強くなった身体の使い方
第61回 強くなった身体の使い方
目を覚まして最初に感じたのは、岩だった
正確には、寝床の横に伸ばした腕が岩壁へぶつかる感触だ
「……またか」
少し前なら、寝返りを打ってもこんなところまで手は届かなかったはずなのに、進化してから何度目か分からない同じ失敗をしている
ローデンに寝床を広げてもらったし、入口も前より通りやすくなった
それでも身体そのものが大きくなった感覚には、まだ完全には慣れていなかった
身体を起こし、腕を伸ばす
肩を回して、膝を曲げる
狭い岩陰の中では思い切り動けないが、それでも進化前との違いは分かる
重い
いや、身体が重くなったという意味じゃない
むしろ逆だ
大きくなった身体を、以前と同じような感覚で動かせる
そのせいで、一歩の幅も、手が届く距離も、力の入り方も変わっていた
立ち上がって入口へ向かうと、少し前なら頭や肩を気にしながら抜けていた場所を、それほど窮屈に感じず通れる
これはローデンの改修のおかげだ
外へ出ると、朝の空気が肌へ触れた
冷たいというほどではないが、岩陰の中より少しだけひんやりしている
近くではルッカがしゃがみ込み、地面に残った何かの跡を見ていた
「おはよう」
声をかけると、耳が動いた
「起きたか」
「何見てる?」
「昨日のやつ」
ルッカが指した先には、小さく土が崩れた場所があった
俺には、何かが通った跡らしいという程度しか分からない
「昨日?」
「夜、近く通った」
「何が?」
「小さいやつ」
「危ない?」
ルッカは少し考えてから首を振る
「たぶん、違う」
たぶん、か
以前ならその言葉だけでも少し不安になったかもしれないが、今はルッカの判断にも段階があることが分かってきた
分からないものを分かったふりはしない
危険なら危険と言うし、判断材料が足りなければ、たぶんと言う
俺が魔力を感じ取れるようになったからといって、この辺りは変わらない
試しに意識を広げてみる
森の中に散らばる、ごく薄い魔力の気配
近くにルッカ
少し離れたところに、小さな生き物らしい反応
それ以上は曖昧だ
「こっちは何となくいるのは分かるけど、何がいるかまでは分からないな」
「知ってる」
「即答だな」
「前も同じ」
「そうだけどさ」
ルッカは少しだけ口元を動かした
笑ったのかもしれない
俺は地面へ目を戻した
魔力なら俺
足跡や匂いならルッカ
こうして並べてしまえば分かりやすい
進化してできることが増えたからといって、全部を自分一人でできるようになったわけじゃない
それどころか、自分にできることが増えるほど、できないことも前より分かりやすくなってきた気がする
「今日は第二水場行く?」
「ああ、その前に少し試したい」
「魔法?」
「うん」
ルッカの耳がまた動いた
最近、俺がそう言うと少し離れる
別に危険なことばかりしているつもりはない
……つもりはないんだけど
一度、進化後の《風圧》を以前と同じ感覚で使ったら、落ち葉を吹き飛ばすつもりが、その向こうの細い枝までまとめて揺らした
火弾も似たようなものだった
魔力を込めれば、それだけ大きくなる
以前よりずっと
そして、大きくなった魔法は当然のように、以前より魔力を食う
強くなった
それ自体は間違いない
でも、強くなったから毎回全力で使えばいいという話でもない
むしろ逆だった
今の俺には、強くするより先に覚えないといけないことがある
どれくらいなら十分なのか
それを確かめることだ
岩陰から少し離れ、木の少ない場所へ出る
ルッカは何も言わず、さらに数歩下がった
「そんな離れなくても大丈夫だぞ」
「前も言った」
「……はい」
何も言い返せない
俺は片手を前へ出した
まずは《水球》
手の前に水が集まり始める
以前と同じくらいのつもりで魔力を流しただけなのに、水球はすぐに拳より大きくなった
そのまま流せばもっと大きくできる
止める
浮かんだ水球を見る
「これなんだよな」
「何が?」
「大きすぎる」
「水、多い」
「そう、それ」
水を運ぶなら便利だ
洗うときにも使える
火を消すときだって多い方がいい場合はある
でも、全部がそうじゃない
小さな器へ水を入れるのに、大きな桶をひっくり返す必要はない
魔法も同じだ
俺は水球を少しずつ小さくしていく
形を崩さないよう、《魔力制御》を意識する
拳ほど
さらに半分
そこから少し小さく
小さくするだけなら、それほど難しくない
問題は、そこへ魔力をどれだけ使っているかだ
同じ量の水を作る必要はない
同じ力を込める必要もない
なのに、進化してからは少し気を抜くと、以前より多くの魔力を流してしまう
身体が強くなったせいで力加減が変わったのと似ている
「もう一回」
水を地面へ落とし、今度は最初から小さく作る
少ない魔力で形を作る
小さな水球が浮かんだ
さっきより楽だ
「これならいい」
ルッカが近づいてくる
「何が違う?」
「同じ水でも、使ってる魔力が少ない」
「小さいから?」
「それもあるけど……」
言いながら、俺は自分でもうまく説明できないことに気付いた
小さくしたから魔力が少ない
それは当然だ
俺が気になっているのは、その先だった
例えば《火弾》
これも進化後は大きくしやすくなった
大きな炎を飛ばせば威力は上がる
でも、大きい分だけ狙う場所も広くなる
森の中では使いにくい
敵一体を倒すために周りまで燃やしたら意味がない
必要なのは、大きさじゃなくて威力だけを上げる方法じゃないのか
「小さいまま、強くできないかなって」
「水を?」
「水もだけど、魔法全部」
ルッカが水球を見る
「小さいのに強い?」
「そう」
自分で言っていて、少し変な気もする
でも、前世でも似たようなものはいくらでもあった
水道の水だって、口を広く開けて流すのと、細いところから勢いよく出すのでは違う
ホースの先を指で狭めれば、水が遠くまで飛ぶ
洗うだけなら広く流せばいいし、泥を落としたいなら細く強く当てる
同じ水でも使い方が違う
それなら魔力も、ただ広げるだけじゃなくて、狭いところへ集めれば何か変わるんじゃないか
「ちょっとやってみる」
「危ない?」
「分からないから、離れてて」
「やっぱり」
「今回は俺から言っただろ」
ルッカが離れる
俺は手の前に小さな水球を作った
さっきと同じくらい
そこへ、もう少し魔力を流す
水球が膨らみ始める
「違うな」
止める
俺がやりたいのはこれじゃない
魔力を足したら大きくなる
今までずっとそうしてきた
火弾も、水球も、風圧も
必要な形を作り、そこへ魔力を流す
強くしたければ多く流す
結果として魔法自体も大きくなる
だったら、大きくならないよう押さえたまま、魔力だけ増やせばいいのか
「……簡単に言うけど」
水球へ意識を集中する
大きくなるな
この大きさのまま
形を保つ
少しだけ魔力を増やす
水球の表面が揺れた
膨らみそうになる
押さえる
すると今度は、横へ歪んだ
「あ」
形が崩れ、水が地面へ落ちる
ルッカがこちらを見る
「失敗?」
「失敗」
「もう一回?」
「もちろん」
今度はさらに小さな水球を作る
魔力を足す
膨らむ
押さえる
歪む
崩れる
三回目
同じ
四回目は、少しだけ保てた
ほんの一瞬
小さな水球の表面が細かく震え、その内側に何かが詰まっているような感覚があった
次の瞬間には弾けた
顔に水がかかる
「……」
少し離れたところから、ルッカがこっちを見ている
「笑っていいぞ」
「もう笑った」
「早いな」
袖で顔を拭く
でも、悪くない
少なくとも、完全に何も起きなかったわけじゃない
一瞬だけ、いつもの水球とは違った
あれが何なのかはまだ分からない
圧力なのか
魔力そのものが詰まったのか
ただ制御に失敗して不安定になっただけなのか
今の段階では何とも言えない
だからこそ面白かった
「もう一回やる?」
ルッカが聞く
俺は手を開いたり閉じたりして、身体の感覚を確かめる
まだ余裕はある
でも、同じ失敗を何十回も繰り返す必要はない
「今日はここまで」
「珍しい」
「俺だって学ぶんだぞ」
「知ってる」
本当に知っているのか怪しい返事をされながら、俺たちは第二水場へ向かった
進化してから数日
歩く速度も少し変わった
最初は無意識に歩幅が大きくなり、ルッカとの距離が開くことがあったが、今はだいぶ合わせられる
森の中を進みながら、俺は周囲へ意識を広げたり狭めたりした
魔力を感じる範囲も、進化前より扱いやすくなっている
ただ、遠くまで広げればいいわけではなかった
広く探ろうとすると、その分だけ一つ一つの感覚が薄くなる
近くへ集中すれば細かく感じるが、当然ながら遠くは分からない
これも同じだ
広げることと、狭くすること
強くなった今だからこそ、その使い分けが必要になる
第二水場へ着く頃には、人の声が聞こえてきた
正確には、人とゴブリンの声だ
森の中にある水場として考えれば、ずいぶん賑やかになった
それでも村ではない
誰かがここで暮らし続けているわけでもない
必要なときに来て、水を使い、道具を使い、情報を置き、またそれぞれの場所へ戻っていく
以前より物は増えた
棚もある
道具小屋もある
救護に使うものをまとめた場所もある
でも、それらは誰か一人のものではない
俺がいなくても使われるし、俺が触らなくても戻されるものが増えた
水場へ入ると、エナが布を広げて確認していた
その少し先ではローデンが小屋の側面を見ている
ダリオは水場へ来た誰かと話していて、ミラは紙を一枚手に持っていた
「おはよう」
ミラがこちらに気付く
「おはよう、今日は遅かったですね」
「ちょっと魔法で遊んでた」
「研究と言わないんですか?」
「まだ水を顔に浴びただけだから、研究って言うのは恥ずかしい」
横でルッカが言う
「四回」
「数えなくていいから」
ミラが笑う
「何をしていたんです?」
「小さい魔法を、小さいまま強くできないかなって」
「小さいまま?」
俺は水球を作る
今度は普通の小さなものだ
「今までは魔力を増やすと、これ自体が大きくなるだろ」
「はい」
「でも、大きくしたくないときもある」
ミラは少し考える
「攻撃するときですか?」
「それもあるし、普段使うときもかな」
水球を消す
「進化してから、前と同じ感覚で使うと出力が大きくなりやすいんだよ」
「便利になったと思っていました」
「便利だよ、でも燃費が悪い」
「ネンピ?」
「ああ……」
しまった
たまにこうなる
「同じことをするのに、使う魔力が多いって意味」
「なるほど」
ミラはすぐ理解した
「前より多くできるから、必要以上に使ってしまうということですね」
「そう、それ」
言葉にしてもらうと分かりやすい
強くなったから使える量は増えた
でも、必要以上に使えば減るのも早い
戦っている最中ならなおさらだ
大きな一発を撃って終わる相手ばかりとは限らない
それに森の中では、火でも風でも土でも、周囲を巻き込みすぎると困る
「で、小さいまま中身だけ増やせないか試してた」
「できたんですか?」
「水をかぶった」
「失敗ですね」
「一瞬だけ違う感じはしたんだけどな」
そこでエナがこちらへ歩いてきた
「顔、濡れてる」
「水球」
「怪我?」
「してない」
「ならいい」
確認が早い
俺が何を試していたかより、怪我があるかどうかが先らしい
エナは俺の顔と手を見て、本当に何もないと確認すると布の方へ戻った
俺も後ろをついていく
「何してる?」
「使った布、確認」
広げられた布の中には、洗ったものと、もう使わない方がよさそうなものが分けられていた
「足りる?」
「今は」
「足りなくなりそう?」
「傷、多いと足りない」
それはそうだ
何も起きなければ減らない
でも、誰かが怪我をすれば一気に使う
空間収納にもいくらか入れている
そもそも今の俺は、空間収納がどこまで入るのかすら正確には把握していない
使えているから使う
必要なものを持ち運べる範囲で使う
今はそれで十分だ
「今度、フェルナ方面から来る人がいたら布のこと聞いてみようか」
エナは少し考え、頷いた
「清潔なの」
「そこ大事だな」
布なら何でもいいわけじゃない
この辺りは完全にエナの領分だ
俺が《治癒》を使えても、傷口が汚れていていい理由にはならない
少し離れた場所では、ローデンが道具小屋の柱を押していた
「何か壊れた?」
「壊れてない」
「じゃあ何してるんだ?」
「見る」
「何を?」
「地面」
分からないので隣へ行く
ローデンは柱の根元を指した
少し土が沈んでいるようにも見える
言われなければ気付かない程度だ
「雨?」
「たぶん」
「直す?」
「まだ」
ローデンは周囲を歩き、別の柱も確認する
「ここだけ直すと、ずれる」
「なるほど……?」
分かったような顔をしたが、半分くらいしか分かっていない
土なら俺が動かせる
固めることもできる
でも、どこをどう直せば長く保つのかは別の話だ
適当に《土締め》を使って柱の周りだけ固めれば、別の場所に負担がかかることだってあるのだろう
「必要になったら言って」
「ああ」
俺ができるのは、ローデンが必要だと判断した場所へ魔法を使うところまでだ
便利な力ほど、使う場所を間違えると面倒になる
朝から考えていたことと、ここでも同じだった
強いかどうかより、どう使うか
水場の端では、試験栽培の区画が少しずつ形を変えていた
順調に育っている株もあれば、明らかに弱っているものもある
全部が順調というわけではない
むしろ、うまくいかなかったところが残っているから、まだ試験なんだと思う
しゃがみ込み、葉を見る
「こっちは前より伸びた?」
ミラが隣へ来る
「伸びています、ただ、向こうは少し悪いですね」
「水の量かな」
「それだけではないと思います」
「土?」
「可能性はありますけど、私には分かりません」
その言い方は正しい
俺も分からない
前世で植物を育てる仕事をしていたわけじゃない
水をやれば育つほど単純じゃないことくらいは知っているが、何が足りないのかを葉だけ見て判断できるほど詳しくもない
「とりあえず、水はいつも通りでいいか」
「はい、多くしすぎない方がいいと思います」
水やりには、最近覚えたやり方を使う
《水球》で必要な水を作りながら、《土成形》でごく狭い範囲の土を少し調整する
水が一か所へ溜まりすぎないよう、流れだけを変える
二つを同時に扱うのは、最初より楽になった
それでも長く続けると頭の奥が疲れる
水を維持しながら土を動かす
二つを別々に考えているつもりでも、どこかで意識が引っ張られる
片方へ集中しすぎると、もう片方が雑になる
「……まだこれくらいだな」
「何がです?」
「二つ同時に使うの」
ミラが足元を見る
「十分便利だと思いますけど」
「便利ではある」
水と土
単純な作業
狭い範囲
短い時間
今できるのはそこまでだ
これで何でもできるようになったわけじゃない
ましてや、二つの魔法が一つになったわけでもない
水球は水球
土成形は土成形だ
同時に使っているだけ
それでも、できることが増えているのは確かだった
水やりを終えたところで、ダリオがこちらへ来た
「セイジ」
「ん?」
「少し来てくれ」
声がいつもより低い
俺とミラが立ち上がる
ダリオが向かったのは、水場の端に置かれた簡単な情報置き場だった
そこには木片や印を付けた紙、森で見つけたものなどが置かれることがある
最近は俺たち以外も、危険な場所や変わったことがあれば何かを残すようになっていた
ダリオが一つの木片を手に取る
傷が三本入っている
俺にはそれだけにしか見えない
「これ、あの三体のどれか?」
「分からない」
そう言ったのはルッカだった
いつの間にか後ろへ来ている
「同じやつかは分からない、でもゴブリンが置いた」
過去に何度か第二水場を使っている三体
そのうちのどれが置いたのか
あるいは別のゴブリンなのか
そこまでは分からないらしい
「意味は?」
ダリオが森の奥側を指した
「危険だろう」
木片の傷だけでそこまで分かるのかと思ったが、隣には折れた枝と、黒っぽい毛の束が置かれていた
ルッカが毛を取る
匂いを確かめる
すぐに顔を上げた
「知らない」
「ルッカでも?」
「知らない匂い」
「この辺りにいないやつ?」
「たぶん」
また、たぶんだ
でも今度のたぶんは少し重い
ダリオが言う
「今朝来たゴブリンが、奥を何度も見ていた」
「何か話した?」
「言葉はほとんど通じない、だが近づくなという仕草はしていた」
「森の奥に?」
「そう見えた」
俺は木片を見る
前にも危険な経路を伝え合ったことはある
言葉が十分に通じなくても、避ける場所や安全な方向くらいなら何とかなる
それをわざわざここへ残したということは、少なくとも何かを気にしている
「行って見る?」
俺が言うと、ダリオはすぐには頷かなかった
「今すぐ奥へ入る必要はない」
「うん」
「まず何が変わったかを確認する」
そういう判断になる
俺なら気になったら見に行きたくなる
でも、ダリオは順番を決める
情報が足りないなら集める
危険が分からないなら、いきなり中心へ近づかない
「ルッカ」
ダリオが呼ぶ
「ああ」
「見られる範囲でいい」
「分かった」
ルッカが毛を持ったまま歩き出す
俺もついていこうとしたが、ダリオに止められた
「セイジは待て」
「俺も行った方がよくない?」
「痕跡を見るだけなら、人数が増える方が邪魔になる」
「……はい」
今日二回目だ
強くなったからといって、何にでもついていけばいいわけじゃない
分かってはいる
分かっているんだけど、少しくらい役に立ちたい気持ちはある
ルッカが戻るまでの間、俺は水場の周囲を見て回った
他のゴブリンが使ったらしい器が棚へ戻されている
位置は少しずれている
でも戻してある
水場の端には、小さな木の実がいくつか置かれていた
誰かが何かを使った代わりに置いていったのかもしれない
そこまでは分からない
それでも、少し前ならなかったものだ
俺たちがいない間も、ここは使われている
誰かが勝手に全部持っていくわけでもない
使って、戻す
足りないものがあれば、たまに別のものが増えている
決まりを書いた紙があるわけじゃない
守らなければ罰を受けるわけでもない
それでも続いている
俺は棚の位置を少し直した
最初は自分たちのために作った場所だった
今は、誰かが来る前提の場所になりつつある
でも、ここを大きくしたいとは思わない
少なくとも今は
家にするなら岩陰がある
ここは帰ってきたときに顔を合わせたり、必要なものを使ったり、何かあれば情報を残したりする場所でいい
全部を一つへまとめる必要はない
それも、最近分かってきたことだった
昼を少し過ぎた頃、ルッカが戻ってきた
一人ではない
ダリオも途中から合流したらしい
二人の顔を見て、俺はすぐ立ち上がった
「何かあった?」
「ある」
ルッカは短く答えた
「何が?」
「跡」
「何の?」
「いろいろ」
一番困る答えだ
ダリオが代わりに説明する
「この近くまで来ているわけではない、だが奥へ続く場所に普段より多く痕跡があった」
「多い?」
「種類も数もだ」
ルッカが地面へ棒で線を引いた
第二水場らしい位置に丸
そこから森の奥へ線を伸ばす
少し離れた場所へ印を付ける
「ここ」
「この辺に跡があった?」
「ああ」
さらに別の印
「こっちも」
「同じ魔物?」
「違う」
「何種類くらい?」
ルッカは指を折り始めたが、途中で止めた
「分からない」
「そんなに?」
「重なってる」
それは少し嫌だ
一種類の群れが移動したなら、まだ理由を考えやすい
複数の種類が同じ方向へ動いているなら話が変わる
「どっち向き?」
俺が聞くと、ルッカは地面へ引いた線を、奥からこちら側へなぞった
「こっち」
「森の奥から?」
「ああ」
俺はダリオを見る
「偶然じゃない?」
「まだ分からん」
「いつから?」
「それも分からん」
安全な答えしか返ってこない
でも、その方がいい
分からないなら分からないままにしておく
俺は線を見つめた
森の奥から、外へ
俺たちが普段使う場所へ直接来ているわけではない
今すぐ第二水場が危険という話でもない
ただ、動きがある
「前からこういうことあった?」
ルッカが首を振る
「少しならある」
「少しなら?」
「獲物追う、逃げる、場所変える」
「今回は違う?」
「多い」
それだけで十分だった
普段から森を見ているルッカが多いと言う
そこには俺よりずっと重みがある
俺は試しに魔力感知を広げた
水場の周囲
森の中
少し遠く
いくつか小さな反応がある
でも、それだけだ
さっき話していた痕跡の場所まで、正確に何がいるかを追えるわけではない
方向も距離も、今ここにある反応なら大まかには分かる
けれど、通り過ぎたものは分からない
足跡も残らない
匂いも残らない
やはり俺の感知だけで森を調べるのは無理だ
「もっと外側は?」
ルッカが俺を見る
「外?」
「森の端」
「そっちは見てない?」
「まだ」
ダリオが頷く
「奥からこちらへ移動しているなら、さらに外へ出ている可能性もある」
「森の中だけで止まってるかもしれないし、そのまま抜けてるかもしれないってことか」
「そうだ」
それなら確認する場所は奥だけじゃない
むしろ、いきなり奥へ行くより、外側を見る方がいい
どこまで動いているのか
森の端では何が起きているのか
そこなら、人間側の道や村への影響も関係してくるかもしれない
ミラも同じことを考えたらしい
「外へ出ているなら、フェルナ側でも何か情報があるかもしれません」
「町の人が気付いてる可能性ある?」
「街道近くなら、あり得ます」
「それなら余計に見たいな」
ダリオはすぐに返事をしなかった
周囲を見る
水場
道具
試験栽培
ここにいる全員
それから俺たちへ視線を戻す
「今日は行かない」
「分かった」
今度は素直に答えた
準備なしで動く話じゃない
どこを見るか
誰が行くか
何を持っていくか
第二水場をどうするか
確認することはある
「明日?」
俺が聞く
「早ければ」
「ルッカは?」
「行く」
即答だった
「俺も行く」
「セイジは当然だ」
ダリオにそう言われて、少しだけ嬉しくなる
当然と言われるくらいには、俺にも役割があるらしい
「ミラは?」
ダリオが聞く
ミラは少し考える
「森の外まで出るなら、行った方がいいと思います、誰かと話す可能性がありますから」
「エナはどうする」
「怪我するなら行く」
「しない予定なんだけど」
「予定は関係ない」
正論だ
ローデンは地面の線を見たあと、道具小屋へ目を向けた
「俺は残る」
「ここの確認?」
「ああ」
「分かった」
全員で動く必要はない
それぞれ必要な場所にいればいい
その日の残りは、大きなことは起きなかった
それでも空気は少し変わった
誰も慌ててはいない
ただ、森の奥側を見る回数が増えた
他のゴブリンが水場へ来たときも、ルッカはいつもより長く様子を見ていた
一体は水を飲み、器を戻し、森の奥を気にするように何度か振り返った
別の一体は小さな木の実を置き、そのまま早めに去った
以前に来た個体と同じかどうかは分からない
分からないから決めつけない
ただ、少なくとも俺たちだけが森の変化を気にしているわけではなさそうだった
夕方
岩陰へ戻る前に、俺はもう一度だけ水場の端へ立った
手のひらを前へ向ける
小さな《水球》
今度は朝よりもっと慎重に魔力を流す
大きくしない
広げない
この大きさの中へ収める
表面が揺れる
少し膨らむ
抑える
形が歪みかけたところで、無理をせず魔力を抜いた
水球が元の状態へ戻る
成功ではない
何か新しい魔法ができたわけでもない
できるようになったことは、何も増えていない
でも、朝より少しだけ分かったことがある
力を増やすことと、大きくすることは、同じじゃなくてもいいかもしれない
まだ、かもしれないだけだ
前世で見たホースの水
細い穴から勢いよく出る水
針のように細い先
狭い場所へ集めれば、同じものでも働き方が変わる
魔力もそうならないだろうか
広げるのではなく、まとめる
大きくするのではなく、狭いところへ押し込む
今の俺にできるかは分からない
やり方も分からない
名前を付けられるようなものでもない
ただ、その考えだけが頭に残った
「また水かぶるぞ」
後ろからルッカの声がする
「今日はかぶってない」
「朝かぶった」
「一日一回ならいいだろ」
「よくない」
俺は水球を消した
森の奥へ目を向ける
木々の向こうは、いつもと変わらないように見えた
葉が揺れ、鳥の声がして、遠くで何か小さな生き物が動く音がする
けれど、そのもっと向こうでは、普段より多くの何かが動いている
奥から外へ
理由はまだ分からない
危険なのかどうかも、まだ分からない
だから確かめる
今度は森の奥へ突っ込むのではなく、外側から
俺には帰る場所がある
岩陰がある
第二水場がある
戻ってくる相手もいる
だからなのかもしれない
以前より、外へ出ることが怖くなかった
強くなった身体をどう使うのか
強くなった魔法をどう使うのか
その答えを探す場所は、ここだけじゃない
俺はルッカと並び、岩陰へ戻る道を歩き始めた
明日は、森の外縁を見る




