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『追放悪役令嬢の発酵無双 〜腐敗した王国を、前世の知識(バイオテクノロジー)で美味しく改革します〜』  作者: 杜陽月
黒い土に種を蒔く

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誓約と、背後の影

観察対象——新たなる夜明けの先。

王都エーデンガルドは、静かだった。

 数日前までの暴動の熱狂が嘘のように、人々はただ、静かに配給の列に並び、ヴェルテンベルクから運ばれた温かい麦粥をすすっていた 。

 その光景は、復興にはまだ程遠い、この国の深い傷跡を物語っていたが、しかし、人々の瞳には、飢えと憎悪に代わって、微かな安堵の色が戻りつつあった 。


 王城の執務室は、レオンハルトによって臨時で設えられた合同作戦司令部と化していた 。


「バルド将軍、食料の配給ルートは確保を。クラウス、君の騎士団には王都内の治安維持を頼む。反乱分子の炙り出しも重要だが、飢えた民を力で抑えつけるな。我々は、略奪者ではない」


 レオンハルトの的確な指示が、よどみなく飛ぶ。それは、長年、国の最前線で戦い続けてきた彼だからこそ可能な、混乱を収拾するための力強い指揮だった 。


 会議の合間、私はアルフレッドが持ってきてくれた報告書に目を通していた。ヴェルテンベルクから届いた、最新の土壌分析データだ。


(pH値、4.2から6.8へ回復。窒素固定菌の密度、投入前の12倍。堆肥層の平均厚、40センチメートル。)


(作物の生育速度は、汚染前の記録を、すでに7パーセント上回っている……)


 数字を追う指が、震えた。嬉しさではない。

 もっと根源的な、何か。

 前世で、私は一本の論文も完成させることなく死んだ。査読付きジャーナルに載ることも、学会で発表することも、叶わなかった。


 だが、このデータは。

 この、何の変哲もない数字の羅列は。


(……私が生涯をかけた「土壌微生物の共生ネットワークが荒廃地再生に与える影響」のフィールドデータそのものだわ)


 前世の研究室では、シミュレーションの中にしか存在しなかった理論値が、今、現実の大地の上で、私の仮説の正しさを証明している。論文にしたい。

 この成果を、きちんとした形式で書き残したい。査読者は――ギムレックあたりが適任だろうか。


 思わず口元が緩む。科学者として、これ以上の喜びがあるだろうか。


「お嬢様、お疲れでは?」


 アルフレッドの心配そうな声に、私は首を振った。


「いいえ。今、私は前世を含めて、一番幸せかもしれない」


 彼は不思議そうな顔をしていたが、私は構わず、報告書の余白に、論文の構成案を走り書きし始めた。

 タイトルは――「魔瘴汚染土壌における微生物共生ネットワークの再構築と農業生産性への影響:ヴェルテンベルク領における三年間の縦断的研究」。


 長すぎる。前世と変わらない悪癖だ。だが今度は、査読に出す相手がいる。それだけで、前世よりも、ずっと恵まれている。

 ペンが止まらない。土壌pH値の推移——初日の3.2が、今では6.8。確認された微生物種数は、14種から247種へ。

 作物の生育速度は、魔瘴汚染地の平均と比較して340%。どのデータを取っても、前世の私が見たら腰を抜かすような数値だ。

 ……書き上げたい。この論文を。前世で果たせなかった、あの夢を。


「お嬢様」


 アルフレッドが、静かに私の傍に立っていた。彼の手には、厳重に綴じられた革表紙の帳面があった。


「僭越ながら、お嬢様のご研究を、日々記録させていただいております。土壌の色、温度、におい。私のような者には、数字は書けませんが——」


 帳面を開くと、そこには、彼の丁寧な筆跡で、毎日の観察が綴られていた。「三日目。黒い土が、わずかに茶色みを帯びる。匂いが変わった。お嬢様は嬉しそうだった」。


「……アルフレッド、あなた、いつの間にこんなものを」


「いつか、お嬢様がこの研究をまとめる日が参りましょう。その時まで、私が記録をお守りいたします。——それが、最初の助手の務めでございますから」


 彼の懐で、あの古い懐中時計が、かちかちと時を刻んでいた。


 報告書を鞄にしまい、私はバルコニーへ出た。手の中には、あの水晶の砂漠から採取した、白い結晶が一つ。


(これは、単なる塩化ナトリウムではない……。)


(土壌の生命力――マナとでも言うべき有機的エネルギーが、聖女の魔法によって強制的に触媒とされ、珪素化合物と融合した結果……。一種のガラス化現象。)


(だが、これだけの質量を変換するには、どれほどのエネルギーが……)


 思考の海に沈みかけた私の肩に、そっと、上着が掛けられた。振り向くと、いつの間にかレオンハルトが隣に立っている 。


「夜は冷える。研究に没頭するのもいいが、君は今や、この国の未来そのものなのだからな。風邪でも引かれたら、俺が困る」


「……ありがとうございます、レオンハルト様」


 そのぶっきらぼうな優しさが、今は心地よかった。私たちは、言葉もなく、しばらく王都の夜景を見つめていた。

 無数の家々から、ぽつり、ぽつりと、灯りがともり始めている。それは、まるで、絶望の大地に蒔かれた、小さな希望の種のようだった 。


「……イザベラ」


 不意に、彼が私の名を呼んだ。その声は、いつになく真剣だった 。


「君は、これからどうするつもりだ。……いや、俺たちは、どうすべきだと考えている?」


 その問いに、私は手の中の結晶を強く握りしめた 。


「まずは、土壌の再生です。この水晶の砂漠を、もう一度、緑の大地に戻します。時間はかかりますが、私の科学なら、必ず可能です」


「……そうか」


「ですが、それだけでは足りません。この国は、あまりにも長く、聖女という偽りの奇跡に依存しすぎていた。その根を断ち切らなければ、同じ過ちが繰り返されるだけです」


 私の言葉に、レオンハルトが息を呑むのが分かった。彼は、私が何を見据えているのかを、正確に理解したのだろう 。


「……それは、教会と、その背後にいる者たちを敵に回すということだぞ。俺がこれまで戦ってきた北の蛮族など、赤子同然の、見えざる帝国との戦いになる」


「ええ、存じております。だからこそ、あなたが必要なのです、レオンハルト様。私の科学が、この国を立て直すための『(すき)』や『(くわ)』ならば、あなたは、その未来を守るための『(つるぎ)』であり、『(たて)』ですから」


 私がそう言って微笑むと、彼は一瞬、驚いたように目を見開き、それから、ふっと、氷を溶かすような穏やかな笑みを浮かべた 。


「……面白いことを言う。鋤や鍬が、剣や盾を必要とするか。ならば、その契約、受けよう。俺の剣は、君の未来のために。この身も、この心も、全て君に捧げよう。……我が、未来の王妃陛下」


 彼は、私の手を取り、その甲に、恭しく口づけを落とした 。


 ざわめく胸の痛み。それは、もう、未知の変数などではない。私の計算式を、良い意味で狂わせてくれる、唯一の、そして最も大切な定数 。


 しかし、私たちは、まだ知らなかった。

 その時、遥か西方の『(せい)アグネス神聖法国(しんせいほうこく)』の奥深く、ステンドグラスに囲まれた一室で、一人の老人が、水晶の盤に映る私たちの姿を

 冷たい瞳で見つめていたことを 。


異分子(イレギュラー)……『エデン』のシステムに干渉する、予測不能なバグめ。だが、それもここまでだ。愚かな羊には、羊飼いの導きが必要なのだよ」


 老人の傍らには、顔をフードで隠した、謎の人物が控えていた 。


「次の『駒』の準備は?」


「は。いつでも」


「よろしい。新たな聖女を立て、異端(いたん)魔女(まじょ)に、神の鉄槌を下すがいい」


 ヴェルテンベルクで産声を上げた科学の光が、この世界の深き闇を照らし出すまで、物語は、まだ始まったばかりであった 。

第一部、完。

──ここで番外編1「被験者Aの経過観察——120日後」をお読みください。

 敗者の目に映る世界。本編とは違う角度から、この物語の意味が変わります。

第二部「発酵と侵蝕」、次話より開始。

★評価をいただけると第二部への大きな励みになります。

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