発酵と侵蝕
新たな変数——発酵ギルドという武器。
新体制が発足して、一ヶ月が過ぎた。
王都の混乱はレオンハルトの剛腕によって急速に収束し、国は束の間の平穏を取り戻していた。
しかし、水面下では、私が設計した、静かだが巨大な革命が、すでに始まっていた。
王都へ移る前日のことを、私はよく思い出す。
ヴェルテンベルクの広場で、村人たちが開いてくれた、ささやかな宴。
あの、石を投げてきたおじいさんが、震える手で、私に麦の穂を差し出した。
「……イザベラ様。わしは、あんたに石を投げた。あんたの研究室に火をつけようとしたこともある。それなのに、あんたは、わしらの畑を救ってくれた。……この老いぼれを、どうか、許してくだされ」
彼の目から、涙がこぼれていた。
私は、その麦の穂を受け取りながら、首を横に振った。
「許すも何も、私はただ、科学をしていただけですわ。あなたの畑を救ったのは、私ではなく、土の中の微生物たちです。彼らに、感謝してあげてくださいな」
おじいさんは、きょとんとした顔をして、それから、くしゃりと笑った。
「はは。微生物に感謝、か。……変わったお方だ。だが、それがいい。わしらには、ああいう偉そうな奇跡より、あんたの変わった科学の方が、よっぽど、ありがたい」
エリックが、私の肩をそっと叩いた。
「おねえちゃん。みんな、泣いてるよ」
見れば、広場に集まった村人たちが、口々に「ありがとう」と言いながら、ぼろぼろと涙を流していた。ハンナが、私のスカートの裾を引っ張って、小さな花束を差し出す。
「おねえちゃん、ありがとう。おはなの色が、もどったよ」
――科学者は、泣かない。
そう、自分に言い聞かせたのに、視界が、ぼやけた。
その時、アルフレッドが私の隣に歩み寄り、静かに言った。
「お嬢様。『ただ科学をしていただけ』と仰いましたが——私は、それこそが、お嬢様の最も尊い力だと存じます」
「……アルフレッド?」
「科学は、見返りを求めません。ただ真実を明らかにするだけ。お嬢様は、この土地の真実を——腐ったのではなく、眠っていただけだという真実を、証明してくださいました。それは、どんな奇跡よりも、この村人たちの心に届いたのです」
彼の老いた目が、穏やかに細められた。胸元の懐中時計が、微かに光を弾いていた。
「どうか、その力を、信じ続けてくださいませ。この先、どのような困難が訪れようとも——私は、お嬢様の科学を、最後までお記録いたします」
——最後まで。
その言葉の重さを、あの時の私は、まだ知らなかった。
あの日の麦の穂は、今も、私の執務机の引き出しにしまってある。迷った時は、いつでも、取り出せるように。
そして今日も、私の戦いは続く。
「以上が、王立技術院における『豊穣の女神改』の量産計画です。ギムレック院長、何か問題は?」
「おうよ、お嬢ちゃん。いや、イザベラ総帥。この歯車の素材を鋳鉄から鋼に変えれば、耐久性が15%は向上する。コストは嵩むが、長期的に見りゃ安くつくぜ」
「承認します。すぐに見積もりを」
王城の一室で開催されているのは、王国再生会議。
摂政レオンハルト臨席のもと、各分野の責任者が一堂に会する、この国の新たな最高意思決定機関だ。
工部卿を兼任する王立技術院長ギムレックが、分厚い資料を手に熱弁を振るう 。
彼の隣では、農林再生院現場総監督となったエリックが、全国の土壌調査から得た最新データを報告している 。
「総帥。北部D-3地区の土壌から、予期せぬ塩害が確認されました。輪作計画の一部見直しを具申します」
「データを見せて。……なるほど。原因は古代の魔法汚染の残滓ね。対策として、塩分を吸収する特殊な作物の栽培と、浄化菌の追加投入を許可します」
そして、会議室の扉を守るように立つのは、内務卿兼王国治安維持局長官、クラウスだ 。
彼の任務は、もはや単なる警備ではない。
「イザベラ様。先日ご報告した、旧王都貴族と西方の商人との不審な金の流れですが、金の出所が判明しました。聖アグネス神聖法国です」
「……やはり」
乾いた、笑い。
私の呟きに、レオンハルトの銀灰色の瞳が鋭く光る。
「奴らめ、早くも嗅ぎつけてきたか」
だが、神聖法国の介入は、まだ先の話だ。目下の戦場は、経済にあった。
「アルフレッド。現在の『麦の手形』の流通状況は?」
会議の末席に控えていたアルフレッドが、今や私の私設秘書官長として、淀みなく報告を始める 。
「はっ。ヴェルテンベルク再生銀行が発行した銀行券は、シュヴァルツェンベルク領との交易において、完全に基軸通貨としての地位を確立。王都の旧通貨との交換レートは、本日付で1対500を突破いたしました」
「結構ですわ。では、次の段階へ移行します」
私は、集まった全員に宣言した。
「本日をもって、**『ヴェルテンベルク王立発酵ギルド』を正式に設立します。ギルドが品質を保証した全ての製品――パン、酒、そして新たに開発した『ザワークラウト』は、今後、『麦の手形』以外での取引を一切禁止**とします」
その言葉が持つ意味を、ここにいる誰もが理解していた。
それは、旧体制への、完全な経済的勝利宣言。
そして、神聖法国が「奇跡」と「信仰」で人々を支配するのに対し、我々は**「品質」と「信用」**で世界を動かすという、新時代の価値基準の提示だった。
会議が終わり、執務室でレオンハルトと二人きりになった時、彼は静かに私に尋ねた。
「……お前のやり方は、あまりにも急進的だ。敵を作りすぎるのではないか?」
「敵は、すでに存在していますわ。ならば、彼らが我々を理解する前に、我々が彼らを凌駕するしかない。科学とは、そういうものです」
私は窓の外に広がる、再生を始めた王都の街並みを見つめる。
「それに、私にはあなたという、最強の『剣』と『盾』がおりますから」
私の言葉に、彼はふいと顔を背けた。その耳が、わずかに赤く染まっているのを、私は見逃さなかった 。
その時、私たちはまだ知らなかった。
遥か西方の聖アグネス神聖法国。その大聖堂の最奥で、教皇ヴァレリウスが、水晶盤に映る私たちの姿を冷ややかに見つめていたことを 。
「……面白い。科学、か。だが、子供の火遊びは、本当の火の恐ろしさを知らぬゆえの戯れ。セラフィナよ」
彼の傍らに控えていた、フードを目深にかぶる人物が、静かに顔を上げる。そのフードの下から現れたのは、神々しいまでの美貌を持つ、銀髪の少女だった。
「はい、猊下」
「お前の『奇跡』で、あの異端の魔女に、世界の真の理を教えておやりなさい。我らが神の御業は、人の小賢しい知識など、遥かに超越しているのだと」
「御意のままに」
聖女セラフィナ・リリエンタール。その唇に浮かんだのは、慈愛に満ちた、しかしどこまでも冷たい微笑みだった。
第二の聖女がもたらす、本物の「奇跡」が、私の科学に牙を剥くまで、あとわずか。
礎を置いた。あとは、この上に何を建てるか。
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