。いや、裏切られたのではない。最初から、私の認識が間違っていただけだ。
地鳴りが、一際大きく離宮を揺らした。地下室の天井から砂が降り注ぐ。リリアナが悲鳴を上げ、私の腕にしがみついた。
そして、沈黙。
どれほどの時間が過ぎたのか分からない。
地下室の扉を叩く音がした。
「おい! 中に誰かいるか!」
見知らぬ兵士だった。鎧にはシュヴァルツェンベルクの紋章。レオンハルトの部下だ。
「避難所が王都の北門に設営されている。来い」
兵士は、私の顔を見ても何の反応も示さなかった。かつての王太子だと気づいていないのか、それとも気づいた上で、どうでもいいと思っているのか。
おそらく後者だ。世界が終わりかけているのに、没落した元王子など、誰の関心も引かない。
私とリリアナは、瓦礫の中を歩いた。
外の光景は、地獄だった。
離宮の周囲の建物は半壊し、街道には亀裂が走っている。遠くの山から煙が上がり、空は赤い靄に覆われていた。
あの発酵ギルドの荷馬車が通っていた街道が、今は瓦礫で塞がれている。崩れた石壁の隙間から、ギルドの紋章が描かれた看板が、半分だけ覗いていた。
あの女が作った世界が、壊されようとしている。
避難所は、北門の広場に急造されたテントの集まりだった。そこに数百人の民衆が、毛布にくるまり、怯えた目で空を見上げている。
貴族も平民もなかった。全員が同じ毛布を被り、同じ硬いパンを齧り、同じ赤い空を恐れている。
テントの一角で、私は聞いた。
「ヴェルテンベルクの令嬢が、王都で戦っているらしい」
「あのイザベラ様が? 科学で、あの月の兵器をどうにかしようとしているって?」
「できるのか、そんなことが」
「分からない。でも、あの人しかいないだろう。この世界で、あの化け物に立ち向かえるのは」
あの人しかいない。
その言葉が、暗い避難所の中で、妙にはっきりと響いた。
ここにいる数百人の命が、あの女の肩にかかっている。この国の全ての命が。
二年前、私はあの女を追放した。
「腐った土地がお似合いだ」と嘲り、王国で最も価値のない場所に追いやった。
その女が、今、この世界を救おうとしている。
そして私は——かつてこの国の王だった男は——避難所のテントの隅で、毛布にくるまって、その報せを聞いている。
隣のテントで、幼い少女が母親に聞いた。
「ねえ、おかあさん。イザベラ様って、どんなひと?」
「とても頭のいい、すごい人よ。腐った土地をお花畑みたいにして、みんなのおなかをいっぱいにしてくれた人」
「じゃあ、あの怖い光も止められる?」
「……きっと止めてくれるわ。だって、あの人だもの」
母親の声は震えていた。だが、信じようとしていた。あの女の名前だけを頼りに。
(……これが、俺の断罪だ)
あの日、私が下した断罪ではない。世界が私に下した、本当の断罪。
あの広間で、俺は勝者の顔をして宣告した。お前は悪役だ。お前は追放される。腐った土地がお似合いだ、と。
だが、本当の悪役は、最初から、俺の方だった。
ヴェルテンベルクの書物を思い出す。あの本に書かれていた緻密なデータ。あの女の知性の結晶。
あの女は、追放された日に——おそらく馬車の中で——もう土壌分析の計画を立てていたのだ。泣くでも、恨むでもなく。科学者として、与えられた土地をどう蘇らせるかを。
俺が怒りに任せて叩きつけた「罰」を、あの女は最初の一日目から「機会」に変えていた。
そして今。世界が滅びかけるこの瞬間にも。あの女は泣いてはいないのだろう。恨んでもいないのだろう。
科学者として、この危機をどう乗り越えるかを、考えているのだ。
光柱がまた一本、遠くの山を貫いた。地面が揺れる。子供が泣き出す。母親が抱きしめる。
リリアナが、私の隣で、静かに祈っていた。もう奇跡は起きないと知りながら、それでも手を組んで、何かに祈っている。
私には、祈る相手すらいなかった。
もし。もし祈るなら。
(……頼む。あの女を、死なせるな)
それは祈りなのか、懺悔なのか、自分でも分からなかった。
夜が明けた。
赤い空が、少しずつ、青みを取り戻していた。
避難所に、伝令の騎士が駆け込んできた。
「月の兵器が——停止した! ヴェルテンベルクの科学者が、粒子線を逆流させて、衛星を無力化した!」
歓声が上がった。泣く者、抱き合う者、地面に跪いて感謝する者。
私は、立ち上がれなかった。
膝が笑っている。安堵か。恥辱か。その両方だ。
「イザベラ様が救ってくれたんだ!」
「あの腐った土地の科学者が!」
「科学万歳! イザベラ様万歳!」
民衆の歓呼が、避難所を満たしていく。
その中で、私はただ座り続けていた。
(……あの日、俺が追放した女が、世界を救った)
(そして俺は、避難所の片隅で、震えていた)
リリアナが、私の顔を覗き込んだ。
「……アラン様。泣いて、いらっしゃるのですか」
泣いていた。
いつから泣いていたのか、分からない。
涙の理由も、分からない。悔しいのか、情けないのか、それとも——あの女が生きていて、世界を救って、良かったと思っているのか。
全部だ。全部、同時に、胸の中で渦巻いている。
避難所の外で、朝日が昇り始めていた。
赤い空が、ゆっくりと、青に変わっていく。
その青空の下で。
「腐った土地がお似合いだ」と俺が嘲った女が、世界を救ったのだ。
そして俺は、それを、テントの隙間から、見ていた。
被験者Aの最終観察——記録完了。
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