森の境界の交換会
第8回 森の境界の交換会
朝、目を開ける
「…………」
静かだ
「…………?」
静かすぎる
隣を見ると、ルッカがいない
「また?」
身体を起こす
岩陰には俺と空いた寝床だけ
「ルッカ?」
外へ出る
屋根、低い壁、籠
それから、
「塩ある」
まずそこを確認してしまった
「俺、完全に貴重品扱いしてるな」
実際、今の俺には貴重品だ
昨日エナが持ってきてくれた塩
人間語では、
「サル」
小さく発音する
「サル」
忘れていない
沢を見て、
「ヴァ」
焚き火跡を見て、
「ファ」
昨日の肉を思い出す
「メラ」
そして、
「アト」
五つ
「よし」
全部覚えている
「今日も復習からやな」
その前に、
「ルッカどこ行った?」
前にも朝から薬草を採りに行っていた
「また何か取りに行ったんかな」
少し待つ
戻らない
「…………」
心配になる
以前なら一人が普通だったのに、今はルッカがいないだけで落ち着かない
「慣れって怖いな」
沢へ行って顔を洗う
水を見て、
「ヴァ」
飲んで、
「ヴァ」
自分で言って笑う
「幼児みたいやな」
物を見て名前を繰り返す
でも、それでいい
「一からや」
左腕の布を外す
「…………」
狼の歯が食い込んだ傷はまだ残っている
ただ、赤みはかなり減った
腫れも前より小さい
「これ、治ってきてるよな」
腕を曲げ、伸ばす
「痛っ」
まだ痛い
でも最初とは全然違う
「もうちょいやな」
沢で洗い、薬草を自分で選ぶ
葉の縁は滑らか
匂いも確認する
「これ」
潰して塗る
「っ……」
しみる
「最後までこれは慣れへん」
ミラにもらった布を洗い、絞る
「乾かしたいな」
替えがあればいい
今まで使っていた布も捨てずに残している
「布も欲しい」
塩、布、刃物、容器
「欲しいもん増えてきたな」
そこで人間との交換を考える
昨日も少し考えた
「でも」
今はもらってばかりだ
パン、布、塩
「それは嫌やな」
エナたちは何も要求してこなかった
昨日は肉を一緒に食べたとはいえ、
「次はこっちから何か渡したい」
森にあって、俺たちが持っていて、人間が欲しがるもの
「薬草?」
エナも採っていた
ミラも知っていた
「実?」
人間が食べるか分からない
「肉?」
昨日は食べていた
でも、人間だって狩りはできるだろう
「何がええんやろ」
価値も、この世界の相場も分からない
「そこから勉強やな」
その時、茂みが鳴った
がさ
「ん?」
「グギャ!」
「ルッカ」
戻ってきた
「どこ行ってたん」
両手に何か持っている
「…………木?」
枝が何本かと蔓
そして薄い石
「石?」
近づく
「それ」
ルッカが見せたのは平たい石だった
端が少し欠けている
「お」
ルッカの石刃ほどではない
でも、俺が使っているただの薄い石より、
「ええやん」
触ってみる
端が少し鋭い
ルッカが自分の石刃、俺の石、木を順番に指す
「…………」
「作る?」
俺を指し、石と木を示す
「これ作るん?」
ルッカが頷いた
「マジ?」
ずっと欲しかった
「石のナイフ」
いや、正式には何と呼ぶのか知らない
それでも柄が付けば、今よりずっと使いやすい
「アト!」
ルッカを見る
「アト!」
「グギャ」
今日は使い方が合っている
「やろ」
朝飯より先に作業を始める
平たい石、短い枝、蔓
ルッカは自分の石刃を分解せず、指で構造を示す
「木に挟む?」
枝の先にある割れ目へ俺の薄い石を入れてみる
「ここ?」
「…………」
ぐらぐらする
「無理やな」
ルッカも首を振る
今度は少し厚い平たい石を使う
「こっち」
枝の先へ石を合わせ、蔓で固定する
「巻くんやな」
前に覚えた結び方を使う
「これなら」
強く巻く
「左手使いにくい」
ルッカが枝を押さえてくれた
「助かる」
蔓を何重にも巻いて締める
「できた?」
持ってみる
「…………」
石が斜めだ
「曲がってる」
ルッカも首を傾ける
「お前もそう思う?」
やり直す
二回目は、
「今度は真っすぐ」
巻いて固定する
持ってみる
「お」
小さくて不格好な石刃
でも、
「ナイフや」
枝を削る
がり
「切れる!」
感動する
「俺の刃物!」
金属ではない
人間が持っていたものには遠く及ばない
それでも、
「自分の道具や」
嬉しい
ルッカを見る
「アト」
今度は静かに言う
ルッカも、
「アト」
「それ返す言葉なん?」
まあいい
朝飯は実と根
「今日は肉なし」
ルッカの肩が露骨に落ちる
「昨日食ったやろ」
「グギャ」
「毎日は無理」
塩を見る
「根に塩」
ほんの少しだけ
「サル」
ルッカも、
「サル」
「覚えてるな」
根を焼く
火は、
「ファ」
小さな《火弾》を枯れ草へ当てて着火する
「人間語で言いながら魔法使うと変な感じやな」
火弾は火弾
ファは火
「別物や」
焼いた根へ塩をつけて食べる
「…………うま」
昨日の肉ほどではない
でも、
「塩すごいな」
ルッカも、
「メラ」
「せやな」
朝飯を食べ終える
それから今日の予定を伝える
「採取」
籠と森を示す
「いっぱい」
次に、人間、エナ、ミラ、物を渡す身振り
「…………難しいな」
俺は実をルッカへ渡す
「はい」
次にルッカの石刃を俺へ渡す真似をする
「はい、交換、こう」
ルッカは俺の実を取った
「違う」
そのまま食べる
「おい!」
「メラ」
「そういう話ちゃう!」
朝から実を一個失った
「まあ、採取しよう」
薬草と食べられるもの
「人間が欲しいかは分からんけど」
少し多めに集めれば、自分たちの食料にもなる
持ち手付きの籠、石刃、槍
「出発」
◇
いつもの範囲を歩く
ルッカが先、俺が後ろ
今日は左腕をなるべく使わない
「狩りなし」
昨日使ったから、
「休ませる日」
ルッカは不満そうだ
「肉はまた今度」
まず橙色の実
「これ」
籠へ五つ、六つ
「採りすぎんなよ」
全部は取らず残す
次は青い実
「これは人間食うかな」
苦い
エナはどんな顔をするだろう
「メラとは言わん気する」
少しだけ採る
白っぽい根を掘る時は、新しい石刃を使ってみる
「お」
土をどけ、根を切る
「使いやすい!」
薄い石だけより力を入れやすい
「道具って大事やな」
ルッカが得意そうにする
「先生ありがとうございます」
「アト」
「お前が言うんかい」
次は傷に使う薬草
「これは人間も使う、たぶん」
価値はある?
でもミラなら自分で採れる
「珍しくないんかな」
分からないから少しだけ採る
「採りすぎない」
自分たちの傷にも必要だ
さらに歩くと、ルッカが別の方向へ寄る
「何?」
木の根元に茶色い塊
「…………」
茸?
「キノコ?」
俺は近づかない
「待て」
知らない木の実や茸は食べないと決めた
ルッカが見て、触り、匂いを嗅ぐ
「食える?」
ルッカは首を振る
「やっぱあかん?」
そのまま離れる
「知らんもん触らん」
安全第一
歩きながら《魔力感知》も試す
「…………」
外にある薄い何か
「今日も」
意識を広げる
「…………」
右側が少し濃い?
でもルッカは反応しない
「気のせい」
そのまま進むと、しばらくして右側から鳥が飛び立った
「…………鳥?」
分からない
「まだ使えんな」
戦闘で頼るのは危険だ
「練習だけ」
昼前には籠がかなり埋まった
「重い」
持ち手を右手で持つ
「背負いたいな」
また思う
「今日帰ったら考える?」
その時、ルッカが止まった
「ん?」
耳を澄ませている
「人?」
俺も聞く
遠くから声
「…………」
人間の声も、最近は少し聞き分けられるようになってきた
「エナ?」
分からない
声は一人ではない
「隠れる?」
ルッカが俺を見る
以前ならすぐ隠れていた
「…………」
迷う
エナやミラなら会いたい
でも別の人間なら、
「危ない」
茂みで身を低くする
「見るだけ」
声が近づく
「――……」
一つは聞き覚えがある
「エナ」
少し安心する
「エナや」
もう一人はミラ?
「…………」
声が違う
低い
「男?」
緊張する
茂みから覗くと、エナがいる
その隣には、
「誰?」
男が一人
年齢は分からない
前世なら中年くらい?
俺より上か下か、この世界の人間は見た目だけでは判断できない
体格は大きい
でも最初に会った男ほど武装していない
背中に荷物
腰には道具
「斧?」
小さい
木工用?
手には籠を持っている
エナが何か言い、男が森を見る
「…………」
「ミラおらん」
どうする
エナは知っている
男は知らない
「エナが連れてきた?」
その可能性は高い
「出る?」
ルッカが俺を見る
「…………」
逃げる理由はない
でも慎重に
「槍、下」
ルッカが穂先を下げる
俺も右手を空け、魔力は集めない
「行こ」
茂みから出る
エナが気づいた
「セイジ!」
「エナ」
名前が通じる
嬉しい
男も止まった
「…………」
警戒している
でも腰の道具へ手は伸ばさない
俺も距離を取って止まる
「ルッカ」
「グギャ」
エナも、
「ルッカ」
笑う
男は俺たちを観察している
「誰?」
聞きたい
俺は自分を指す
「セイジ」
次に、
「ルッカ」
「エナ」
最後に男を指して、
「?」
男は少し間を置いて、自分の胸を指した
「ローデン」
「ローデン」
俺も真似する
「ローデン」
男が頷く
「よし」
新しい名前
ローデン
ルッカも、
「ローデン」
「お前ほんま発音うまいな」
エナが俺たちの籠を見る
「…………」
俺の自作籠は前にも見ている
今日はローデンも、近づきすぎない距離から覗く
「これ?」
籠を持ち上げる
ローデンは蔓と持ち手を指して何か言う
「分からん」
でも見ているのは結び目だ
「作り?」
俺は自分とルッカを指し、籠を作る身振りをする
ローデンが少し目を見開く
「伝わった?」
ルッカも蔓を結ぶ真似をする
ローデンが頷いた
「評価されてる?」
分からない
俺の籠は歪んでいる
「笑われてもしゃあない完成度やけど」
ローデンが自分の荷物を下ろす
中には布、紐、小さな木の器、木の匙みたいなもの
それから、
「うわ」
薄く削られた木の板?
「すご」
人間の道具はきれいだ
エナが俺たちの籠の中を見る
橙色の実、青い実、根、薬草
「…………」
エナが薬草を指し、ローデンへ何か言う
ローデンも薬草を見る
「これ?」
俺は一本を地面へ置き、少し下がる
エナが取る
ミラに見せた時と同じだ
「欲しい?」
エナが薬草、ローデンの布、俺を順番に見る
「…………」
何となく分かりそう
「まさか」
交換?
ローデンが布を一枚、薬草の近くへ置く
「…………!」
俺は薬草と布を交互に見る
「これとこれ?」
ローデンが頷いた
「交換!」
言葉がなくても分かる
「これや!」
朝考えていたことだ
物と物
「ほんまにできるん?」
ただ、薬草一本でいいのか分からない
「どれくらい?」
一本を示すと、ローデンは首を振る
「一本じゃない?」
二本
三本
ローデンが少し考える
エナも何か言う
「…………」
エナが薬草三本と布を指した
ローデンも頷く
「三本?」
俺も三本をまとめて地面へ置き、布を指す
「これ?」
ローデンが頷いた
「…………」
取っていい?
まず薬草をローデン側へ押す
ローデンが受け取る
俺は布を見る
エナが頷いた
「もらうで?」
布を取る
「…………」
交換
「できた」
胸が熱くなる
「初めて買い物した」
金はない
店もない
森の地面で物々交換
「でも取引や」
ルッカが布を見る
「アト?」
「いや」
少し考える
もらっただけではない
こっちも渡している
「でもアトでええか」
ローデンを見る
「アト」
ローデンは少し驚き、
「アト」
「…………」
返ってきた
「ええな」
「めっちゃええやん」
エナが笑う
次にローデンが青い実を指す
「これ?」
俺は青い実を食べる
「…………」
苦い
顔に出たらしく、エナが笑う
「メラ……ではない」
ローデンまで少し笑った
「笑ったやん」
青い実を示すと、ローデンは首を振る
「いらん?」
なるほど
「何でも価値あるわけちゃう」
次にローデンが橙色の実を見る
エナが何か言う
「昨日肉に使ったやつ」
覚えてる?
俺が肉へ絞る真似をすると、
「メラ」
エナが言う
「そう!」
ローデンとエナが何か話す
「…………」
ローデンは実を二つ指し、自分の荷物から紐を示した
「紐?」
丈夫そうだ
「欲しい」
今の蔓より絶対使える
「二個で?」
橙色の実二つと紐を指す
ローデンが頷いた
「交換」
俺が実を二つ渡し、ローデンから紐を受け取る
「アト」
「アト」
「成立!」
楽しい
「これ楽しいな!」
相手が欲しいものと、こっちが欲しいもの
「商売や」
前世の仕事とは違う
でも交渉して交換する
「言葉なくてもできるんや」
もちろん細かい話は無理だ
でも物、数、指、表情
「いける」
ルッカはローデンの木の器を見ていた
「欲しい?」
「グギャ」
即答
「水入れられる?」
俺も欲しい
小さな木の器を示し、
「ヴァ」
飲む身振り
「ヴァ」
ローデンが頷く
「水入る!」
欲しい
問題は、
「何と交換?」
ローデンが俺たちの籠を見る
薬草、根、実
でも首を振る
「足りん?」
ローデンが少し考え、ルッカの槍を見る
「槍?」
違う
見ているのは槍の木の部分
「木?」
ローデンが森を指し、太さと長さを身振りで示す
「…………」
「枝?」
ルッカは分かったのか、森へ行こうとする
「待て」
すぐ近くに落ちている枝を一本持ってくる
ローデンは首を振る
「違う」
もう少し太く、まっすぐ
「素材?」
ローデンの腰には木工用らしい斧
荷物には木の器
「木を加工する人?」
そう見える
「まっすぐな木材欲しい?」
ルッカを見る
「知ってる?」
ローデンの身振りを真似する
ルッカが森を指す
「ある?」
頷く
「行く?」
ローデン、エナ、俺、ルッカ
「…………」
人間を森の中へ連れていく
少し迷う
でも、
「近くだけ」
ルッカを先頭に、俺、エナ、ローデン
互いに距離を保って歩く
「不思議な集団やな」
ゴブリン二匹、人間二人
森の中
会話はほぼできない
「それでも進んでる」
ルッカが一本の若い木――ではなく、倒れた細い幹を見る
まっすぐで硬そうだ
ローデンが近づき、表面を見て、軽く叩く
「…………」
頷いた
「これ?」
ローデンは長さを指で示す
「ここからここ?」
切る?
腰の小さな斧を取り出した
「お」
金属の刃
「やっぱすごい」
ローデンは切る前に俺たちを見る
止まる
「いい?」
俺たちに聞いてる?
「森の木やけど」
ルッカが頷く
「グギャ」
ローデンが斧を振る
こん、こん
「速い」
刃が違う
「金属ええなあ」
自分の石刃を見る
「いつか欲しい」
ローデンは切った木を数本に分け、満足そうだ
「これで器?」
俺は木の器と木材を交互に指す
ローデンが頷く
「なるほど」
素材を加工する
「ルッカの知識、価値あるやん」
どこにどんな木があるのか、人間より知っている
「これ、俺たちが交換できるものや」
森の素材
「食べ物だけちゃう」
木、蔓、薬草、場所
「ルッカすごいぞ」
肩を叩く
「グギャ?」
「お前の森の知識、サルになるかもしれん」
塩になる
当然伝わらない
「サル」
ルッカの目が輝く
「そこは分かった?」
ローデンが笑った
「完全に塩好きゴブリンになってるやん」
元の場所へ戻る
ローデンが木材を置き、木の器を一つ俺たち側へ置いた
「…………」
「え?」
俺は木と器を交互に指す
「これで?」
頷く
「もらえる?」
器を取る
「…………」
軽い
木の内側がきれいに削られている
「水」
近くの沢を見る
「試してええ?」
ローデンが頷いた
沢の水をすくう
「入った!」
当たり前だけど、
「水運べる!」
両手で持てる程度の量
「やっと!」
ずっと欲しかった
水を運ぶ容器
「ヴァ!」
器を示す
「ヴァ!」
エナが笑う
「アト!」
ローデンも、
「アト」
「ルッカ!」
見せる
「水持って帰れるで!」
ルッカが器を覗き、
飲んだ
「飲むんかい!」
空になる
「…………」
「ヴァ」
「知ってる!」
もう一度汲む
「これは飲むな」
拠点へ持って帰る
絶対
「大収穫や」
布、丈夫な紐、木の器
こちらからは薬草、実、木材
「ちゃんと渡した」
もらっただけじゃない
「交換した」
嬉しい
エナが何か言い、ローデンが頷く
「まだある?」
ローデンの荷物には小さい木片や匙もある
「スプーン?」
欲しい
「でも」
交換できる薬草はまだ少し残っている
「自分用残す」
傷に必要だ
「今日はここまで」
首を横に振り、手を止める
「いらない?」
いや、
「今日は終わり」
どう伝える?
自分の籠を閉じる真似をして、帰る身振り
「…………」
エナが理解したらしく頷く
「通じた?」
たぶん
「無理して全部交換せんでええ」
自分たちの生活が先
これは大事だ
「余った分だけ交換」
そうしたい
エナが俺の左腕を見る
「傷?」
布を見せ、腕を曲げる
「前よりええ」
笑う
エナが何か言うけど分からない
「言葉」
今日、新しい単語を覚えたい
「交換」
これは絶対必要だ
俺は薬草とローデンの布を交互に動かす
「これ」
エナを指す
「?」
エナが何か言う
「――トラ」
「トラ?」
もう一度、交換の動作
「――トラ」
「トラ」
エナが頷く
「交換?」
たぶん
薬草、布
「トラ」
ローデンも頷いた
「覚えた!」
六個目
「トラ」
交換
少なくとも物と物をやり取りする状況で使う言葉
「これ重要や」
忘れない
木の器と木材を指して、
「トラ」
ローデンも、
「トラ」
「よし」
通じる
「六個」
目標十個まであと四つ
「順調やな」
その時、エナが俺たちと森の少し開けた場所を指し、何か言った
「…………」
分からない
ローデンも木材、俺たち、物を順番に示す
「また交換?」
「トラ?」
エナが頷く
「また?」
いつ?
明日?
今日?
次?
俺は太陽が沈み、昇る動きを指で示す
「…………」
エナは指を一本立てて太陽の動きを示す
「一日?」
明日?
ローデンが首を振り、指を二本立てる
「二日?」
太陽を二回
「二日後?」
たぶん
エナが森の開けた場所を指し、
「トラ」
「二日後に交換?」
俺も指二本、太陽、トラ
エナが頷く
「…………」
約束?
「交換会や」
俺の中で勝手に名前をつける
「森の交換会」
場所は今より拠点から少し離れている
「ここならいい」
拠点そのものではない
「人間と会う場所」
作れるかもしれない
人間の場所へ俺たちが行くのは危険
人間が毎回俺たちの拠点まで来るのも少し怖い
「間」
森の境界
俺たちの生活圏と、人間が来る範囲
その間
「そこで会う」
それならいい
「トラ」
俺は指を二本立てる
「トラ」
エナが頷く
「約束な」
言葉は通じない
でも、たぶん約束できた
「すごいな」
数日前まで人間を見たら逃げていた
今は二日後の取引を決めている
「人生分からんな」
いや、もう一回死んでるから、
「二度目の人生か」
余計分からない
別れの時間
「エナ」
「セイジ」
「ルッカ」
「グギャ」
「ローデン」
「ローデン」
俺は布、紐、器を示す
「アト」
ローデンは薬草、実、木材を示し、
「アト」
お互い、
「トラ」
俺も、
「トラ」
ローデンが頷く
「通じる」
嬉しい
エナが手を振る
俺も振る
「またな」
その人間語はまだ知らない
でも二日後に会えるなら、
「次覚えよ」
エナとローデンが森の向こうへ消える
「…………」
俺とルッカだけが残った
戦闘なし
誰も怪我なし
物は増えた
「大成功ちゃう?」
ルッカが俺の手の木の器を見る
「飲むなよ」
「グギャ」
「絶対飲む顔やん」
器を抱える
「帰ろ」
◇
拠点へ戻る途中、俺は何度も木の器を見る
「水運べる」
これは大きい
沢へ毎回飲みに行かなくても、少量なら拠点へ置ける
「料理にも使える」
洗う
煮る
「煮る?」
鍋がない
「いつかやな」
でも可能性は広がる
布は傷や衣服
紐は籠、屋根、道具
「交換ってすごい」
自分たちだけでは作れないものが人間にはある
人間が欲しいものは森にある
「お互い」
それなら奪わなくていい
盗まなくていい
戦わなくていい
「これや」
俺が欲しかった形
「人間にならんでも」
今の俺はゴブリン
それでも取引できた
「…………」
少し胸が熱くなる
「これ大事やな」
人間になりたいという気持ちはある
鏡代わりの沢で緑の顔を見るたび、今でも思う
でも、
「人間にならんと何もできへんわけちゃう」
少なくとも今日、俺はゴブリンの姿のまま人間と普通に物を交換した
「普通ってすごいな」
助けたからではない
襲われたからでもない
ただ相手が欲しいものを渡し、自分が欲しいものを受け取った
「普通の取引」
それが妙に嬉しい
拠点へ着く
「ただいま」
荷物を置く
まず布
「これ」
ミラの布より少し粗いけど清潔だ
「替えにできる」
次は丈夫な紐
「籠」
今の蔓の持ち手と交換したら、背負える?
「やってみよ」
でも先に、
「水!」
木の器を持って沢へ行く
慎重に汲み、拠点へ歩く
「こぼすな」
半分くらい残して到着
「…………!」
器の中に水がある
「水が家にある!」
感動する
「これめっちゃ便利!」
ルッカが手を出す
「飲むな」
止める
「これは置いとく」
ルッカは不満そう
「沢行け」
少し考える
「いや」
器を見る
二人いる
「飲んでええか」
水はまた汲める
「大事にしすぎても意味ないな」
俺が一口
ルッカも一口
「…………」
空になった
「なくなった」
容量は少ない
「もう一個欲しい」
次の交換目標
「器」
ローデンなら作れる
「木材集めよ」
ルッカには森の知識がある
「交換材料」
これから役割にできる
「ルッカ」
まっすぐな木、ローデン、器、トラ
身振りで伝える
ルッカは、
「サル?」
「塩も欲しいな」
欲望が強い
「器も」
ルッカは、
「サル」
「分かった分かった」
二日後、何を持っていくか考える
「薬草」
自分たちの分を残す
「橙色の実」
採りすぎない
「木材」
ルッカに選んでもらう
「蔓?」
人間が使うかは、
「聞いてみる」
言葉は無理でも見せればいい
「肉」
保存できない
「当日狩れたら?」
でも無理に狩らない
「食べ物交換会にせんでもええ」
素材中心でいい
「ええやん」
二日後へ向けて、
「準備する」
やることができた
夕方、籠の持ち手へ丈夫な紐を合わせる
「これ」
今の蔓を外す?
「まだ使える」
なら追加で肩にかける紐を二本つける
「リュックみたいに」
籠の上と下へ固定する
「…………」
背負う
「痛っ」
左腕の傷に近い肩へ負担がかかる
「これはまだ無理」
治ってからだ
今は片手持ち
紐も無駄にはしない
「保留」
外す
「焦らん」
新しい石刃で木を削ってみる
「お」
細かい作業ができる
「これで箸?」
前世の箸を思い出す
二本
「作れるやん」
枝を一本、二本と削る
「…………」
太い
「まあ」
箸っぽい
持ってみる
「使える?」
根をつまむ
落ちる
「難しい」
ルッカは普通に手で食べる
「そうなるよな」
でも道具は増えた
「楽しい」
こういうのは好きだ
家、道具、飯
少しずつ
「スローライフっぽくなってきた」
戦わず、作る
食べる
交換する
「今日ええ日やな」
夕飯は白っぽい根、橙色の実、塩
「サル」
ほんの少しだけ振る
ルッカがじっと見ている
「入れすぎんな」
火は、
「ファ」
焼いて食べる
「メラ」
ルッカも、
「メラ」
「完璧」
水はヴァ
交換はトラ
礼はアト
「増えた」
アト、メラ、サル、ヴァ、ファ、トラ
「六個」
目標十個まで、
「あと四個」
何を覚える?
「木」
二日後の交換に必要
「薬草」
「布」
「器」
「数」
数は重要だ
一本、二本、三本
今は指でできる
でも、もっと増えたら
「数字覚えたい」
人間語の優先順位
「敵じゃないも」
まだ最優先だ
「どうやって聞くんやろ」
自分、ルッカ、武器を下げる、攻撃しない
「エナなら分かってくれるかな」
二日後に試す
「言葉増やそ」
日が落ち、焚き火が揺れる
人間語なら、
「ファ」
俺たちの言葉なら、
「ギファ」
同じ火
木の器の水は、
「ヴァ」
ゴブリン語なら、
「グァ」
同じ水
交換は、
「トラ」
ゴブリン語では、
「…………」
何だっけ
ルッカへ実を渡し、何かを交換する身振りをする
「グギャ?」
もう一度やる
「これ」
ルッカが考え、
「グル」
「グル?」
交換の動作をもう一度
「グル」
「へえ」
人間語ではトラ
ゴブリン語ではグル
「覚えた」
俺は自分の言葉すら、ちゃんと単語として考えたことが少ない
ゴブリン語は意味が自然に分かる
でも、意識して言葉として取り出したことは少ない
「これ面白いな」
人間語を覚えるために、ゴブリン語も考える
「二つ勉強や」
前世の日本語
今のゴブリン語
人間語
「三つか」
頭が混乱しそうだ
「でも日本語は忘れへん」
絶対に
俺が間宮誠司だった証拠
大阪で生きた三十九年の記憶
「大事や」
でも今はセイジ
ゴブリンメイジとしてルッカと暮らしている
「こっちも大事」
どっちかではない
「両方俺や」
火が揺れる
隣にはルッカ
屋根の下には塩、木の器、布、紐、石刃
「物増えたな」
最初は何もなかった
服みたいな布だけ
今は少ないけど、自分のものがある
「家財道具や」
笑う
「財産」
大げさではない
今の俺には一つ一つが大事だ
「盗られたら泣くな」
だから拠点の安全も、
「考えなあかん」
人間には場所を知られた
エナとミラは少なくとも近くまで来ている
「ローデンも今日会った」
ただ、今日の交換場所は拠点から離れていた
二日後も境界で会う
「今後はそこで会うほうがええ」
人間とは交流したい
でも生活場所を全部開く必要はない
「距離感」
大事だ
人間同士でも同じ
「仲良くなったから家の鍵渡すとかせえへんしな」
鍵はないけど
「壁も弱いけど」
低い壁を見る
「鍵以前の問題やな」
明日は、
「壁直す?」
交換用素材も集める
傷も休ませる
「忙しい」
でも楽しい
やらされていることではない
自分でやりたいことだ
「居場所」
その言葉が頭に浮かぶ
ここ
岩陰
ルッカ
屋根
火
食料
道具
「俺の場所」
少しずつ、本当にそうなってきた
「…………」
前世では仕事と家を往復し、毎日忙しかった
生きるために働いていた
今は、生きるために水を汲んで、食料を探して、道具を作って、人間と交換している
「こっちのほうが大変なはずやのにな」
妙に充実している
「死にかけるんは勘弁やけど」
狼を思い出し、左腕を見る
「ほんまに」
そこだけはスローでお願いします
寝る前に傷を確認する
今日は戦闘なし
無理な作業も少ない
「悪くなってない」
夜は薬草を塗り直さず、水で洗って布を巻き直す
「明日も様子見」
完全に塞がるまで油断しない
岩陰へ戻ると、ルッカはもう寝床へ横になっている
「今日は何も食ってへんよな?」
荷物を確認する
塩はある
実もある
「よし」
俺も横になる
狭い
「…………」
もう慣れた
「広げる?」
外側にも寝床はある
「でも」
昨日も今日も、結局ここだ
「まあええか」
目を閉じる
二日後は交換
「何持っていこ」
薬草、木材、実、蔓
「ローデン」
木工をしている、たぶん
「木の器」
もっと欲しい
「布」
替えになる
「紐」
便利
「塩」
最重要
「金属刃物」
欲しい
でも、
「高そう」
価値は分からない
今日ローデンは金属の斧を持っていた
木を簡単に切っていた
「いつか」
交換できるものを増やして、
「金属のナイフ」
新しい目標に追加
「欲しいもんばっかりやな」
でも、そのために森から奪い尽くすのは違う
「必要な分」
自分たち、人間、森
「長く続けたい」
一回だけではなく、何度も普通に
「トラ」
交換
「交換ルート」
そんな言葉が浮かぶ
森、人間、ゴブリン、物
「橋」
今はエナがその間にいる
「エナおらんかったら無理やったな」
最初に助けたのは偶然だった
そこから名前、言葉、食事、塩
そして今日の取引
「不思議やな」
あの日、見捨てていたら全部なかった
「…………」
助けてよかった
危険だった
無茶だったかもしれない
それでも、
「よかった」
隣のルッカを見る
「お前も付き合ってくれたしな」
小さく、
「アト」
ルッカは寝ている
返事はない
「今度こそ寝てる?」
少し待つ
「…………」
静かだ
「寝てるな」
俺も目を閉じる
異世界で迎える七度目の夜
今日は誰かを助けたわけではない
誰かに助けられたわけでもない
敵と戦ったわけでもない
ただ森の中で、薬草と布を、実と紐を、木材と木の器を交換した
それだけ
それだけなのに、俺にはこれまでで一番、人間と普通に関われた日のように思えた
人間とゴブリン
違う種族
違う言葉
違う暮らし
それでも欲しいものがあって、渡せるものがあって、互いに納得できるなら、戦わずに向き合える
「トラ」
六つ目に覚えた人間の言葉
交換
たった一語
でもその言葉は、俺と人間の間にできた小さな道の名前みたいだった
二日後、また森の境界で会う
今度は今日より少しだけちゃんと準備して、今日より一つでも多く言葉を覚えて、俺たちの暮らしに必要なものを奪うんじゃなく、交換して手に入れる
「…………スローライフっぽいやん」
少し笑う
隣から、
「トラ……」
「…………」
目を開ける
「寝言で覚えてるやん」
ルッカは起きない
「アトの次はトラか」
明日は何を覚えるんだろう
そんなことを考えながら、俺は笑ったまま異世界で七度目の眠りへ落ちていった




